カテゴリー: エッセイ

来週は猛暑の予報

 このところ涼しい日が続いている。何でも14年ぶりの低温なのだそうだ。ここ数年は6月も真夏のような暑さとなることが多かった。このブログでも、蝉の鳴かない夏が終わって、その後蝉の鳴く夏になると書いたことがある。今年はそれはなかった。

 欧州では記録的な猛暑で、英仏各地だけでなく、北欧でも日本でいう真夏日、猛暑日となっている。学者によれば人為的要因の可能性が高いとか。化石燃料の使用中止を訴える論文も多数出ているらしい。これは地球規模で進行している。戦争などしているときではないのだ。

 現在、日本のはるか南海上で猛烈な台風が発生している。日本列島への影響も可能性大だそうだ。この台風の影響で気圧配置が急激に変化することも猛暑の銃爪になるそうだ。

 避暑できる所はない。ブログの名は架空の別荘をイメージしたものだが、本物が欲しくてたまらない。私の身の上では反実仮想の願望しかできないけれども。

意外な結末

 愛用している腕時計はスマホのアプリを通して時刻合わせをする。太陽電池なので電池交換もいらず、重宝して「いた」。ここにきて意外な展開が訪れている。時計本体には何の問題もないのだが、アプリの方が最近のスマホのOSに対応することを放棄してしまったのだ。

 対応するアプリをインストールしようとしても上手くいかない。起動しないのである。すでに数秒の狂いが出ている。クオーツの時計を使っていた頃は秒単位の差は無視していた。というより違うのが当たり前だった。ところがいわゆるスマートウォッチを使い始めてからは、まさに秒針と時報とが一致するのが当たり前になり、数秒の狂いが許せなくなっている。

 時計本体が故障したならまだ諦めがつくが、このような始末になるとは予想がつかなかった。メーカーにはせめて時刻合わせだけでもサポートしてもらいたいと言いたい。スマホもコンピューターも定期的に買い替えることが求められている中で、時計と万年筆は長く使い続けたいと考えているのだが、どうもそんなには甘くない。「スマート」であることを諦めて別の意味で賢い判断をして昔の時計に戻ろうかと考えている。

 

傘袋の文字

 百均で買った傘袋は意外に役に立っている。電車通勤途中、しかも混雑している路線を利用している私にとって濡れた傘の扱いは厄介なのだ。厚めのビニール生地でできている傘袋は防水性があり、濡れた傘を入れられ、そのままリュックのサイドポケットに入れられる。

 この傘袋には文字がプリントされた生地が縫い付けられている。もっと自分らしく、雨の日には晴れの日とは違う何がある、といった内容である。この手の文字は模様として考えられているので大抵無意味なものが多いが、この傘袋の「メッセージ」はなかなかいい。

 晴雨も運不運もあざなえる縄のごとし、何がよいか悪いかは簡単には決めつけられない。

スポーツでの成功を

 最近、日本代表のスポーツ大会での成績が向上している。サッカーのワールドカップはブラジルに阻まれたかが途中までリードすることなど、かつてはあり得なかったことだ。バレーボール男子はネーションズカップで快進撃を続けている。身体能力が如実に出る競技では日本人の体格は不利と言われていたのだが。

 フィギュアスケートでは常に上位に何名もの選手を送り、さらに後継の若い選手も次々に現れている。これには国家的な選手育成策が生きているとの指摘もある。さらにその下支えとして学校のクラブ活動の存在を指摘する人もいる。高校野球などを考えれば底辺の底上げができているのが我が国のスポーツ事情と言える。

 このスポーツにおける成功事例を他分野でも考えるべきだ。何かに真剣に取り組み、成果をあげつつある人への支援体制を考えていくべきだろう。今の日本ではその中心は大企業の社会還元活動に頼らざるを得ない。企業イメージが上昇するなら投資した以上の効果も期待できる。国や自治体は主導できるものとそうでないものを精査しなくてはならない。でも〇〇市発明の新技術とか新制度なるものができればおそらく投資以上の効果があるはずだ。

