単純作業なれども

 私の仕事の中には驚くべき単純作業も含まれている。それも短時間で仕上げなくてはならないものもあり、それをやることは体力とそれにも増して気力がいる。人工知能がかつて何時間もかかって行っていた作業を、分足らずで終えてしまうのをみると、こういう作業をする気持ちがわかなくなるのは確かだ。ただ、現段階ではどうしても機械に代替できない単純作業もある。

 単純作業と述べたが、実はそれを通して事態を俯瞰的に捉えるきっかけになっていることもある。細部に焦点を当てていると見逃してしまう全体の傾向とか、問題点といったものが見えることもあるのだ。だから、まったく無駄なことをしている訳ではない。

 問題はなかなか成果を実感できないことや、時間がかかり過ぎることだ。これが徒労感を生んでしまう。まずは始めと終わりの時間を決めてやること、途中再開が滞りなく行える工夫をすることだろう。さらに何らかの意味を確認することも大事だ。

 地道に何かを続けることが評価されにくい風潮にあるが、そんな時代であるからこそ、仕事を省略しないことの意味もあるはずなのだ。

花粉症

 このところ花粉症に悩んでいる。風が強い日々がそれを深刻にしている。対策薬が効かない時間帯があるのが悩みである。毎年のこととはいえ、実に困ったことである。

体感温度

 今日は気温とは違ってとても寒く感じる一日だった。ここ数日の高めの気温に身体が慣れてしまったことと、少し強めの風が強く体温を奪ったことがその印象を強くしたのだろう。体感温度なるものは極めて相対的なもので、絶対値で表される気温とはかけ離れていることが多い。

 体感というもっとも身近なものでさえ、私たちは他との関係で捉えているのである。真冬の中の小春日はかなり暖かく、猛暑の日々に少しだけ気温が下がる日があれば命救われるような涼風に感謝するに違いない。体感は実に相対的であり、自身の絶対的な基準は儚く消え去る。

 自分の感覚は大切にしなくてはならないが、それが極めて相対的であり、感覚もまた文脈に左右されるものであることを時々確認しなくてはならない。

雨の一日

 雨の一日だった。少し薄い上着に替えたことを後悔しつつ、それでも何とか乗り越えられる季節になったということなのだろう。毎日が慌ただしく過ぎていく中で、いろいろのことを見落としながら日々を過ごしている。

左方上位は世界的には少数派

 雛飾りの置き方に関しては様々な意見がある。ただ伝統的な考え方では左の方が上位というのが日本の作法だ。令制でも左大臣の方が上位である。この作法は大陸から伝来したようだ。

 ところが中国でも元や清などの北方系の民族は右方優先の考え方である。欧州の大半の文化においても右が優先順位にあり、日本の左優勢は世界的にみれば少数派なのだという。

 普段の食事でも主食のご飯は左に配膳する。意識はしていないが主食にふさわしい位置を考えているのかもしれない。舞台でも役者から見て左側を上手といい、賞状などを受け取るときもまず左手を出す。日本文化には左上位の文化が根付いており、無意識のレベルからそれが刷り込まれるのである。

 雛人形は関西と関東では飾り方が違うという。関西は伝統的な左上位の並べ方をするのに対し、関東では右が上位ということだ。東京は欧州風の配列にならったと言われる。確かにいまでも海外に皇室が訪問したときは、欧州風の並び位置で対応するのだという。天皇ですら、気を使う。これが日本の文化のあり方なのだ。

 

イラン攻撃は許されるのか

 アメリカとイスラエルの連合軍(事実上)がイランの首脳部を急襲して殺害したというニュースは、かなり衝撃的であった。圧倒的な兵力差があったとはいえ、簡単に他国の中枢を葬るという手法は許されるのだろうか。民主主義の標榜する国家のやり方とはとても考えられない。

 この手法を我が国に例えれば、他国にとって都合の悪い政権が支配すれば、他国が圧倒的火力で永田町を攻撃し、その政権を排除するというようなことだ。多少の予告はあるだろうが、対策を立てる前に攻撃は終わっている。民間人にも多数の被害が出る。国際関係上、暫くは不利な立場におかれ、復権するまでに国際的地位は下落して復活は困難になる。

 自国の正義を押しつける覇権主義的なやり口は、21世紀にも克服されていなかったのである。世界大戦の可能性を語る人を笑えなくなってしまった。今は冷静に振る舞うしかない。高市首相が持論を展開するのは、我が国が戦乱に巻き込まれる可能性が極めて低いものとの前提に立っているからであった。近年の国際情勢はもっと賢く振る舞うことを要求する。

 私たちはより高度な判断のできるリーダーを見つけなくてはならない。日本を軍事大国にせず、しかも他国に侮られない、むしろ尊ばれる国にするためには、リーダー養成が急務だ。

