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自分とは何か

 自分とは何かという問いは誰もが一度は行う。容易に答えが出ないので、多くの場合は思考停止となる。そんなことは分からなくても日々の生活に困ることはない。むしろどうでもいいことをあれこれ考える方が時間の無駄ということになる。

 でも、自分を失うと厄介なことが起きる。現代のように常に他者の発信する情報に囲まれていると、果たして今の判断は私のものなのか、流行りの意見に迎合したのかが分からなくなる。迎合の意識があるうちはまだいい。自己判断を停止したままで周囲の環境に自動的に合わせて、それに違和感すらなくなっている人にとっては、最早自分の判断というものが消えている。彼らに自己責任を問うことはたやすいが言われた方には戸惑いが起きるだろう。私は決めていない。流行りに従ったはずだ。多分そうだと。

 こういう時代には自分が他者に操られる事態を起こしやすい。最近の流行語であるインフルエンサーは、他者への影響力が強い者という意味と心得ているが、この語が流通しているのは真のインフルエンサーが本当は少ないことを意味している。でも、多くは動かせないがいわゆるクラスタクラスの影響はあることになる。

 もし強力な影響力を持つ存在が権力の野望を持って登場すれば、容易に独裁者になれる。現代はその下地が整っていると言える。自分とは何かという厄介な問いを後回しにしているうちに事態は予期せぬ展開をするのである。

 多くの人が是といっても何かおかしいことがあればそれを指摘できる気概は保持しておくべきだ。多くの人にそれは変だけどと言われても、変と言っている貴方が変だと言える自己にならなくてはならない。情報社会において自己を保つのは難しい。でも、それができなければ危険な未来が待っている。

 

気温が下がると

 決して夏の暑さが終わった訳ではないが、今日はかなり過ごしやすく感じた。それまでが暑すぎたために、平年並みが涼しく思えてしまう。

 気温が下がるとかえっていままで気づかなかったさまざまな問題点が見えてくることがある。体調の変化を感じやすいのはこのときなのだろう。

 しばらく大きな行事がないので、ここはペースを崩さないようにしたい。

地元意識

 グローバルな時代であれば細かい差異はどうでも良くなるはずだが、実はそれほど簡単ではない。広範囲の流通を前提とすれば、最大公約数的な商品が大量生産され、個人的地域的な趣向性は優先度が低くなる。コストを減らすために多くの人が妥協できるラインを目指して作られるからである。

 このいわば合格点ギリギリのアイテムに私たちは比較的早く順応してしまう。それは価格とか手に入れやすさの方が選択基準の上位になってしまうことによる。本当に欲しいのはこれではないが、安いからこれでもいいか、といった妥協が容易になされてしまうのだ。

 ただ、この我慢も積み重なるとストレスになっていく。何か違うものに囲まれた日常が陳腐に見えてしまうのである。やはり、本物を目指そうという機運がときどき起こる。ただ、そのために費やす代価の大きさに挫けてしまうことも多い。

 個人的なオーダーメイドが無理でもせめて自分の所属するコミュニティの好むものを得たい。そういう気持ちが地域社会に定着すると、ちょっと高いけれど満足できる品物が集まっている店の経営が成り立つ。その意味での地元意識は意外にも大切なことかもしれない。

 満足できる品物を大切に使い、大量生産、大量消費、大量投棄のサイクルを断ち切ることが未来のこの国のあり方として適している気がする。

第一印象

 初めて接したモノやコトに対して抱いた印象は大切にするべきだと考える。それが結果的に思い違いであったとしても、そのときどのように感じたのかを覚えておくことには意味がある。それは対象の評価というより、自分自身が対象とどのように関係したのかを示すことになる。

 個人的な経験では、第一印象がそのまま対象の評価に結びつくことはあまり多くない。大抵はその後の展開で大きな価値観の変更を迫られる。その後に形成されたイメージが対象に対する考え方を形成する。

 ならば第一印象は無意味なのかと言えばそれは違うといいたい。さまざまな条件を配慮せずにこうだと思ったというイメージは時にはその本質を考える材料となる。理屈ではない何かが大切なのだ。

