線路際の土筆

 線路際の小さな空間にたくさんの土筆が芽を出しているのを見つけた。かつてなら当たり前の風景だったが、アスファルトに覆われた地域に暮らしていると特別な光景のように思える。

 土筆はそれを見たり摘んだりした様々な過去を思い出させるきっかけにもなる。子供のころの思い出、人生の節目の行事に向かう途中で見た風景、困難の最中に救われた風景の映像、それらが湧き上がるように思い出されるのである。その意味ではタイムマシーンのスイッチのような植物である。

 土筆は杉菜の雌花のようなものであり、雑草にあたるものだが、土筆の愛らしさがその価値を保証している。その理由を説明しようとすると結構難しい。

手前の地面に土筆があるのが分かりますか?

 様々な思い出とともに、これからの困難な時代を乗り切るためのエネルギーをこの雑草は与えてくれるのである。

怒りの表現

 東京富士美術館で開催中のゴヤの版画の展示を観てきた。大変暗い筆致の風刺画で観ていてつらくなるような作品だった。宮廷画家であったゴヤは本来、時代を美化する役割を持っていたはずだ。それがフランスの支配を機に体制批判の作品を連続していく。その数の多さに今回は圧倒された。かくまで深い傷を負ったのかと察せられたのである。

 西洋の美術は神話や王族や貴族の理想的な姿を描いてきた歴史が長く続いて、その中で風景画の技法も磨かれてきた。ある意味、理想的な一瞬の再現が絵画だったのである。それがゴヤのように時代の告発のような作品が生まれるに及んで新局面が生まれてきたのだろう。美術は怒りも表現できることを証したのである。

 現代、この役目を果たすのは何なのだろう。時代を批判する力は芸術にあるのだろうか。悲しく辛い対象にも目を背けない芸術に注目していきたい。

中東頼み

 日本のエネルギーは中東の原油に過度に依存しているという。資源のない日本がなぜ先進国を名乗れるのかといえば、このオイルラインのおかげなのである。しかもその大半がタンカーによる海運による。単純化すれば港に着く物資があって始めて生活が維持されているということだ。島に来るものがなくなれば生活レベルは急激に低下する。

 そんな当たり前の現実を私たちはすぐに忘れてしまう。永遠にネオンが輝き続けるかのように、豊かな水資源が電力によって制御され、地下鉄の漏水が電力で汲み出されていることを。それは島の向こうから渡ってきた資源のおかげなのである。

 電力を自給しようという悲願はいろいろな制約に妨げられる。代替エネルギーは一長一短で化石燃料に代替できるものはない。石油は使わず太陽光発電にしましょうというのは簡単だが、実は今のような生活をおくれるエネルギーはまったく作れない。いまのところは中東の原油に頼るしかないのだ。

 そのために日本の企業や団体は中東諸国との友好関係を築いてきた。歴史的に対立している欧米諸国とは違う関係を持ってきた。でも、同盟国アメリカが仕掛けた今回の戦争で日本の立場はかなり危ういものになっている。戦争には関わらず、民生の復興に協力することが我が国のするべきことではないか。イランの政治には疑問点が多いが力で変えるのではなく、我が国の寛容な精神と技術力を示すことで、彼の国に内的変革を促す方がよさそうだ。

 戦争は長引きそうだ。アメリカの大統領は恐らく偽りの勝利宣言をして自らの手柄とするつもりだろう。でもそれがむなしい雄たけびに過ぎないことはこれまでの歴史が証明しているではないか。

震災の次の日

 震災の日の驚きはいまでも時々思い出す。ただその日は事態に対応するだけで精一杯だった。その時点ではスマートフォンを持っていなかった私は緊急地震速報なるものを同僚の機器から耳にした。その日にはそれが何度も響き、その後も定期的に行くことになった。

 でも、事態の深刻さを知ったのは翌日からだった。衝撃的な津波の映像、福島の原発の爆発、放射能被害の切迫した報道、すべてが未知だった。電力の供給が止まるかも知れないとか、その後の計画停電とか知らなかった言葉が次々に横溢した。世界が大きく変わり、不可逆の別次元に入ってしまった感があった。

 これは一面、いまでも継続する真実だ。諸行無常を知識ではなく経験で痛感したのだから。恐らく日本で暮らす人々の価値観が大きく変わった気がする。ただその信念でさえ無常の掟から逸脱することはできない。電力需要の困難に直面し、原子力発電の功罪を痛感したのにも関わらず、人工知能を駆動する大量の電力を消費し続けている。電気自動車は環境によいと信じている人も多い。

