カテゴリー: エッセイ

毎日同じ食べ物

 十四松やインコを飼っていたころ時々思ったことがある。毎日同じ餌を食べていてよく飽きないものだと。もちろん時には菜っ葉を入れたりしたこともあるが、ほとんど同じ餌である。犬や猫を飼ったことはないが、多くの場合出来合いのペット用フードで済ませている人が多いことは容易に想像できる。

 しかし、多くの生物は決まったものを補食して命をつないでいる。中には食するものが決まっていて、それがなくなればともに絶滅するというものもある。食べ物を限定しないことは生存の可能性を高めるから、いわゆる雑食は生き残る戦略としては正しいのだろう。その分、雑多なものを消化しなくてはならないというリスクが上がってしまうのだが。

 レベルの違う話になるが、私の最近の食べ物を考えてみれば決して豊富な食事とは言えない。同じような出来合いの料理を定期的に繰り返し食べている気がする。雑食ではあるが、豊かではない。そんな食の日常がある。

 生きていければそれでいいではないか。そういう考え方もある。ただ栄養の合計という訳ではない。何を食べるのか、どう食べたのかがごだわりのあるのが人生というものである。何をどう食べるのかは生き様そのものなのかもしれない。

薔薇園

 この季節はさまざまな花が咲く。園芸品種もいまが一盛りあり、梅雨明けを待つ私たちの心やりとなる。最近、隣接する都市の薔薇園に出かけた。まさに盛りの様相だった

薔薇は奥が深い

 薔薇はさまざまな品種改良がなされ、それぞれに魅力的な名前がつけられている。中にはなぜこの名前がと思うものもある。これはつけたもの勝ちなのだろう。

 薔薇のように管理された園芸品種でなくても、実はさまざまな見どころがある。数日前に書いたアザミなどは野趣に溢れるが見どころは多い。植物にはさまざまな生き残り戦略があるが人間に気に入られることで生き残る品種もあるのかもしれない。コバンソウなどは意図したのかは分からない。結果的に刈りにくい雑草の一つにはなっている。

 薔薇のように長い歴史の中で人間と関わってきた品種は限られている。あるときは薬用、あるときは美の象徴、それが権力の表現にもなり、その都度位置づけを変えてきた。現代においても庭園の主役であり、薔薇に形容されることには大きな称賛の意がある。

 だからこそ、終わることのない品種改良が続けられ、その美しさもはかなさも例えようのない魅力となっている。薔薇園はそういった人為の成果であり、ある意味芸術作品ともいえるものだ。その種が生まれるまでのストーリーを考えると公園めぐりも別の意味を帯びてくる。

現状維持

 現状維持は消極的な目標と考えられてきた。日進月歩は当然のことで、上昇のない成果は失敗と考えられてきた。少なくとも私の世代の常識である。ただ、昨今の状況は違う。現状維持は立派な成果であり、称賛に値するものと考えられるものである。現今を取り巻く状況はかなり厳しい。その中で現状を維持できたのは幾多の努力と工夫の賜物なのだ。

 ダウンサイジングしていく日本の文化においては過去のような成功事例をそのまま当てはめるのは無理がある。過酷な環境に打ち勝ち、別のベクトルを見出してそれを実現できたものこそが成功者なのだ。大量生産大量消費の図式での競争は勝ち目がない。むしろ自分しかできないものを付加価値として打ち出すことが必要になってくる。、

腰を痛めて

 寝相が悪かったせいなのか腰のあたりの筋肉を痛め、軽いぎっくり腰のようになってしまった。情けない歩き方になっている。これはやがて治るだろうが、治らなくなったときが老いというものになるのだろう。その意味では将来の予行練習をしているのだとも言える。何事も考え方次第、少し時間を俯瞰する機会を得たということにしよう。

塩分と水分

 熱中症の発生しやすい季節になった。梅雨明けも近そうで湿度の高い暑さが次第に力を増しつつある。この時期は水分補給がかなり重要だが、単なる水では症状を悪化させることもあるそうだ。過度に給水すると血中の塩分濃度が下がり、余計に負担をかけることになるらしい。スポーツドリンクのようなものがいいという。普段は塩分に関しては摂りすぎないように心がけているが発汗の多い季節は別なのだそうだ。気をつけようと思う。