 ただ、この第一印象は極めて短命で風化しやすい。さまざまな要因で変化しやすい性質を持っている。そして、それがいかに衝撃的なものであれ、すぐに新しい印象に上書きされてしまう。だから、そのときどう見てどう考えたのかはかなり意識的に記憶しなくては残らない。そのためにも未完成の評価を記録する方法があればと考えている。

説明しよう

先日読み終えた本に気になる表現があった。私の感覚では「なぜなら」という接続詞を使うところで、ことごとく「説明しよう」という表現が使われているのだ。これはある種の語りでよく使われる表現で、不可思議な現象を後付けで有意義にするときに多用されたものである。私の世代では納得するというより、そうきたかという設定の妙を感じさせる言葉だ。




 説明することは自分の言動を理論化することに役立つ。単なる一過的な思いつきではなく、確固たる意見なのだと披露することが説明の本義だ。説明することによって自らの意見の価値が確認できるし、他者を説得することができる。また批判を受けてより良い意見に修正できるきっかけとなる。

 だから「説明しよう」を日常的に多用することは悪いことではない。他者の賛同が得られるか否かは分からない。でも、そのための努力をすることは自分自身にとってもかなり意味があることだ。

 最近はこの説明する努力が軽んじられている。人工知能がもっともらしい説明をしてくれるので、それ以上の可能性を考えることをはなからしなくなっている。「説明」よりも「結果」が優先すると考えられているからかもかもしれない。

それならば私は若い世代に「説明しよう」を流行り言葉にすることを提案したい。自分の考えを他者に認めてもらうことは容易ではない。それによって自らの考えが深まり、他者の批判が強度を高める契機になるのならば、無駄な努力などではないのだから。

直接体験がものを言う

手触りは特別な感覚である。直接触れるということ自体が貴重であり、その場にいるという事実が大切になってきていると言える。

ネットで検索すれば、最近はAIが期待する答えを先回りして答えてくれる。大変便利ではあるが、あくまでも機械がやってくれることなので、達成感は得られにくい。それ以上の知的欲求を喚起されないのだ。どうもこの欠落は情報の知識化を妨げるようだ。

これからの時代にはどれだけ直接的な体験を積んできたのか、それに関わる別の事象を類推できるのかという能力が大事になるかもしれない。経験から培われた感性が判断力を形成する。人工知能にプロンプトを送る際に必要なのはテクニックだけではない。

体験が大切というとこれにもさまざまな問題が指摘される。経験を積めるだけの余裕がある者とそうでない者との格差が出てしまうからだ。豪華な旅行に何度も行ける人とそもそも労働以外の時間がない人では差が出てしまう。

大切なのは経験の表面的な差ではなく、その中から何を感じとるかなのだろう。日常の中からもそれは可能だが、感じたことを言葉にし、記憶に止める力は教育によって獲得できるはずだ。

子どもパイロット

今までで最も家から遠い場所に行ったときのことを聞かせてください。

 距離ではなく精神的な隔たりとしての長距離旅行といえば福岡から東京への小学生の頃の一人旅だろう。父の転勤で福岡市に住むことになった私は、夏休みになぜか一人で東京へ行くことになった。東京には叔母の家があったのでそこを訪ねる旅だ。なぜ一人旅になったのかは覚えていない。恐らく親の配慮なのだろう。

 福岡空港から飛行機に乗ったが、一人旅ということでワッペンを渡された。スチュワーデスのお姉さんがいろいろ世話してくれたのだが、残念ながらこの辺りの記憶が曖昧だ。恐らくとても良い緊張していて記憶の形成を妨げたのだろう。僅かな記憶はそのワッペンを安全クリップか何かで服に付けて、しばらくは宝物のように大切にしていたことだ。

 子どもにとっては初めての経験は負担が大きい。緊張感もあったと思うがこの点も忘却の彼方だ。余計なことを考えない分、案外簡単に切り抜けられたのではないだろうか。飛行機に乗れたことだけで十分満足していたに違いない。

 大人になって一人旅は当たり前になった。どうやって暇を潰そうかということばかり考えて、鉄道も航空機も単なる移動手段のように考えてしまう。子どもパイロットの時のときめきを思い出すべきだろう。それができれば旅はまた楽しくなるはずだ。

