カテゴリー: エッセイ

月の面を見ることは

 今晩の月は中秋の名月にあたるという。もっとも月齢は15ではなく、満月は明日だ。太陰太陽暦の15日が今日に当たるため、実際の月齢との差が生じている。これは歴史的には普通であり、むしろ名月が満月であるときの方が少ないようだ。

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 竹取物語には満月を見るのは忌むべきことという件がある。かぐや姫の昇天を前にした場面の話であり、その分割り引かなくてはならないが、おそらく古代のある時期までには月を直接見ることは避けるべきだという考え方があったに相違ない。禁忌と崇拝は紙一重である。おそらく月に対する信仰が頂点に達すると月を見てはいけないという考え方に結び付いたのではないだろうか。

 月のない夜を闇夜というのはずいぶん詩的な表現に感じるが、人工的な光がない場所に行けば月光の明るさはとても頼もしいものに感じる。月光への依存はすぐに神格化につながり、それがやがては月光を直接見てはならないという禁忌につながることは容易に推測できる。

 月の満ち欠けを暦として使っていた時代の人々にとって、月齢は農事暦と直結する。月が生活を支えるものと感じられるのは自然の成り行きだろう。現代人はこの点についてはすっかり忘れてしまった。月齢を気にしているのはそれが記されている暦かムーンページメントのついた時計の持ち主くらいだろう。おそらく月見の行事は貴族が発見したとしても、それを真剣に伝えたのは農民たちだと考える。収穫への感謝や来年への豊作祈願の思いがこの行事を下支えしてきたのだろう。

 今晩月見ができるかどうかわからないが、この異常気象の中で何とか生活を保てていることをまずは感謝しようと思う。






デッサンの力

 水彩画を鑑賞してつくづく思うのはデッサンの能力が大切ということだ。目前の対象を2次元に変換することは容易にできるものではない。デッサンの文法とでもいうべきものを理解し、さらにその上の飛躍を狙わなくてはならない。

 私は絵画を観るのは好きだが描く方はからきしである。それでもなんとか自分らしい表現はしたいと思い、稚拙なスケッチを繰り返している。その種の指南書も買ってなんとかしようとしたが今のところ、なんともなっていない。

 おそらく、対象との向き合い方が足りていない。趣味の程度と考えている時点で真剣味が欠けている。本当に絵画で何かをしようという思いが圧倒的にない。画家の作品を観るとそれを痛感する。彼らの作品には人生のかなり多くの比率の凝縮したものがある。

 デッサンというのは対象に対する画家の解釈を表すものだ。世界をどのように捉えたのかという解答のようなものだ。鑑賞する者はその解釈を通して世界を見る。そこに共感できれば表現は倍増する。

鱗雲

鱗雲

 昼下がり、空を見上げると鱗雲に覆われていた。この雲の形は秋によく見られるものという。日中の暑さは残暑そのものなのだが、季節は確実な進んでいるようだ。そう思うと少し気持ちが改まる。

 

書き込むこと

 原稿用紙なりノートなり手帳なりに自分の考えを書き込むことがやはり大切なのだ。デジタルデバイスの普及で私自身もノートや手帳を広げる機会が減っている。

 紙の上に書くのは、現状ではデジタルよりも曖昧で自由な情報がこめられることにあるのだろう。字の大きさや濃淡、不規則な線や、直感的な図など、完全に言語化しにくいものまでを紙面では実現できる。それが表現の多様性を確保しているのである。

 作家の創作メモを文学館などで目にすると、細かいことまで設定しようとしていることが分かることがある。見たこと考えたことを言葉にして書き付けておくことが創作に繋がるのだ。

 私も実は小さなノートをいつも持ち歩いている。ただ、広げても何も書けないことが多い。自分の考えを言葉にしきれないでいるのだ。もう一歩前に進まなくてはならない。

連休

 9月は連休が2回もある。これは設計ミスかもしれない。今年の場合、もともと連休を作るために日にちを移動してきた敬老の日に加えて、秋分の日も日曜に当たるため、振替休日が設定された。

