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9月病になる前に

 明日から新学期だ。気持ちを切り替えて再び始まる日常に臨もう。もしかして、明日からの日々に不安を抱えている人もいるのではないだろうか。私もその一人だが、でも敢えて言いたい。明日からの日々はきっと面白いものになると。

 夏休みが休養になると考えていた時代はよかった。今は夏休みは文字通り耐える時期である。今日もとても暑く、およそ何もする気になれなかった。冷房を付けてネットに接続してしまえばいつもながらのコーディネイトされた快適世界が展開されるが、どうもこれは違う。画面に現れるのは過去に閲覧した情報をもとに類似情報を集成して出来上がった偽の世界であり、現実の乱雑さとは別物である。本当は街に繰り出して自分の予想だにしない世界に触れる機会であった。それをこのばかばかしい猛暑がさえぎってしまったのである。

 だから9月からはリアルな現実に向き合える楽しむべき季節が始まると考えればいい。快適なことだけではない、性に合わないむかつく現実にも直面する。クッキーが選択しないどうしようもない現実が次々に襲い掛かってくる。それを恐怖とみるかエンターテインメントとみるかで暮らし方は変わる。若い皆さんには言いたい。世の中で優位にふるまっている人々や、いわゆるマウントをとる人たちの栄華は短い。大切なのは不如意であっても現実を生きることだ。決してアレンジされた仮想現実に逃げ込んではいけない。

 9月病なる言葉は昔からあって、乗り越えなくてはならない課題のように考えられてきた。たしかに生活のリズムが変わるのは負担が大きい。でも、失敗しても間違っても全く構わないのだ。周囲の人々に笑われるのが怖いという人がいるが、周囲の人はたまたまその場にいるだけで、自分の価値観と合わないだけなのかもしれない。いまは小さな世界だけに拘束される時代ではない。他人の評価は参考意見くらいに考えて受け流そう。

 自分以外の価値観を認められなくなった人は哀れだと思う。今その人がどんなに裕福であっても、どんなに有名であってもいつかそれは破綻するきがする。自分の価値観がいつまでも他人に理解されるとは思うべきではない。むしろ理解不可能なのが人間というものである。それを他人に押し付けるのではなく、他者のへんてこな考え方をいかに理解するのかがこの世を生きるためのコツのような気がする。

 明日から始まる生活に不安を持っている人には特にこう言いたい。不安を持つことは現実に対してまじめに取り組んでいることでよいことだ。予想を超える事態が発生するかもしれないが、それも楽しもう。他人の評価は気にすることはない。もしかしたらとても尊いことをしたり考えたりしているのに周りが理解に追い付いていないだけなのかもしれない。

スマホ1日2時間条例

愛知県豊明市で市民の仕事や勉強以外でスマートフォンの使用を一日2時間以内を目安とするという条例ができたという。10月1日に施行される。ただし強制力や罰則はないので、事実上は努力目標ということになる。

 スマートフォンが過剰に使われているのは周知の事実だ。私の場合は通勤定期、乗車券、決済、各種会員書など多方面に利用しているから、これを休止することはできない。ただ、そのほかに例えばソーシャルメディアを見たり、ニュースメディア、ソーシャルメディアなどを見ているとあっという間に時間が過ぎる。ある人は時間が溶けるという言い方をしていたが、まさにそういう感じだ。多くの情報を閲覧しながら、その大半は印象に残らないのは不思議である。

 1日2時間は朝昼夕に分ければ1回40分程度ということであり、達成できそうな気もする。私はゲームはやらないのでそう思うのかもしれない。気が付いたことを検索することで一回30分は使っていない。問題なのは他人が作ったほどほど面白い短編動画をみることだ。これは面白いと感じると次の動画が用意されているので止まらなくなる。

いわゆる「スマホ脳」なる現象は現代人にとっては克服すべき大問題だ。法令で規制するのがよいのか分からない。もし、この法令に罰則規定が付いたらとか、規制のために個人の閲覧記録が監視されたならと考えると別の問題が出来する。自律が最善なのだが、人間はこれを克服できるのだろうか。