プラス2.36

今年の日本の夏の暑さは平年より2.36℃高く、観測史上最高なのだそうだ。昨日も9月の始まりとは思えない猛暑で気候変動が夢物語のように語られていたことが遥か昔日の感がする。

パリ協定の目標値が産業革命時から1.5℃の上昇に抑えることであったと記憶している。夏だけの日本の観測地とは条件が異なるが、どうもこの人類の悲願は達成できそうもない。僅かな気温上昇が氷河を融解し、海面上昇が多くの人々の生活圏を奪う。誰のせいか分からないが気がついたら、人間が住めない地域が増えていたということがSFレベルを越えて現前している。

ならばお前からエネルギーを節約する生活に変えよと言われても現実的ではない。車に乗りたいし、遠くの産地の美味しい食材もほしい。できる範囲で何ができるのかを考えた方がよいとしか言えない。

いまだに温暖化人為説は陰謀だとか非科学的だとか、地球史的には今後寒冷化に向かうとかさまざまな言説があるが、いまできそうなことを試してみることは必要だろう。

不器用な現実

 結果的にうまくいくということもある。それはそれで評価すべきだと思う。最近は完璧な展開から理想解に達することを求め過ぎている気がする。実社会はもっと不器用なものであり、不規則でもある。

 情報化社会に人工知能の技術も加わって私たちは効率化とか省力化とか、そういう無駄を排除する考え方に染まってしまっている。どこかの成功例を検索してその通りにやろうと思っても、条件がいろいろ違う自分の人生にはそのまま援用することはできない。できないとあたかも自分の能力が劣っているかのように考えて、ますます惨めな気持ちになっていく。

 手本を知らない誰かに求めるのはやめた方がいい。いろいろ違うのにその通りにできるとは考えない方がよいということだ。向上心は身近な目標に求めるべきなのだろう。そして自分を含めた私たちを幸せにする方法を追求するべきなのだ。

 他者を出し抜き自分だけが優位に立とうとするやり方をこのところの社会は奨励してきた。自分の利益になることは徹底的に求めるくせに、対立する考えは無視したり攻撃の対象にする。これではその場では勝てるかもしれないが、結果的に幸福感は持てず、周囲の人も不幸にしてしまう。このやり方に違和感を覚える人が私の感覚だと少しずつ増えてきている気がする。

 目先の利益で行動することが結果的に何をもたらすのかを分かってきたならば、安易に他者と比較したり、非難したりするのが得ではないことに気づく。不器用な現実に立ち向かうならば、それなりの覚悟と寛容さが必要だ。失敗を重ねてその結果ようやくたどり着いた解答が間違っているかどうかはそんなに簡単に評価できるものではない。

食洗機のし残したもの

ファミリーレストランに行くと、価格の安さには驚くとともに企業努力には感心するが、やはり一言言いたくなることもある。恐らく機械で洗浄したものをそのまま客にだす食器類にはよく見ると細かい洗い残しがある。衛生基準的にはクリアしていてもやはり気になりだすとどうしようもない。自分で拭いて使えるようにしている。

 恐らく将来のこの国の姿はもっとこうした傾向が強くなっていくはずだ。おもてなしの国といっても何がおもてなしなのか分からなくなり、機械に頼って省力化して効率化を上げれば成功だとされる。客側の基準も下がり、職人技的な接客は超高級店のみのものとなり、多少の無作法は容認されるようになるのだろう。

 そうならないようになる道はある。人工知能がより高度化されるといわゆる文系的人材はもちろん、理系的な人材の多くが不要になる。彼らが就くのは機械では実現できない人間的な仕事だ。細かな顧客のニーズに対応して、ケースバイケースの対応をするサービス業務が辛うじて生き残る。いまは外国人労働者に委ねている労働の多くも、将来の日本人の働き場所となる。そのためには待遇改善が欠かせない。職人技に対する評価がこれまで以上に高まる時代がくるはずだ。

 逆にいまは高給取りの職の多くが人工知能などに代替される。汗をかかなければ収入が期待できない時代がこの後すぐに出来しそうである。農家や芸術的な工芸職人がエリートになる時代になるのかもしれない。

 恐らくそういう時代に私はもう生きていない。ただ、いまの常識がいつまでも続くとは思わない方がいいとは後輩に伝えたい。