リーダーはアイドルではない

 イスラエルとアメリカの同盟がイランの首脳を攻撃して殺害したという。ネタニヤフ氏もトランプ氏も自身の進退に関わる選挙を目前としてあるいは利己的な目的でこの戦争を仕掛けたのではないかとも言われている。

 真相は分からないが、どうも権力者たちの横暴がポピュリズムに担保されて歯止めが利かなくなっている現状がある気がする。もしこの推測が正しいのなら、民主主義は重大な局面を迎えている。

 よく分からないが、なんとなく印象がいい指導者に自分の望みを託し、本当にそれにふさわしいかどうかを検証せずに臣従してしまう。あたかもアイドルを推すかのように無批判に全肯定してしまうのは、かなり危うい行動なのだが、それに気づく間もない。

 トランプ大統領が自身の見解をソーシャルメディア垂れ流すように、現今のリーダーは批判の手続きを省略し、とにかく言ったもん勝ちの様態がある。リーダーが正しい判断をできれば何の問題もないが、それができない場合は悲劇が待っている。民主主義の制度設計をした人たちは気づかなかったのだろう。私たちはしばしば間違える。多数決は真実を特定できない。

 これは極めて残念で、信念を挫く事実だ。現在の人知では民主主義が必ずしも最善の方法ではない。寧ろ危険な世界の糸口になっている。多数決は絶対と学んできた真理が偽となったとき、われわれはどうすればいいのだろう。残された手数はほとんど残されていない。

 少なくとも現状が最良の状態とは思わないのが肝要だ。

受験生の頃

 受験生だった年のこの頃はどんなふうに過ごしていただろうか。考えるといまより脳の反射神経なるものははるかに優れていた。分かることも分からないこともはるかに早く見極めがつき、分かることに集中する思い切りもあった。いまの生徒諸君に比べれば、いろいろ情報不足で周囲の人が垂れ流す様々な噂を半ば信じてそればかりに集中することもできた。参考書を何度も解いたり、少し大きめの声で世界史を講談のような調子で覚えたりした。

 2月も下旬なると大抵の大学は試験が終わり、結果も出てくる。私は下旬になっても合否の発表がなく、どうせ浪人だろうと思っていたが、何とか合格を取れた。もっとも行きたかった地方の国立大学も合格できたのだが、親の意見で結局都内の私立に進んだ。学費に下宿費を加えればそれほど差はなくなるし、実家からの通学はあとから考えればかなりお得であったことは間違いない。ただ、そのときはかなり複雑な思いであった。

 3月に卒業式がいきなりあり、同級生男子のほとんどが浪人していたので、遊びにも誘いにくく、孤独になってしまった。英会話、新興宗教の誘いに乗りそうになり、危うく避けて孤独な日々を送った。それが今ごろの季節であったことを少しずつ思い出している。

 受験勉強は集中的にいわゆる学力を伸ばしたのかもしれないが、生きる力とか真実を見抜く能力については成長を期待できない。私にとっては18歳の3月を無事に乗り越えられたことが奇跡のようにも思えてしまう。もし、その年代の方が読者におられたら、もしくはお知り合いにおられたら、是非考えていただきたい。受験勉強は大学に入るための手段の一つであり、それで合格できたからと言って何かが終わった訳ではない。寧ろそののあとの方がやるべきことが多い。高校とはまったく違う大学生活に適応するまでは焦らず、即断せず、本当にやりたいことは何かをよく考えることだ、と。

花咲く春

 昨年の晩秋に植えていた球根がこのところ急に芽を出している。しかも毎日成長しているのが分かる。気温が上がり、雨も降ったので植物にとっては次段階へのキューが出たのだろう。花が咲くまでは楽しみな日々が続く。

 植物だけではなく、いろいろと仕込んできたことが形になるのがこれからの季節だろう。私にとっては日々の生活の中で少しずつ続けてきたことが評価されるのを待つ日々だ。このブログも随分続けている。そろそろ次の段階のための仕組みを始めよう。もっともきれいな花は咲かないが、私にとって少しだけ気が晴れる一瞬をもたらしてくれるはずだ。

 本当はただ連続しているだけの時間なのかもしれない。そこに春を設定することで私たちは随分救われるということは間違いない。

雨降って

 雨が降ったせいなのか、花粉症の症状が少し楽になった。すると、なぜか集中力が上がった気がする。何も良くなった訳ではないのに、悪い状況から抜け出すとなぜかとても良くなった感触になるのだ。

 どうやら、私の感覚というものは随分あやしいもので、極めて相対的に感じ取っている。先日まで耐え難かったものが、それ以下の状態を通過して快適な部類に範疇を変えてしまっているのだ。

 雨が降るのは必ずしも悪いことではない。その後の曇りが期待できるからだ。