TokyoかTookyooか

ローマ字表記法が見直される。日本語のローマ字表記には学校で教える訓令式と、英語の発音に近いヘボン式があるが、どちらも日本語の音を正確に置き換えることが難しい。

 訓令式は五十音図の概念で日本人が定めたものだが、タ行やザ行などは訓令式では外国人には読みにくい。アメリカ人のヘップバーン氏が考案したヘボン式は発音面は英語圏の人に読みやすいが、英語にはない長音の概念を表せない。小野も大野もOnoである。大谷さんがOhtaniと綴っているのは、後の工夫で加藤という野球選手のユニホームの背中にはKATOHとあったが、これは必ずしも海外からは読みにくいらしい。

 今回の改訂ではローマ字表記の基本をヘボン式としながらも、長音はマクロンをつけるか母音を繰り返すことが推奨される。KATŌかKATOOになる。個人的には記号付きでいい気がする。なおマクロン付きの文字はiPhoneの場合は該当する文字を長押しすると候補が現れ選ぶことができる。

英語圏で嫌われるnとbの連続は今回は考慮不要とのこと。また人名や地名など定着していたりこだわりがあるものは変えなくてもいいという。TokyoやOsakaはそのままでもいいということだ。

私の名前にも長音があるが、当面は従来の表記で、余裕のある時はマクロンをつけようと考えている。

AIを道具にできるのか

 私のようにAIに関しては慎重な者でも、最近は使う機会が増えている。いわゆる壁打ちと呼ばれるアイデアの醸成に使うことがその一つだ。スマホのアプリでも簡単なことはできるので、相談役になってもらうことがある。どんなに浅はかな提案でも、非難することなく持ち上げてくれるのは、プログラム上のこととは分かっていても悪い気にはならない。私にそれと同じことはできない。嫌なことは言動にすぐに出てしまう。

 適当な(曖昧なという意味)プロンプトで指示すればそれなりの結果を返してくるのも人工知能の優れたことだ。ただ、いまのところ忖度のような非言語要素はできていない。言われたことをそのまま形にするのは恐ろしく得意だ。

 よく言われるように人工知能の言語処理は意味をよりどころとせず、形式を元に確率が高い組み合わせを瞬時に繰り出してくることと言える。人間の使う言葉も大半はこの確率論的な語の組み合わせで生活しているから、AIの回答は間違いではないと感じることが多い。ただ、やはり私たちは言葉を意味を基準として運用することが多く、用例的な確率とは異なる。私のような捻くれた人間は人の使わない表現を使うことを常に求めているから、人工知能的な言語活用に不適合になることが多い。

 それでも、これから先の社会において人工知能の効用を利用しない手は考えられない。今やっているのは、事実関係の事象が大半だが、そのうち心理的な問題もAIに尋ねることになるのだろう。その際にどんなに自分よりきれる能力を持っているように見えても、それは人外食作り出した道具だということを忘れないようにしたい。届かないものに対して杖が使われ、速く走るために靴が発達し、もっと速く移動するために車や飛行機が生まれた。手や足の代替である。今度は脳の代替が出てきたわけで、道具を使う人類の営みには変わりはないということになる。

自分という存在

 自分を調整することは難しい。私という存在が自分の中心にいるとは思いながら、どこか思い通りにならない。そうすると実は自分は誰かに操られているのではないかという疑問すら浮かぶ。自分の存在が社会や共同体によって規定されているという考え方は哲学の世界では長らく議論されている。実際、私という存在は社会の中である程度決められており、それを逸脱することは様々な苦難を生じる。世間の常識という言葉で納得する様々な決まりごとは、よく考えれば自分の存在をガチガチに縛り付けている。

 ならば好き勝手に生きるのがよいかといえばそうでもない。好き勝手といっても何をしていいのか実はよく分からない。束縛されず自由に生きるというのは聞こえはよいが、この表現の前提には束縛されているという現実がある。そもそも束縛されていなければ自由を感じることもできないし、そもそも束縛とは何かも分からないかもしれない。

 人間が社会的な生き物であることは誰もが理解している。ある種の動物のように、ほとんど個体で一生暮らし、たまたま巡り合った異性と交尾して子孫を残すだけに生きるといった一生をほとんどの人間は受け入れられない。私たちは集団の中で生き、その中で自分の存在を認められ、あるいはほかのだれかを評価するという繰り返しの中に生きがいを感じるのだ。ただ生きていればいいとか、死ぬまで一人だけで好きなことをするというのは空しい妄想であり、実際にそんな機会を与えられたら大抵の人は耐えられなくなる。

