漫画、アニメが果たす役割

 アニメが日本文化の宝だと言われて久しい。ただ、私の子どもの頃の評価はアニメはどちらかといえば有害なものでおよそ文化の一角をなすとは考えられていなかった。昭和世代にとってはアニメーション作品は生活の一部とでもいえるものだが、その価値に関してはやはり二流三流の地位を逸脱できず、こっそり見るものという位置づけだった。

 近年、世界市場で戦えるものが少なくなった我が国は長年虐げてきたアニメなどの大衆文化を国の財産であるかのように売り出している。アニメやその原作に当たる漫画は、概して体制批判側であるが、その主張がマイルドであるために為政者の検閲を逃れ続けてきた。我が国のわずかな良さを指摘するなら、この漫画文化をつぶさなかったことだ。海外に展開するのは大いに結構なことだが、その批判精神、場合によつては鋭いレジスタンスの主張を見逃さないでほしい。

 この先日本は賢く立ち回らなければならない。家の支えになる方法は幾通りもある。

危険な暑さ

 日中、近くのショッピングモールを歩いた。かなりの暑さであった。最初は何でもなかったが、次第に気分がおかしくなって行った。幸いすぐに冷房のある所に入れたが暫くは落ち着かない感じがした。

 暑熱順化は済ませたつもりでいたが、梅雨時のやや低温の期間を経てリセットしてしまったようだ。危険な暑さとは絶対的温度だけではなく、変化の度合いによるところが大きいらしい。

 東京はこれから高温傾向が続くようだ。基本的な体力が逓減している身にとって、危険な暑さが続く。慣れることと避けることを巧みに組み合わせて切り抜けるしかあるまい。

音楽で感情を

 管弦楽のコンサートに行った。日本初演の楽曲が披露されたが極めて難解であった。過去の詩人の作品を楽曲にしたものという。複雑な心情を現代音楽の手法で楽曲化したものである。そう思って聴くと少し理解できた気がしたが、やはりよく分からなかった。

 自分の今の心境をありのままに文章にできるかといえば、おそらく無理である。実はこのブログを書くときにそれを目指して何回も下書きをし、推敲することがある。WordPressには下書きの機能があるから、そこにためるのだがいつも採用できない下書きが並んでいる。書いているときには素直に書けたと思ったのだが、一晩熟成すると実は何を言っているのか自分でも分からない。文章作成とは自分の言いたいことを日本語の文法に落とし込む作業だ。それは大抵失敗する。

 文章は言葉で構成されるが音楽は音の塊で、私にはどのように表現していいのか分からない。絵画でもそうだ。ただ、どんな方法であれ、人の心を描くのは難しく奥深い。

ツバメの子

 実家の最寄り駅き今年も複数の燕の巣ができていて、すでに雛が顔を出している。数えたところ6羽いる。親鳥は人の往来を巧みにきり抜けて駅舎の外へと飛び立ち、餌をくわえて戻ってくる。他の鳥や動物が近づけない駅の改札前は燕にとっては安全地帯なのだ。

 巣の下に頭上からの落下物に注意するようにとの注意があり、燕の営巣に協力してほしいとの文言もある。日本ではどこでも見られる光景だが、こうして野鳥との共存ができていることはうれしいことだ。

 

文章を書くという癖

 文章を書くのが好きになったのはいつからだったろう。夏休みの絵日記の類は葉月晦の作になっていた。おそらく日記というものは苦行以外の何物でもなかった。それがブログ書きになっているのはものすごい皮肉な笑い話だ。

 長い文章を書いたのは旅行したときの印象を書き出したことだと思う。図らずも私の日記は紀行文から始まっている。特別な体験は文章に残したくなるというのが自然の成り行きなのだろう。どこそこに着いたとか、何を見たとか、そういう他愛もないことを書いていた。

 ネット時代になってブログという存在に気づいてからは日記というよりは随想を書くようになった。それもこの二十数年の間で少しずつ変化して今の形になった。いまや生活の一部であり、特別な経験がなくてもよくなっている。

