投稿者: Mitsuhiro

楽曲とともに

 谷村新司さんが逝去された。私より少し上の世代であるが、アリスとして活躍されていたときはリアルタイムで楽曲に親しんだ。そのころ始めたギターの練習曲にもアリスの曲が多かった。時代を彩る方がなくなると何かが大きく変わったような気になる。

 人の命は限りがあるからいつかお別れが来るのは知っている。自分だっていつこの世を去るのかは分からない。この後すぐかもしれないし、もうしばらく世にはばかるかもしれない。ミュージシャンの場合は少し違う。人生は短く芸術は長い。残した曲はいつまでも消えない。誰かが歌い継ぐ限り続く。個人的には「遠くで汽笛を聞きながら」の哀愁が好きだ。絶望しながらも生きていこうとする底力を感じる。あの時代の雰囲気には実にあっていた。

 最近の歌にもいいものがある。それを共通体験として持てているのだろうか。多様化の中で時代を代表する歌謡なり、事象というものが細分化されている。すると共通の体験は持てなくなるのでは危惧してしまうのだ。

ホームページを作るなら ロリポップレンタルサーバー

取り扱い400種類以上のドメイン取得サービス─ムームードメイン─

【GOM Mix】初心者でも簡単な動画編集ソフト

WiMAX +5GをはじめるならBIGLOBE

山積

 このところやらなくてはならないことが山積してパンクしそうである。要領よくやろうなどとはいってられない。可能性のあるものを優先するしかない。

 こういう辛さを誰かに話しても同情されるか逆に不能ぶりをなじられるかである。助力を申し出てくれる人もいるが結局は何もできない。やるしかないのだ。

 昔ならそれこそノイローゼにでもなったかもしれないが、いまはそれでもやり過ごしている。鈍感になることはスキルの一つである。

把握

 若い世代がよく使う「把握お願いします」は何かおかしい。把握はこの場合、理解するということなのだろうか。

 資料をいくつか示されたあとでこの把握をお願いされた。これは理解しておけということなのだろう。ご承知おきくださいではなぜだめなのだろう。承知に上下関係を感じるのだろうか。知っておくことを超えた把握を求められているようだ。

 把握の意味が異なるのかもしれない。いろいろ言いたいことはあってもとにかく一掴みで飲み込んでくれというニュアンスがあるのだろうか。ならば新しい表現だ。承知置くにも十分な威圧感はあるが、それより大きいのかもしれない。

速読と熟読

 普段の読書を通して速読と熟読は意識して行うべきだと思う。それが間違っていると本を読むこと自体が面白くなくなる。

Photo by rikka ameboshi on Pexels.com

 速読というのは別に必要以上に速く読むということではない。かつてパラパラとページを送るだけで内容を理解できるというような本が売れたが、これは少なくとも私のような一般人には無理だ。そうでははくて、多少分からないことがあっても大筋をつかむように読むということである。

 説明的な文章には常套的な構造があり、多くの場合は問題提起、分析、結論という順になっている。だから、最初と最後に注目すればある程度の内容はつかめるのだ。この方法に従ってざっと通読してしまうというのが、ここでいう速読だ。小説の場合はそれほど単純ではないが、場面の変わり目に注目して読むと同じようなことはできる。ただ、創作的な文章の場合、速読は勧めない。

 熟読は分からない言葉に出会ったら、それにこだわりながら読む方法である。たいていの場合、抽象的な表現のあとに「つまり」などの言葉で説明が入るが、中には読者へのサービスがよくないものもある。その場合は辞書も引きながら読むという方法である。そして、メモを取りながら読むこともする。

 速読と熟読は目的が異なる。楽しみながら知識を増やしたり、引き出しの数を増やしたりするのなら速読がよい。一方で読書を通してその内容を習得する場合は時間をかけて読むべきだ。本が嫌いな人はこの方法を間違っていることが多い。概要をつかむ読み方と内容を理解するのとでは違うと考えた方がいい。

10月後半に

 今日から今月も後半に入る。今日は少し気温が上がるとの予報だがさすがに秋の深まりを感じる。長すぎた夏のせいなのか、快適となった今頃にかえって疲れを感じているのだ。

 いろいろ試しているうちに少し生活が複雑になってしまった。これからは整理を少しして生活をシンプルにしていく。何でも片づけて自己満足することには与しない。見た目は変わらなくともやりやすいように作り変えていくのが目標だ。

 鞄をリュックのようにしていたのをやめた。するといままで背負っていたために感じなかった重みを感じている。いまより持ち物を減らさなくてはならない。軽量化するために持つ道具の選び直しをせねばなどと考える。こんなふうに季節の変わり目は生活の仕方を見直すことも必要だ。

進化の不思議

 生物学者のエッセイを読んでいると実に不思議な気持ちになる。生物はいつも環境に適応するために自分の身体を変化させ続けているというのだ。世代という単位では気づかないことも多いが、そのスケールを少し拡げるとすぐにその変化に気づく。寿命が極めて短い種の場合はそれがかなり早く起きる。