だから、自分という存在をどのように扱うのかは実はとても大きな問題なのだ。社会的に生きる選択をするならば、自分の所属する社会の利益にかなった行動をとることが求められる。それが個人の欲望と齟齬があったとしても枉げられない。人間の長い歴史の中で自分という存在がどのように考えられてきたのかを知ることは、今を生きる私たちの息苦しさを解消するきっかけになるのだ。

パークに通う理由

 テーマパークに行くと楽しいのはなぜか。それは好きなキャラクターなり、それらが織りなす架空の世界が実現されているかのように思わせるからなのだろう。明らかに実質より高価なイベントなりグッズなりを遠慮なく買いあさるのは、その世界への没入がなせる業だ。

 見方を変えれば現実社会はそうではないということである。自分の好きなもの、好ましいと思うものばかりがある訳ではなく、むしろその反対のものの方が多く、取り囲まれていると感じることが多い。その中で不本意に毎日を送り、わずかに許せるものを第2、第3の代替品として使っている。人間関係も現実社会のそれは決して心地よいものばかりではない。善意に囲まれた(ように見える)テーマパークの中の人々とはかなり異なる。

 日常生活に活気を取り戻すためにはどうすればいいのか。まずはこの世界をテーマパークのように考え直すというやり方がある。「人生」というテーマを実現したものであり、そこには仲間もいるがそれ以上にライバルも敵もいる。そのすべてが人生に深みを感じさせるためのスタッフなのである。という風に無理やり考えてしまうことである。こう考えられる人はおそらく人生に悩みを感じることはないのかもしれない。

 逆に自分の扱う範囲を実人生の中でも狭めてしまうという手もある。付き合いやすいものだけを取り上げて、それ以外は流す。選択的な処世術である。これは適度であれば推奨されるはずだ。誰とでも仲良く、価値観が乖離している人にも配慮するというのは理想だがかなり疲れる。場合によっては無理がある。だから、付き合い方に濃淡をつけて、濃い人たち、社会とのつながりを深め、薄い方はなるべく関わらないようにする。それで無駄な軋轢が生まれないのならいいのかもしれない。

 ただ、この濃淡論は一歩間違えば分断の素になる。気に食わないものとは付き合わない。それが自分の利益を損なう場合は対立し、場合によっては実力行使を行う。このやり方こそ現代社会そのものではないか。この後に続くより悲惨な結果が透けて見えるのは私だけではないだろう。

 テーマパークは収益という分かりやすい目的を持っている。プラスティックでできた100円ショップでも売ってそうなものを、その100倍近くで買っても満足してしまうのは、日常生活で満たされない何かを自分で出せるくらいの出費で一時的にでも解消できるからだ。家に帰りついてもそのグッズは一定の効果を持ち続ける。そのキャラクターなり、世界観を感じられる何かがある限り一種の幸福感があるのだ。金銭だけで何とかなるのなら、日常の不条理よりはるかにいい。

 人生をパークにしてしまう覚悟がない限り、商業的テーマパークの需要はなくならないのだろう。

送り火

 盆の送り火の日である。京都の五山の送り火は有名だが、先祖を死者の国に送り返すための行事は全国にある。新暦月遅れの場合は今日だが、旧暦の場合7月16日は新暦の9月8日にあたり、まだ先だ。先祖を送る行事はとても大切だったらしく、いろいろな形がある。

 日本の祖霊は歓待すべき対象と考えられる一方で祭りの終わりとともに帰還してもらわなくてはならない存在でもあった。祖霊がいる間は日常の生活はできないのだから、帰っていただかなくては困るのである。そこで盛大な見送り行事が行わる。送り火の巨大化もそうだが、あるいは祭りの際に使った祭器等を片付けることや、場合によっては破壊することを強調した儀礼もあるという。盂蘭盆会のみならず、神や祖先神を招来したときはその終わりにはっきりとした終了のための行動をする事例を見たことがある。

 ハレの日が終わり、再びケの日に戻るためにはそれなりのけじめが必要なのだろう。これは今日の私の生活にも言えるのかもしれない。生活の局面を変える時には何か大きなことを、目に見える形でしておかなくてはならないのだろう。毎日がお祭りのようになっているのが現代人の生活だが、一度冷静に戻るために浮ついた精神はどこかにお帰りいただく必要がある。