 私の場合はこれが存在の自己確認手段の一つであり、明日もまた同じ行為をすることを何となく目標として考えている。すでに癖であるともいえそうだ。

筋肉は少しずつ

 筋肉は使っていないのに衰えるようだ。この表現に伝聞ではなく、推定の表現を使っていることに自分の現状がある。

 筋力の変化は緩やかに進行するので、ある日何かをきっかけに気づくことがある。思ったよりも足が上がらず、歩行が乱れるという現象も、はじめのうちは気づかなかった。普通は起きないのだが、あるとき突然現れる。意識すれば起きないが歩くことは当たり前すぎる行動なので常に注意することもできない。

 筋肉はある程度意識的に鍛えなくてはならないということを最近は痛感している。

猛暑予想

 今日は屋外の仕事があるのだが朝からかなり気温が高い。湿度もかなり高く過酷な日となりそうだ。なんとか身体をごまかしてやり過ごす。それが今日の目標である。

毎日同じ食べ物

 十四松やインコを飼っていたころ時々思ったことがある。毎日同じ餌を食べていてよく飽きないものだと。もちろん時には菜っ葉を入れたりしたこともあるが、ほとんど同じ餌である。犬や猫を飼ったことはないが、多くの場合出来合いのペット用フードで済ませている人が多いことは容易に想像できる。

 しかし、多くの生物は決まったものを補食して命をつないでいる。中には食するものが決まっていて、それがなくなればともに絶滅するというものもある。食べ物を限定しないことは生存の可能性を高めるから、いわゆる雑食は生き残る戦略としては正しいのだろう。その分、雑多なものを消化しなくてはならないというリスクが上がってしまうのだが。

 レベルの違う話になるが、私の最近の食べ物を考えてみれば決して豊富な食事とは言えない。同じような出来合いの料理を定期的に繰り返し食べている気がする。雑食ではあるが、豊かではない。そんな食の日常がある。

 生きていければそれでいいではないか。そういう考え方もある。ただ栄養の合計という訳ではない。何を食べるのか、どう食べたのかがごだわりのあるのが人生というものである。何をどう食べるのかは生き様そのものなのかもしれない。

薔薇園

 この季節はさまざまな花が咲く。園芸品種もいまが一盛りあり、梅雨明けを待つ私たちの心やりとなる。最近、隣接する都市の薔薇園に出かけた。まさに盛りの様相だった

薔薇は奥が深い

 薔薇はさまざまな品種改良がなされ、それぞれに魅力的な名前がつけられている。中にはなぜこの名前がと思うものもある。これはつけたもの勝ちなのだろう。

 薔薇のように管理された園芸品種でなくても、実はさまざまな見どころがある。数日前に書いたアザミなどは野趣に溢れるが見どころは多い。植物にはさまざまな生き残り戦略があるが人間に気に入られることで生き残る品種もあるのかもしれない。コバンソウなどは意図したのかは分からない。結果的に刈りにくい雑草の一つにはなっている。

 薔薇のように長い歴史の中で人間と関わってきた品種は限られている。あるときは薬用、あるときは美の象徴、それが権力の表現にもなり、その都度位置づけを変えてきた。現代においても庭園の主役であり、薔薇に形容されることには大きな称賛の意がある。

 だからこそ、終わることのない品種改良が続けられ、その美しさもはかなさも例えようのない魅力となっている。薔薇園はそういった人為の成果であり、ある意味芸術作品ともいえるものだ。その種が生まれるまでのストーリーを考えると公園めぐりも別の意味を帯びてくる。

現状維持

 現状維持は消極的な目標と考えられてきた。日進月歩は当然のことで、上昇のない成果は失敗と考えられてきた。少なくとも私の世代の常識である。ただ、昨今の状況は違う。現状維持は立派な成果であり、称賛に値するものと考えられるものである。現今を取り巻く状況はかなり厳しい。その中で現状を維持できたのは幾多の努力と工夫の賜物なのだ。

 ダウンサイジングしていく日本の文化においては過去のような成功事例をそのまま当てはめるのは無理がある。過酷な環境に打ち勝ち、別のベクトルを見出してそれを実現できたものこそが成功者なのだ。大量生産大量消費の図式での競争は勝ち目がない。むしろ自分しかできないものを付加価値として打ち出すことが必要になってくる。、