カテゴリー: エッセイ

局地的な豪雨

 天気予報で夕刻に局地的な豪雨があるかもしれないという予報が出ていた。職場からの帰宅時間にあたっていたため、ずぶ濡れになることをある程度覚悟していた。ところがついに雨は降らず厳しすぎる陽射しが続いていた。

 ネットで雨雲のレーダーをみたところ、下町の地域には激しい雨の状況を示す赤で塗りつぶされている。わずかな距離で豪雨と晴天が分かれる。それがこの季節の特徴のようだ。今回は私の生活圏の東西に豪雨の地域が分布して、その隙間の晴天域にいたということになる。

 どこに豪雨が来るのかはくじ引きのようなものでまったく予測がつかない。思うに天気もそのほかの環境も、実はそのとき、その場所での偶然の現象なのだ。これを一律に語ることの方が不自然だったのである。

 天気予報で東京の天気は、という言葉を耳にするとき、自分のいる所は東京都ではあるが、予報で述べられた東京とは違う場所なのだということを考えなくてはならないと考えている。

未成年SNS禁止に思う

  16歳未満にソーシャルメディアを使わせることを禁じる国が増えつつある。判断力、責任力のない世代にSNSの有象無象に対峙させることは危険であるという判断は間違いではない。私たちは悪意の含まれた情報を無害化しながら受け取れるほど進化はしていない。どんなに怪しい情報でもすぐに信じてしまう。まして近年の人工知能の作り出す非現実情報を見抜ける力はない。

 SNSを使わせないことはやはり必要だと思う。ただ、年齢が上がればその害を判別できる能力がつくのかといえばこれも疑問だ。このリテラシーは容易に身につかない。年齢だけの問題ではない気がする。もちろん、似非情報を判別できる能力を身につける努力は必要だ。そのための教育もやるべきだ。

 ただ何よりも必要なのは、多くの人と対面でコミュニケーションする機会を設けていくことだと考える。効率化で自動化無人化する傾向にあるが、せめてあいさつする程度のコミュニケーションは見直していいのかもしれない。

 

避暑空間

 酷暑日という言い方は以前からあり、私もブログで使ったことがある。一種のブラックジョークのようなものと思っていたが今年から正式名称昇格してしまった。すでに観測点がいくつも出ている。もはやSFの世界ではなく、今ここにある危機である。

 こうなると冷房というシェルターがなければ生存すら脅かされる。公的機関は避難所扱いで空調の効いた空間を提供すべきだ。民間施設も有料でもよいので酷暑避難所を開設してほしい。これももはや架空の話ではない。

 喫茶店や図書館など気軽に使える避暑空間をどれだけ知っているのかも重要だ。自宅のエアコンが万一故障しても逃げ場があることがこれからは死活問題となる。

漫画、アニメが果たす役割

 アニメが日本文化の宝だと言われて久しい。ただ、私の子どもの頃の評価はアニメはどちらかといえば有害なものでおよそ文化の一角をなすとは考えられていなかった。昭和世代にとってはアニメーション作品は生活の一部とでもいえるものだが、その価値に関してはやはり二流三流の地位を逸脱できず、こっそり見るものという位置づけだった。

 近年、世界市場で戦えるものが少なくなった我が国は長年虐げてきたアニメなどの大衆文化を国の財産であるかのように売り出している。アニメやその原作に当たる漫画は、概して体制批判側であるが、その主張がマイルドであるために為政者の検閲を逃れ続けてきた。我が国のわずかな良さを指摘するなら、この漫画文化をつぶさなかったことだ。海外に展開するのは大いに結構なことだが、その批判精神、場合によつては鋭いレジスタンスの主張を見逃さないでほしい。

 この先日本は賢く立ち回らなければならない。家の支えになる方法は幾通りもある。

危険な暑さ

 日中、近くのショッピングモールを歩いた。かなりの暑さであった。最初は何でもなかったが、次第に気分がおかしくなって行った。幸いすぐに冷房のある所に入れたが暫くは落ち着かない感じがした。

 暑熱順化は済ませたつもりでいたが、梅雨時のやや低温の期間を経てリセットしてしまったようだ。危険な暑さとは絶対的温度だけではなく、変化の度合いによるところが大きいらしい。

 東京はこれから高温傾向が続くようだ。基本的な体力が逓減している身にとって、危険な暑さが続く。慣れることと避けることを巧みに組み合わせて切り抜けるしかあるまい。

音楽で感情を

 管弦楽のコンサートに行った。日本初演の楽曲が披露されたが極めて難解であった。過去の詩人の作品を楽曲にしたものという。複雑な心情を現代音楽の手法で楽曲化したものである。そう思って聴くと少し理解できた気がしたが、やはりよく分からなかった。

 自分の今の心境をありのままに文章にできるかといえば、おそらく無理である。実はこのブログを書くときにそれを目指して何回も下書きをし、推敲することがある。WordPressには下書きの機能があるから、そこにためるのだがいつも採用できない下書きが並んでいる。書いているときには素直に書けたと思ったのだが、一晩熟成すると実は何を言っているのか自分でも分からない。文章作成とは自分の言いたいことを日本語の文法に落とし込む作業だ。それは大抵失敗する。

 文章は言葉で構成されるが音楽は音の塊で、私にはどのように表現していいのか分からない。絵画でもそうだ。ただ、どんな方法であれ、人の心を描くのは難しく奥深い。

ツバメの子

 実家の最寄り駅き今年も複数の燕の巣ができていて、すでに雛が顔を出している。数えたところ6羽いる。親鳥は人の往来を巧みにきり抜けて駅舎の外へと飛び立ち、餌をくわえて戻ってくる。他の鳥や動物が近づけない駅の改札前は燕にとっては安全地帯なのだ。

 巣の下に頭上からの落下物に注意するようにとの注意があり、燕の営巣に協力してほしいとの文言もある。日本ではどこでも見られる光景だが、こうして野鳥との共存ができていることはうれしいことだ。

 

文章を書くという癖

 文章を書くのが好きになったのはいつからだったろう。夏休みの絵日記の類は葉月晦の作になっていた。おそらく日記というものは苦行以外の何物でもなかった。それがブログ書きになっているのはものすごい皮肉な笑い話だ。

 長い文章を書いたのは旅行したときの印象を書き出したことだと思う。図らずも私の日記は紀行文から始まっている。特別な体験は文章に残したくなるというのが自然の成り行きなのだろう。どこそこに着いたとか、何を見たとか、そういう他愛もないことを書いていた。

 ネット時代になってブログという存在に気づいてからは日記というよりは随想を書くようになった。それもこの二十数年の間で少しずつ変化して今の形になった。いまや生活の一部であり、特別な経験がなくてもよくなっている。

 私の場合はこれが存在の自己確認手段の一つであり、明日もまた同じ行為をすることを何となく目標として考えている。すでに癖であるともいえそうだ。

筋肉は少しずつ

 筋肉は使っていないのに衰えるようだ。この表現に伝聞ではなく、推定の表現を使っていることに自分の現状がある。

 筋力の変化は緩やかに進行するので、ある日何かをきっかけに気づくことがある。思ったよりも足が上がらず、歩行が乱れるという現象も、はじめのうちは気づかなかった。普通は起きないのだが、あるとき突然現れる。意識すれば起きないが歩くことは当たり前すぎる行動なので常に注意することもできない。

 筋肉はある程度意識的に鍛えなくてはならないということを最近は痛感している。

猛暑予想

 今日は屋外の仕事があるのだが朝からかなり気温が高い。湿度もかなり高く過酷な日となりそうだ。なんとか身体をごまかしてやり過ごす。それが今日の目標である。