ピークは過ぎても

 こんなこともできないのか。そういう叱責は幾度も受けてきた。できることのピークは人生のどこかにある。いまはやりたくてもできない。ただそれを認めたくないこら、無理をして結局敗北する。そんな悔しさを積み重ねた私のいま思うことを書いておこう。

 数年前、草野球に駆り出されて、自分の投げた球があまりにも相手の手前に落ちたことを嘆かしく思った。自分が思う身体能力と実際のそれとがはるかに乖離していると実感したのだ。小学生の時にソフトボールクラブに無理やり入れられて、外野手で、四番だった栄光がちらりと浮かぶが、体力の衰えはあまりに正直だ。

 ランニングでもそうだ。4、5年前までは何とか走れた。十数キロのジョギングを楽しむことができた。ほとんど何も装備せずにただ走るのが楽しみだった。それが時々膝に水が溜まることを言い訳にしてやめてしまった。いまは恐らく数キロでさえ走れない。やりたいと思っても、もしも故障したらという気持ちがまさってしまう。

 ピークは過ぎてもやれることは残っているのだろうか。むやみに走るのはいまのところやめておいた方がよさそうだ。変わりに何ができるだろう。例えば清掃ランニングはどうだろう。ジョギングコースに落ちているゴミを拾って持って帰る。ゴミがあるたびに休憩できるし、幾分かの社会貢献の気持ちも持てる。速く長く走れないならばこういうふうにシフトしてもいいのかもしれない。

 この歳になれば他人よりいい成績を求めるよりも、自分で満足できる何かをした方がいい。殆ど役には立たない状況でいまできる何かを探した方がよさそうだ。正直言っていまはかなり落ち込んでいる。やけくそになっているとも言える。ならば、その放埒を社会的にマイナスの方面に行かないように意識するのが肝要だろう。

 出し殻にもまだ使い道がある。そう思いたい。

銭湯の牛乳

北千住駅にて

 乗り換えで使う北千住駅にこのようなディスプレイがあった。銭湯の組合が利用促進のためにおいたもののようである。

 幼少期にこの街で暮らしていたのだが、小学校に上がる前のことなので記憶はかなり曖昧だ。限られた記憶の中に銭湯の記憶がある。父に連れられた時は男湯に、母の時は女湯に入ったはずだが、風呂そのものの記憶はまったくない。覚えているのは入浴後の牛乳である。瓶詰めで紙の蓋であった。いつも飲めるのではなく、何回かに1回の楽しみであった。それとのぼせそうになった脱衣所の湿気を何となく記憶している。

 その頃は風呂に入ること自体があまり好きではなかった。髪を無理やり掻きむしられ、湯を掛けられる間、息を止めているのも苦しかった。いま思えば何とももったいないことだ。そういう記憶があるということはこの当時、住んでいた家には風呂がなかったのかもしれない。それも記憶が朧げだ。

 当時お世話になった銭湯はまだあるのだろうか。いまはさまざまな付加価値がないとこの業界は厳しいと聞く。北千住に複数の銭湯が営業しているということは、この地域には需要があるのだろう。牛乳はまだあるのだろうか。

思考の型

文章作成を指導する上でいわゆる「型」を重視する指導者は多い。私も型は大切だと思う。この型は多くの日本語話者に共有されているから、身につけてしまえばかなりの汎用性がある、いわゆる知識人と呼ばれる人たちはこの性質を利用するのにたくみだから、型に沿った論理展開を前提に持論を展開する傾向がある。

世界の現状はそれほど単純ではない。理屈に合わない展開はいくらでもある、それは当事者の意志とも異なるときもある。私たちは世界の現実を丸ごと受け入れられるほどの度量はないし、かといって無意味な事実の連続に耐えられるほどの忍耐力もない。自らの境遇には自分で釈明したいし、それができない事態は到底受け入れられない。真実でなくてもいい。自らの日常が保たれるほどの何かがあればそれでいいのである。

世界を型で切り取るということは人生そのものが型というフレームの中で考えられているということだ。私たちの日常が数えられる型の組み合わせでできていると思い込んでいるのである。それは個々の事例にいちいち悩まなくてもよい快適さをもたらしている。

それでも中には型にどうしてもはまらなかったり、型の組み合わせの影響で事実から離れてしまうこともある。そういう事態に私は最近よく陥いるのだ。思考の型を手持ちのものだけにとどめないこと、時には型の一部を変形してみることも大事なのかもしれない。