熊本地震の衝撃

 熊本で起きた大地震には驚いた10年ほど前にもあったのに周期が早すぎる。各種のインフラが破壊され、ショッピングモールでは大事故が起きた。今日は猛暑も襲いかかるという。無事を祈るしかない。

 そして、この災害は日本国内であればどこででも起こりうるものであり、今後の教訓とすべきものだ。いつもそう思うのだが、日常の雑事に取り紛れて何もしないまま過ごしてしまう。日本人は災害に対して慌てないのは良いが、対策を怠りがちなのも問題点として挙げられるだろう。

 現地では今がとても大切な時期だろう。私は何もできないが、せめて寄付やその他の何らかの手段でお役に立てることがあればいいと思う。

世が世なれば

 すでに引退した先輩が私を何かと褒めてくれたことばがある。君は世が世なれば大物になっていたはずだと。今風にいえば別の世界線に立てば君は成功者だとでも言うのだろうか。読者の皆さんもすでにお気づきだろうが、ありもしない「世」をどれだけ想定しても、現実世界では虚しいばかりだ。それをたびたび私に話してくれた先輩は、それが思いやりだとお考えだったのだろうか。

 私のこれまでの人生は多くの人に比べてもさほど起伏に富んだものとは言えない。子どものころに転校が多かったこと、最初の定職が地方都市であったこと、さまざまな失敗を積み重ねてきたこと。それらも多くの人に共通することであろう。いろいろな人生の節目で、人生の変節点を感じたこともある。そして別の岐路に行けば違う人生が待っていたはずと思うこともある。

 これも自分だけではなく、どんな人にもあることだ。それなのに、時々別の生き方をしていたらと考えてしまうことがある。今よりもっとましな人生があったのではないかと。先輩の「世が世なれば」という言い方はこうした妄想にやさしくカバーを付けてくれていたのかもしれない。別の世はない、いまの生き方を行くしかない。とにかく今を生きましょうと。私自身がその先輩と同年齢に近くなり、その思いやりに気づけるようになったのかもしれない。

できることできないこと

 自分ができることができない人に出会うと哀れだと考えてしまうことがある。こんなこともできないのだ。きっとなにか訳があるのだろうなどと。

 しかしこれは他人事ではなく、自分もまたできないことが他人に露見したときに同じことを思われている可能性がある。このくらいのことができないのかと蔑まされるか、哀れみの対象になるかは実に相対的なものだ。

 優位の基準も時代により地域により立場により異なる。方程式が解けないことや、読解力がないことは現今の価値観からすれば劣位に置かれて然るべきだろう。ただ、どうしたら植物を安定して育てられるか。効果的な魚釣りの方法を理解しているのかという別の基準を持ち出されたら、まったく違う結果になる。

 人にはできることとできないことがあり、それらを補いあってこそ集団の力が発生する。なのに、ある一つの物差しを絶対化して、それ以外を無意味化するのは実生活と乖離しているというしかない。私たちは一人では生きられない生物であることを思い出すべきなのだろう。

思い出は

 思い出は積み上げていくものだと思っていたが、実はそうでもない。零れ落ちていくものが多くて、過去を保つことはできないからだ。いつの間にか自分の記憶の世界が痩せていく。でも、それは仕方がないことなのだ。

 細胞単位では私たちは常に新陳代謝を繰り返し、いくつもの過去を捨て去り、新しい何かを生み出している。その収支のバランスがうまくいかなくなるとその先にこの世の終わりがあることになる。だから思い出も日々更新してくものだと考えなくてはならない。

 過去の成功にこだわらず、まして失敗にも左右されず、これからのことを考えなくてはならないのだ。私はこの歳になってさまざまな覚悟ができない自分に焦りを感じている。

副首都とは何か

 副首都に関する法案が可決された。日本維新の会の肝いりの法案だが、大阪だけに副首都を担わせるという意味ではないと考える。

 大阪は江戸時代から江戸に次ぐ役割を果たしていたのは事実だ。ただ、例えば金沢もそれに劣らぬ役割を持っていたと思う。東京は歴史的には後発の都市であるが、ほとんどの中心機関を東京やその周辺に置いている今となってはこれらの機能を他都市が代替するのは難しい。

 インターネットがはりめぐらされた現在では機能によっていくつかの都市に分散させた方がよさそうだ。それには大災害が発生したときの一時的な分断に対する対応を考えておくべきだが。

 副首都というのは決して一つではない。恐らく首都という概念そのものが変わらなくてはならないのだろう。

Podcast Episode: 求人広告

Pip: 瑠璃荘の書斎へようこそ。今日は、バスの電光掲示板が何を訴えているのか、という話から始まります。

Mara: Mitsuhiroさんの最近の投稿を取り上げます。求人広告が映し出す日本の労働市場、そして使い捨てにされる人々の問題です。

Pip: 商品の宣伝より求人広告のほうが大きくなった世界。では、そこから見えてくるものを一緒に見ていきましょう。

求人広告が語る、使い捨て社会の現実

Mara: この投稿が問いかけるのは、街中にあふれる求人広告の意味です。なぜ企業は、商品よりも人材を大きく宣伝しなければならないのか。

Pip: その問いへの答えが、投稿のなかにはっきり書かれています。ファストフード店の状況を指して、こう述べています。「これもおそらく人手不足を訴えているのだろう。我が国の労働市場は安価な非正規雇用に頼りすぎている」。

Mara: つまり、求人広告の巨大化は人手不足のサインではなく、構造的な問題の表れだということです。安く使って、すぐ替える。その繰り返しが広告を大きくさせている。