スニーカー通勤

 最近、スニーカーを履いている女性が増えている。それも通勤時にスーツと積み合わせている人も多い。私は個人的にはいいことだと考えている。

 働く女性の靴といえばヒールの高いものとかつては決まっていた。おしゃれというより一種のルールとしてヒールのある靴は当たり前とされていたのだろう。身体によくないことは明らかだし、運動能力も低下してしまう。スニーカーはそうした弊害を除くには当然の履物だ。

 ただ、いまだスニーカーの選択には考慮すべき点があるように感じる。着ている服とのコーディネートを考え色や形を選ぶべきだと思う。スーツに合う履物をデザインすることも必要であろう。

 少し心配なのは、ハイヒールに代わるものとして超厚底の靴を履く人がいることだ。身長を高くし、足を長く見せる効果はある。ただ、重心が上に行くことによる危険性の方がはるかにまさるのではないか。

 履物とは何なのか再考しなくてはならない。日ごろからいろいろな履き替えを要求されているからであろうか。大変気になる問題なのだ。

デジタル文字を見て

 駅の電光掲示板を見ていたら、ドットの作る文字が、実は随分大雑把なものであることに気づいた。日本語にはひらがなや漢字の一部の画に曲線を描くものがあり、多彩だ。それを限られたドットで表現するのはかなりの工夫が要る。

 でも、それほど多くはない点の集合の組み合わせでみごとに文字が表されている。不自然を感じない曲線が映し出されている。

 でもこれをよく見れば、結構抜けている部分がある。にもかかわらずそれに不自然を覚えず、読めてしまうのは、文字というものは、ある要素さえ抑えて入れば少々おかしな形でも読めてしまうことを意味する。足りない要素があるのに読めてしまう。

 おそらく省略された文字の部分は脳が補完するのであろう。それを逆算してデジタルの文字はできているようだ。

七夕の短冊

 七夕であったが曇天で星は見えなかった。旧暦の中で伝えられてきた行事であるから、梅雨の季節の中に本来あるべきではないのだ。

 七夕伝説は中国から伝来したものである。ただ、当の中国では七夕は恋人たちの祭りのようなものになっているらしく趣が異なるようだ。我が国の行事も歴史的な変遷の末に今の形になっている。短冊に願い事を書くというのは江戸時代である。その願い事も字や裁縫の上達といったことが中心だった。

 商店街に飾られた笹の先につけられた短冊をみると、入学試験合格から家族円満、蓄財の願いなど様々だ。世界平和とあるのはかつては大袈裟と思ったが、近年は切実な祈願と言える。本来の歴史とはかなりかけ離れたが、星に願いをかける切実さは紛れもない事実だ。

紫陽花の剪定

 紫陽花を来年も楽しむためには、花期が過ぎれば思い切って剪定してしまうのがよいらしい。そのままにすると、養分が次の花にゆくのを阻害してしまうというのだ。色褪せてからの花にもそれなりの風情はあるので名残惜しいものである。

 野生のガクアジサイの類はそういう人為は受けていないから、それなりに咲くことはできるのだろう。あくまで園芸品種的な咲かせ方として、剪定が不可欠ということになる。

 紫陽花は品種改良が極めて進んだ植物であり、庭園に咲く花もその末のものが大半で野生の逞しさは失われているのかもしれない。にもかかわらず、毎年花をつけるのは、園芸師たちの地道な仕事の成果なのであろう。

アザミは野趣に富む花

 路傍のノアザミに感動することがある。アスファルトのわずかな隙間を割って生えているのに、その風貌は極めて特殊で、野趣に富むということばはこの花のためにある形容である気がしてならない。全身とげだらけようでありながら、どこか可憐な面もある。その棘は煮れば柔らかくなり、食用にもなるという。

 万葉集にはアザミを詠ったものはないが、在来種であることはほぼ間違いないらしい。今頃咲いているのはノアザミという種で、国立科学博物館のサイトでは日本固有種と認定している。万葉に詠まれなかったのは、むしろ日常的な植物であり歌語になり得なかったからかもしれない。

 他の植物とは異なる姿が印象的なので、いわゆる雑草のなかまとは思えず、特別扱いしてしまう。花が終われば特徴的な綿毛ができるのも興味深い。長い間、生存競争を生き抜いてきた植物のたくましさを感じる。もっともそれはアザミだけではなく、すべての動植物に共通するのであるが、この花にはどこか野生を感じさせる何かを感じるのである。