 人間も同じだ。今の学説ではホモサピエンスはアフリカ大陸にいた共通の祖先から世界中に拡散したという。地球上の各地に拡散するグレート•ジャーニーの途中で各地の気候や地理的な要因に適応した人類は、その形を次々に変えていったことになる。東アジア人の顔が凹凸に乏しいのは、寒冷な気候を過ごすうちに体表面の面積み減らして体温の発散を減らすためだという。

 実は進化の要因は複数の要素の複合の結果であり、単純な説明ができない。それを遺伝子とか進化論とかで何とか理由づけしているのだ。その意味で後付けの説明であって未来のことは分からない。

 ただ、私たちの身体そのものも自然の一部で、適応し子孫を残すために今後も形を変え続けるということだけは確かだということだ。今の姿が過去に遡れる訳ではなく、未来もこのままであるはずもない。

いまの笑顔が未来もそうだとは限らない。これは人工知能に作らせた笑顔のイメージです。

秋冷

 最低気温の方に関心が出ている。今朝などは12℃の予報で実際にもそれに近いところまで下がった。今後も10℃台の前半で推移するようだ。かなりの肌寒さを感じる。

 さかんに鳴いていた虫たちも心なしか力弱くなっている。もう10月も前半が終わる。秋は夏に削られて身を細くしているのだ。気象庁によれば1898年から2019年の間に日本の観測点の平均気温は1.24℃上昇しているという。もっとも近藤純正東北大学名誉教授の研究では過去のデータには測量機器の精度の問題や、観測環境の変化による誤差が大きいため、いくつかの補正を加えたうえで0.77℃の上昇と結論している。数字にしてみればわずかだが、この小数点以下の違いでも気候の変動の影響は大変大きいのである。

 2015年の国連気候変動枠組条約締約国会議で決まったパリ議定書によれば、産業革命以来、2030年までの気温上昇を2℃以下、できれば1.5℃以下にする努力をするというものだった。算定の基準があいまいなので数値的な説得力があるかが議論されなくてはならない。昨年のニュースでは昨年の世界気象機関の発表では産業革命前からすでに1.15℃上昇しており、近年上昇率が加速しているという。果たして約束は果たせるのか。

 一日や一年の寒暖だけでは判断ができないのがこの問題の深さだ。今朝は肌寒いが温暖化が事実だとすればこれでは物足りないということになる。

銀座線の暗闇

 渋谷に住んでいた頃は銀座線によく乗った。渋谷に着くとなぜか2階部分に停まるのが興味深かった。最寄り駅だった表参道には千代田線が乗り入れていたが、最新型車両の千代田線に対して銀座線は何世代か前の形態のままのような感じだった。

 日本最初の地下鉄である銀座線は給電の仕方が独特だ。線路上にある送電システムから電気を得るため、屋根にパンタグラフがない。だから、トンネルの大きさを小さくできるメリットがある。ただ、かつてはポイントの通過時など電機の接点がなくなる場所では停電していた。実際には余力で無電力地域をすぐに通過するので運行に支障はないが、瞬時照明も含めてすべてが消えてしまうというデメリットがあった。暗闇を防ぐため、停電と同時にバッテリーで光る非常灯が点灯した。ある世代以上の人は銀座線と丸ノ内線でこの非常灯体験をしたことがあるだろう。

 駅に近づくたびに暗くなるのは銀座線と丸の内線だけであり、ある意味貴重な体験をしたのかもしれない。現在の銀座線は配色などにレトロな雰囲気を残してはいるが照明が落ちることはない。車掌のアナウンスも機械仕掛けになった。やたらと大きな音を立てて、少し機械油の臭いがした銀座線を知る人は少ない。

クリスマスチャンネル

 海外のラジオ局にいわゆるクリスマスチャンネルというのがある。一年中クリスマス関連の曲をひたすら流し続けるのである。実は私は個人的に嫌いではなく、時々インターネットを通して聴いている。

 クリスマスソングは実に多様であり、讃美歌からポップスまで幅広く年中流していても尽きることがない。有名なメロディは当然何度も出てくるが世界中のミュージシャンが様々なアレンジで歌うからレパートリーは無尽蔵なのだ。

 日本で同じようなことはできるだろうか。お正月の歌は意外にも多くはない。ポップスでも正月をテーマにした曲は少ない。できそうなのは桜関連の曲だ。サクラを歌った曲は結構ある。ただ年間を通して放送するだけの数はあるだろうか。

 盆などもそれを題材にした楽曲は少ない。行事と音楽の結びつきは日本では顕著ではないのだ。逆にいえば、例えば正月は楽曲の題材として発展しうる余地を残しているということになる。

 クリスマスの伝統の深さを知るとともに文化とは何かを考えるのである。

ショートショートの手触り

 掌編小説には言葉足らずを楽しむという読み方がある。短い作品なので細かな設定は書き込まれないことが多い。作品世界にとって必要な情報だけが述べられ、あとは読者の想像に任される。それが小説の魅力であり、味わいである。

 もちろん作品として完結している中長編小説の方が味わいが深い。いわゆる短編小説もまた魅力的だ。ショートショートは不完全なだけに破綻も起きやすいが、そのほころびのようなものを楽しむことができる。

 短歌のようには手軽には作れないがでもまず小説を書くのならばここからと思わせる。でも意外と難しいのは、俳句が始めると奥深いのと似ている。