寝相が悪かったせいなのか腰のあたりの筋肉を痛め、軽いぎっくり腰のようになってしまった。情けない歩き方になっている。これはやがて治るだろうが、治らなくなったときが老いというものになるのだろう。その意味では将来の予行練習をしているのだとも言える。何事も考え方次第、少し時間を俯瞰する機会を得たということにしよう。
塩分と水分
熱中症の発生しやすい季節になった。梅雨明けも近そうで湿度の高い暑さが次第に力を増しつつある。この時期は水分補給がかなり重要だが、単なる水では症状を悪化させることもあるそうだ。過度に給水すると血中の塩分濃度が下がり、余計に負担をかけることになるらしい。スポーツドリンクのようなものがいいという。普段は塩分に関しては摂りすぎないように心がけているが発汗の多い季節は別なのだそうだ。気をつけようと思う。
スニーカー通勤
最近、スニーカーを履いている女性が増えている。それも通勤時にスーツと積み合わせている人も多い。私は個人的にはいいことだと考えている。
働く女性の靴といえばヒールの高いものとかつては決まっていた。おしゃれというより一種のルールとしてヒールのある靴は当たり前とされていたのだろう。身体によくないことは明らかだし、運動能力も低下してしまう。スニーカーはそうした弊害を除くには当然の履物だ。
ただ、いまだスニーカーの選択には考慮すべき点があるように感じる。着ている服とのコーディネートを考え色や形を選ぶべきだと思う。スーツに合う履物をデザインすることも必要であろう。
少し心配なのは、ハイヒールに代わるものとして超厚底の靴を履く人がいることだ。身長を高くし、足を長く見せる効果はある。ただ、重心が上に行くことによる危険性の方がはるかにまさるのではないか。
履物とは何なのか再考しなくてはならない。日ごろからいろいろな履き替えを要求されているからであろうか。大変気になる問題なのだ。
デジタル文字を見て
駅の電光掲示板を見ていたら、ドットの作る文字が、実は随分大雑把なものであることに気づいた。日本語にはひらがなや漢字の一部の画に曲線を描くものがあり、多彩だ。それを限られたドットで表現するのはかなりの工夫が要る。
でも、それほど多くはない点の集合の組み合わせでみごとに文字が表されている。不自然を感じない曲線が映し出されている。
でもこれをよく見れば、結構抜けている部分がある。にもかかわらずそれに不自然を覚えず、読めてしまうのは、文字というものは、ある要素さえ抑えて入れば少々おかしな形でも読めてしまうことを意味する。足りない要素があるのに読めてしまう。
おそらく省略された文字の部分は脳が補完するのであろう。それを逆算してデジタルの文字はできているようだ。
七夕の短冊
七夕であったが曇天で星は見えなかった。旧暦の中で伝えられてきた行事であるから、梅雨の季節の中に本来あるべきではないのだ。
七夕伝説は中国から伝来したものである。ただ、当の中国では七夕は恋人たちの祭りのようなものになっているらしく趣が異なるようだ。我が国の行事も歴史的な変遷の末に今の形になっている。短冊に願い事を書くというのは江戸時代である。その願い事も字や裁縫の上達といったことが中心だった。
商店街に飾られた笹の先につけられた短冊をみると、入学試験合格から家族円満、蓄財の願いなど様々だ。世界平和とあるのはかつては大袈裟と思ったが、近年は切実な祈願と言える。本来の歴史とはかなりかけ離れたが、星に願いをかける切実さは紛れもない事実だ。
紫陽花の剪定
紫陽花を来年も楽しむためには、花期が過ぎれば思い切って剪定してしまうのがよいらしい。そのままにすると、養分が次の花にゆくのを阻害してしまうというのだ。色褪せてからの花にもそれなりの風情はあるので名残惜しいものである。
野生のガクアジサイの類はそういう人為は受けていないから、それなりに咲くことはできるのだろう。あくまで園芸品種的な咲かせ方として、剪定が不可欠ということになる。