Pip: バスの電光掲示板が「運転手募集」を光らせ続けている光景、あれは路線案内ではなく、もはや社会への警告灯ですね。

Mara: 投稿はさらに、外国人労働者についても触れています。今は外国人労働者で乗り切っているが、彼らを使い捨てにすることが恒常化すれば、やがて日本は選ばれなくなる、と。

Pip: 使い捨ての輸出先が変わっただけで、構造は何も変わっていない、ということですね。

Mara: そしてこの投稿が提示する方向性は明確です。「自分の組織に適合した人材をしっかりと雇用し、その精度を上げていくことこそが大切なのだ」と。大量生産ではなく、質とプロフェッショナリズムで世界に認知される国へ、という提言です。

Pip: 最後の一文が刺さります。「魅力的な企業であり、待遇もよければ広告などいらないのではないか」。求人広告が大きいほど、その企業の魅力が小さい、という逆説です。

Mara: 人間を大量消費の対象にしてしまった、という言葉は重い。労働の話は、社会の設計の話でもあります。


Pip: 街の電光掲示板が映しているのは、目的地ではなく、私たちが今どこにいるか、ということかもしれません。

Mara: 次回も、瑠璃荘の書斎からの問いかけを一緒に読んでいきます。

求人広告

 近年、この場所でと思う求人広告がある。例えば実家のある町でバスの行先を示す先頭の電光掲示板にバス運転手募集と書いてある。駅前の発車時刻前の待機時間にこのサインが光り続ける。おそらく運転手のなりてが少ないからこその訴えなのだろう。

 ファストフードの店にもアルバイト募集の告知をよく目にする。時にはかなり大きく、商品の宣伝以上のスペースで募集している。これもおそらく人手不足を訴えているのだろう。我が国の労働市場は安価な非正規雇用に頼りすぎている。安い労働力を求めて従業員を使い捨てにする現状から、アルバイトで働くことを求めているが、本来は正規社員待遇で企業の型を作っていくべきなのだろう。私たちは人間も大量消費の対象にしてしまったのである。

 おそらく、縮小していく日本経済においては人材確保は焦眉の急の課題だ。外国人労働者を充てる手法で今は切り抜けているが、彼らを使い捨てしていることが恒常化すれば、やがて日本は選ばれなくなる。それより自分の組織に適合した人材をしっかりと雇用し、その精度を上げていくことこそが大切なのだと思う。日本はこれまでのように大量生産の国ではなくなる。価格は必ずしも安くはないが、質が高く安心できる商品なりサービスを提供できるものとして世界に認知されるべきなのだ。それにはその組織の成員はプロフェッショナルでなくてはならない。労働者を使い捨てするやり方ではこの国の未来はないのだ。

 求人広告が商品広告よりも大きくなってしまった事態を私は大いに憂うのだ。魅力的な企業であり、待遇もよければ広告などいらないのではないか。


















局地的な豪雨

 天気予報で夕刻に局地的な豪雨があるかもしれないという予報が出ていた。職場からの帰宅時間にあたっていたため、ずぶ濡れになることをある程度覚悟していた。ところがついに雨は降らず厳しすぎる陽射しが続いていた。

 ネットで雨雲のレーダーをみたところ、下町の地域には激しい雨の状況を示す赤で塗りつぶされている。わずかな距離で豪雨と晴天が分かれる。それがこの季節の特徴のようだ。今回は私の生活圏の東西に豪雨の地域が分布して、その隙間の晴天域にいたということになる。

 どこに豪雨が来るのかはくじ引きのようなものでまったく予測がつかない。思うに天気もそのほかの環境も、実はそのとき、その場所での偶然の現象なのだ。これを一律に語ることの方が不自然だったのである。

 天気予報で東京の天気は、という言葉を耳にするとき、自分のいる所は東京都ではあるが、予報で述べられた東京とは違う場所なのだということを考えなくてはならないと考えている。

未成年SNS禁止に思う

  16歳未満にソーシャルメディアを使わせることを禁じる国が増えつつある。判断力、責任力のない世代にSNSの有象無象に対峙させることは危険であるという判断は間違いではない。私たちは悪意の含まれた情報を無害化しながら受け取れるほど進化はしていない。どんなに怪しい情報でもすぐに信じてしまう。まして近年の人工知能の作り出す非現実情報を見抜ける力はない。

 SNSを使わせないことはやはり必要だと思う。ただ、年齢が上がればその害を判別できる能力がつくのかといえばこれも疑問だ。このリテラシーは容易に身につかない。年齢だけの問題ではない気がする。もちろん、似非情報を判別できる能力を身につける努力は必要だ。そのための教育もやるべきだ。

 ただ何よりも必要なのは、多くの人と対面でコミュニケーションする機会を設けていくことだと考える。効率化で自動化無人化する傾向にあるが、せめてあいさつする程度のコミュニケーションは見直していいのかもしれない。

 

避暑空間

 酷暑日という言い方は以前からあり、私もブログで使ったことがある。一種のブラックジョークのようなものと思っていたが今年から正式名称昇格してしまった。すでに観測点がいくつも出ている。もはやSFの世界ではなく、今ここにある危機である。

 こうなると冷房というシェルターがなければ生存すら脅かされる。公的機関は避難所扱いで空調の効いた空間を提供すべきだ。民間施設も有料でもよいので酷暑避難所を開設してほしい。これももはや架空の話ではない。

 喫茶店や図書館など気軽に使える避暑空間をどれだけ知っているのかも重要だ。自宅のエアコンが万一故障しても逃げ場があることがこれからは死活問題となる。