 震災の次の日の呆然とした気持ちと、それを乗り越えようと決意したときの思いをもう一度取り戻すことには意味がありそうだ。

非効率のすすめ

 コスパとかタイパとか効率性を称賛するのはいかにも現代的だ。しかし、効率性を追求するのは場面と状況を選んだほうがいい。無駄を認めること、時間をかけることがその後の発展、現状打破に繋がることもあるからである。

 学ぶことに関してはなんとかパフォーマンスは選ばない方がよさそうだ。結局、自分で考えないことは身につかない。多くの無駄に思える時間を積み重ねていくうちに、あるとき突破口が見える。継続することの愚直さが実は何よりも大切なのだ。

 大器晩成という言葉は現代で第一の理想とはされない。むしろなかなか成果が出ない人への慰めの意味しかない。しかし、人工知能が何でもやってしまう時代においてはじっくりと考え続け、少々の失敗にへこたれない心性こそが求められているのではないだろうか。

 こうした感性は子どものうちから自分でものをなしとげる経験の蓄積から身につくはずだ。成果が出ないとすぐにやり方の変更を強制するのでは自主的な進展の道は開けない。親や教員がすぐに口出ししないことも大切なのだ。効率性偏重の考え方は今後上手くいかなくなりそうだ。地道に練習を重ねることの意味を理解している指導者を増やさなくてはならない。

マフラーをもう一度

 このところ寒さが戻り凍えていた。しばらく廃していたマフラーをつけ直してみると実に快適だ。こうして寒さをしのいでいたのだと思い出した。

 もうこれまで何度も書いてきたが、私たちの感性というものは決して絶対的なものではない。常に何らかとの比較をもとに形成され、何を比較の対象とするかで大きく印象が変わるのである。このところの冷え込みが厳しく感じるのは、途中にかなり暖かい日々を挟んだからだろう。もし厳冬の日々を重ねていたら、ここ数日の陽気に春の訪れを感じたかも知れない。現象と印象は別物なのである。

 感覚を相対的に感じることができるのは、人間のような知性を獲得した者の特権なのかもしれない。過去の記憶を基準に現在の感覚を調整するのは人間ならではの認知のあり方なのだろうと考えるのである。

 マフラーを巻くことは間もなく終わるであろう。でもその温もりを、快適さを覚えておかなくてはならない。

フイルム型の受光パネル

 日本の科学者が考案したというペロブスカイト太陽電池はまだ乗り越えなくてはならない問題はあるもののとても魅力的な技術である。メガソーラーのような、一歩間違えれば環境破壊に繋がる発電設備が、山間部ではなく町中に設置できるとあれば魅力は計り知れない。従来の発電設備は火力も水力も原子力も都市部に送る電気を地方が様々負担するという図式があった。これが覆るだけでも大きな進歩だ。

 フイルム型の受光パネルをビルなどの建造物に設置すれば、森や干潟を破壊する必要はなくなる。自動車や鉄道の表面に置けば少しはエネルギーの節約に繋がるかも知れない。例えば鉄道の駅と線路の敷地に発電装置が設置できればかなりエネルギー問題は変わった展開になるかもしれない。

 いまのところはそれほど容易い問題ではないようだ。この電池に含まれる鉛は健康被害があることが長年の経験で知られており、不用意な利用はできない。代替素材も検討されているが決定的なものはないという。また耐久性についても疑問視されており、鉛問題も含めて廃棄やリサイクルの問題も解決しなくてはならないだろう。

 ホルムズ海峡封鎖でエネルギー問題を痛感するいま、代替エネルギーの一部として太陽光発電は利用しなくてはならない。恐らくこれからのエネルギーはいままで以上にハイブリッドで、高次元にそれを管理するシステムが求められるだろう。フフィルム型太陽電池だけではなく、新たな技術革新を期待したい。

 それと同時にエネルギー消費の少ない機械の開発、それよりも省エネ生活習慣の一般化が急務なのかも知れない。価値観の大変革があらねばならない。ここまで述べてきたことのすべてが少しずつ進展していくことを願わずにはいられない。

フェイクニュースを作る心理は

 人工知能による画像加工が容易になった現在では、さまざまなフェイクニュースにその偽画像が登場する。動画でもかなり本物らしさは完成しており、かなり注意して観ないと真偽が判別できない。