 休みが多いのはいいことだが、曜日ごとに決まったことをする職種にとっては、月曜が集中して削られて行くことは色々な不都合がある。振替休日がなぜ月曜なのかということを考えるべきだ。

 日本は世界的に見ると祝日が多いという。それでは休みが多い国なのかというとそうとも言えない。日本の労働環境では個人が自分の休日を申請することが難しい。制度上は有給制度などがあっても、それを行使するには障害が多い。

 祝日の多い我が国はそれがなければ休むことがままならない。もっと休暇を取れるシステムを各組織が取るべきなのだろう。

太平洋高気圧の功罪

 いつまで「残暑」が続くのかと思ってしまう。長期予報では高温傾向は10月まで継続しそうだという。秋は夏に侵食され、すぐに冬を迎えることになる。

 その原因は太平洋高気圧が日本を覆っていることにあるという。9月に入っても猛暑日となる地域があり、東京もそのわずか手前の毎日だ。夜になっても気温が落ちない。明らかに何かおかしいと感じる。

 ただこの太平洋高気圧のために台風が接近できない。結果的に台風バリアになっている。台風の外周の雨雲を防ぐことはできないが、少なくとも本州地域は台風の直撃を防げている。ならば太平洋高気圧は人間の味方なのではないか。

 

日没

 日の入りの時間が早くなりつつあることを実感するようになった。今日は17時54分だった。日中は相変わらず暑いが、日照時間が減れば少しずつ気温は下がっていくはずだ。

 そういえば空の色も少し変わってきた。とても緩やかだが、夏から秋への移ろいが進んでいる。

自己満足上等

 高温の日々が続いているせいで疲労が蓄積している。暑さのために集中力が失われ、ときに目眩までする。このままでは大きな損失に繋がる。いまは調節が必要だ。

 でも、おそらくもっと大変なのは心の問題なのだろう。9月病などと言われるが、これは中高生だけの話ではなさそうだ。最近、何事にもうだつが上がらないと自覚している私などもその未病者の資格が十分にある。

 周りが自分を評価してくれていないときには、特に落込みがちだ。しかし、誰にも気づかれなくても他人にはできないことをやり続けるのだという気概は持っていたい。すぐに結果を求めるのが最近の風潮だが、そんなうわついた評価はこちらからお断りするべきだろう。

 他の人にはできない何かを愚直に続けるしかない。たとえ誰にも評価されなくても、少なくとも自分は満足できる。それでいいのだ。自己満足できる何かを続けていく。そこに中断の合図がでたら、そこで身を引けばいいだけだ。

二桁になったのに

 9月10日とは思えない猛暑である。身体が暑熱順化した後なので耐えられるが、それにしても暑すぎる。こどもの頃の土用の陽気だ。

 はるか南海上で台風の素が発生しており、沖縄に影響を与える可能性があるという。そのために起きる気流の影響で今月末まで残暑?が継続するらしい。まだ暑さとの闘いは続く。

 このところ休みなしで働き、久しぶりの休日だが、この暑さだと外出も躊躇われる。程よく過ごせる日はまだ来ないのか。

別の物差しがある

 自分らしい表現の仕方ができないと実力が発揮できない。他人の決めたやり方に沿って物事を進めるのは、許容範囲にあるものならば楽でよい。いちいち何をやるのか決めなくてもいいからだ。

 でも、それが自分のやりたいことなり、適性なりから大きく外れているときにはかえってその人の存在を小さくしてしまう。いつもあの人は消極的だとか、能力的に劣っているとか言われている人も、やり方を自分で選べるようになるととたんに才能を発揮することがある。

 やりたいことと、取るべき方法と、その結果とはなかなか良いふうには組み合わされない。なすすべはない。が、少なくとも一つの物差しだけで自他の能力を評価することはよしたほうがいいようだ。見方を変えて違う自分を、別の他人を見つける方がいい。