紫陽花は品種改良が極めて進んだ植物であり、庭園に咲く花もその末のものが大半で野生の逞しさは失われているのかもしれない。にもかかわらず、毎年花をつけるのは、園芸師たちの地道な仕事の成果なのであろう。

アザミは野趣に富む花
路傍のノアザミに感動することがある。アスファルトのわずかな隙間を割って生えているのに、その風貌は極めて特殊で、野趣に富むということばはこの花のためにある形容である気がしてならない。全身とげだらけようでありながら、どこか可憐な面もある。その棘は煮れば柔らかくなり、食用にもなるという。
万葉集にはアザミを詠ったものはないが、在来種であることはほぼ間違いないらしい。今頃咲いているのはノアザミという種で、国立科学博物館のサイトでは日本固有種と認定している。万葉に詠まれなかったのは、むしろ日常的な植物であり歌語になり得なかったからかもしれない。
他の植物とは異なる姿が印象的なので、いわゆる雑草のなかまとは思えず、特別扱いしてしまう。花が終われば特徴的な綿毛ができるのも興味深い。長い間、生存競争を生き抜いてきた植物のたくましさを感じる。もっともそれはアザミだけではなく、すべての動植物に共通するのであるが、この花にはどこか野生を感じさせる何かを感じるのである。
来週は猛暑の予報
このところ涼しい日が続いている。何でも14年ぶりの低温なのだそうだ。ここ数年は6月も真夏のような暑さとなることが多かった。このブログでも、蝉の鳴かない夏が終わって、その後蝉の鳴く夏になると書いたことがある。今年はそれはなかった。
欧州では記録的な猛暑で、英仏各地だけでなく、北欧でも日本でいう真夏日、猛暑日となっている。学者によれば人為的要因の可能性が高いとか。化石燃料の使用中止を訴える論文も多数出ているらしい。これは地球規模で進行している。戦争などしているときではないのだ。
現在、日本のはるか南海上で猛烈な台風が発生している。日本列島への影響も可能性大だそうだ。この台風の影響で気圧配置が急激に変化することも猛暑の銃爪になるそうだ。
避暑できる所はない。ブログの名は架空の別荘をイメージしたものだが、本物が欲しくてたまらない。私の身の上では反実仮想の願望しかできないけれども。
意外な結末
愛用している腕時計はスマホのアプリを通して時刻合わせをする。太陽電池なので電池交換もいらず、重宝して「いた」。ここにきて意外な展開が訪れている。時計本体には何の問題もないのだが、アプリの方が最近のスマホのOSに対応することを放棄してしまったのだ。
対応するアプリをインストールしようとしても上手くいかない。起動しないのである。すでに数秒の狂いが出ている。クオーツの時計を使っていた頃は秒単位の差は無視していた。というより違うのが当たり前だった。ところがいわゆるスマートウォッチを使い始めてからは、まさに秒針と時報とが一致するのが当たり前になり、数秒の狂いが許せなくなっている。
時計本体が故障したならまだ諦めがつくが、このような始末になるとは予想がつかなかった。メーカーにはせめて時刻合わせだけでもサポートしてもらいたいと言いたい。スマホもコンピューターも定期的に買い替えることが求められている中で、時計と万年筆は長く使い続けたいと考えているのだが、どうもそんなには甘くない。「スマート」であることを諦めて別の意味で賢い判断をして昔の時計に戻ろうかと考えている。
傘袋の文字
百均で買った傘袋は意外に役に立っている。電車通勤途中、しかも混雑している路線を利用している私にとって濡れた傘の扱いは厄介なのだ。厚めのビニール生地でできている傘袋は防水性があり、濡れた傘を入れられ、そのままリュックのサイドポケットに入れられる。
この傘袋には文字がプリントされた生地が縫い付けられている。もっと自分らしく、雨の日には晴れの日とは違う何がある、といった内容である。この手の文字は模様として考えられているので大抵無意味なものが多いが、この傘袋の「メッセージ」はなかなかいい。
晴雨も運不運もあざなえる縄のごとし、何がよいか悪いかは簡単には決めつけられない。