 フェイクニュースを作るのは人間であることを思うと、なぜ彼らがわざわざそのような紛らわしい映像を作るのかを考えなくてはならない。YouTubeのような動画サイトでは再生回数が収入になるから、それが目的と考えられる。要するに金儲けの手段としてやっているということだ。それならば非難も可能だ。自分の利益のために多くの人々を混乱させることは許しがたい。

 面倒なのは、ニュースの当事者が絡む場合だ。状況上不利な立場にある側が、その抗議行動として意図的にセンセーショナルな報じ方をする。分かる人には見え見えの茶番だが、恐らくもっと深い根があるのだろう。その深みは大半の人には分からない。

 そこにある個人的な感情を少しだけ知りたいような気持ちになることがある。怨嗟か羨望か屈折した賞賛なのか。よく分からないが、それなりに強い感情が、燃え盛った末のことなのだろう。

 フェイクニュースを作る心理の寂しさに同情する必要はないが、人の性としての哀れみは捨てられない。恐らく世の中で注目されている人のかなりの割合で、この類のことが起きているようだ。人生は大抵の場合上手くいかない。それでも時々幸運が巡ってきてやり過ごせるのだが、それも長続きしない。不如意な人生を少しだけ変えたいと思うのは人情というべきのなのであろう。そこには幾分かの同情の余地がある。

 人心を惑わす悪行は許せない。そのためにどれだけの悲劇が始まるのかを考えなければならない。ただ、同時にそのような行動に追い込まれた人たちの哀れを思いやることも大切だと考える。

民主主義の限界なのか

 ロシアのウクライナ侵攻は就任すればすぐに終結させると豪語していたトランプ大統領の言葉を記憶しているだろうか。ノーベル平和賞候補を自認していた(それに乗った某国の首相もいた)が、どうも実際は逆を進んでいる。イラン攻撃も即日解決と言っていたようだが、それが週単位となり、ついには言及しなくなった。首脳殺害はイスラエルのしたことと述べ、原油価格高騰の気配に後手を打つ。私の知る限り、絵に描いたような失敗続きだ。関税政策についても自国の裁判所に否定されても開き直るばかりだ。アメリカ国民は彼をどのように見ているのだろう。

 現在のアメリカの政権を見るに民主主義の限界なのかと落胆してしまう。個人の欲望の暴走を防ぐための制度であったはずなのに、それが効かない。イスラエルのネタニヤフ氏も選挙前のパフォーマンスをしているという報道がある。国民のためではなく、自政権の維持のために国民の目を海外の敵に向けさせるのは歴史上何度も繰り返されてきた。戦中の日本もまた敵国を鬼畜と見なすことで国民の戦意を創出していたという。こういうことを見抜く力を世界は学んできたのではないか。実際にはそんなに簡単ではないようだ。

 私は対岸の火事ではないと考えている。外交に関してはすでに平和外交路線を維持するしかない状況にあるのだから、重武装独立などという非現実的な論法をかざして一時的な支持を得る輩には気をつけなくてはならない。地政学的にも政治史的にも今の日本は国際協調の中心にいなくてはならない。今回、アメリカの同盟国でありながら、イランにも友好関係を維持してきた我が国の振る舞いが今後の国際情勢には極めて重要な役割を果たす。果たさなくてはならない。そういう立ち回りができるのか。それが日本のリーダーに求められている資質である。

難解さを越えて

 コンサートで12音技法の歌曲を聴いた。ウィーンに住んでいたユダヤ人のシェーンベルクとその影響を受けた人たちの楽曲だった。12音階を平等に使うという極めて理知的な作曲法で、慣れ親しんだメロディやハーモニーがなく、難解でかつ気味の悪さや後味のざらつきが感じられる曲だった。と同時にどこか日本の伝統音楽のような味わいもほの見える不思議な音楽だった。

 シェーンベルクはナチス・ドイツ時代に迫害を受ける。人種差別があったことは事実だが、ワーグナーのような分かり易い伝統的な調性音楽を破壊するものとして全否定されたのである。結果としてアメリカに亡命し、現代音楽の開拓者のような存在として評価されることになる。

 12音を繋ぎ合わせた音列を作り、それを基本として楽曲を作ってゆくという方法はまるで方程式のような方法であり、感性の芸術である音楽とは異なる気がする。しかし、調性音楽もまた一定の法則の下で作曲されていることを思えば、軸の違う同じ音楽とも言えるのだ。

 音楽とは何かを根本から問うのがこの手法であり、デジタル音楽ではさらに複雑な手法が生み出されつつある。難解さを越えて芸術とは何かを考えるきっかけになった。