 スポーツのように勝敗がはっきりとし、そのためにどの程度の資金を傾ければいいのかが分かりやすければいい。現実社会ではそうもいかない良かれと思ったことが悪い結果に繋がり、さりげない活動が全体の福祉に結びついたりする。現実とはそういうものらしい。

 そういうものにどれだけ投資できるか。未来のために今どれだけ損失を認めうるのか。スポーツの世界で得た教訓をぜひ実世界でも生かしてほしいと考える。

フォーカスセッション

 Windowsの時計アプリにフォーカスセッションという機能がある。恥ずかしながら今日まで知らなかった。集中して何かをやりたいが、時間がかかりそうで集中力を保ちたいときに使うとよい。

 この機能は設定した時間が終わると音で知らせるというのはこれまでのアラームと変わりないのだが、その後に休憩時間を設定することができ、その次にまた集中する作業時間を設定できる。スポティファイと連携すると音楽も流せる。

 一説によれば、人が集中できるのは30分程度とか。そこで思い切って休憩を入れ、再度集中する時間を設けた方が効率が上がるという。経験上でも適度に休みを入れた方がよかったということが多くあった。

 最近はこのことを意識して、授業も25分で一度中断し、数分の無駄話をして次に進むようにしている。手元に音の鳴らない時計を置くことは欠かせない。人の集中力はさほど続かないという理論である。実際にはかなり個人差はあるのだが、とりあえずはこの基準で考えていくことにしよう。

抑制することで得たこと失ったこと

 歳を重ねて身につけたことの一つは感情を抑制することだと思う。若い頃ならば許せなかったことを、なぜか今は受け流している。それは必ずしもよいことではないのだが、正気を保つためにはとりあえず役に立っている。

 強い驚きとか深い悲しみとか、そういうものに取り囲まれることが時々ある。叫びたくなるような感情をなぜか今は抑えることができる。実際は抑えているわけではなく、結論を先送りしてごまかしているだけなのだ。このごまかしの技術が私をぎりぎりのところで守っている。

 このスキルを身につけたことで失ったものは多い。純粋に感情を発露することへの抵抗感が生まれてしまったのは大きい。感動のセンサーが鈍化しかことで大切なことをいくつも見逃してきた。それを感受できなければ表現することもできない。得るべき重要事を見逃し、何かに残せなかったことは私の価値観からすれば、痛恨事である。

 ただ、センサーをザルにしたことで深刻な悩みのもとを受け流してきたことはやはり大きなことであった。ある意味ずるい方法ではある。すべてに受けて立つことを放棄した戦略だ。若い頃はこれだけはやりたくなかったが、気づいてみればどっぷり浸かっている。

 私の行っている調整は以下の点である。一つは芸術や他者の言動で感動することがあれば、言葉にすること。このブログもその手段の一つだ。負の感情が起きたときには、忘れること、無視することに全力を傾け、それができないときは非公開のノートに書き連ねてしまうことである。こうして不自然な精神状態を少しでも馴化しようとしている。私が毎日、何らかの文章なり、詩歌なりを書くのはまさにそのためということになる。

今夏の気象予報

 非常にまれと思われる二つの台風の連続接近という現象があった。私の住む地域ではかなりの雨は降ったものの台風が原因の災害は起きていないようだ。進路が南にずれたことや、接近した時には勢力がかなり落ちていたことが原因らしい。

 ただ、このような天候による災害が今後増える可能性があるという予測も出ている。日本気象協会の予報では最高気温が40℃を超える酷暑日となる地点がのべ7~9か所になるという。実は昨年は30か所もあったらしい。それには及ばないが、とても暑い夏になるのは確かだ。報道によればヨーロッパの各地で異常な高温になっているという。条件が異なる日本をそれと比べるのはふさわしくないが、地球規模の異常気象が起きているならばその限りではない。

 台風の接近数に関しても予測が出ている。数としては平年並みかやや多いといったものであった。ただエルニーニョ現象によって台風の大型化が懸念されている。この現象が起きると台風の発生源がいつもより南東側に移動することが多く、結果として海上を進む時間が延び、その間に勢力が強くなることが多いというのだ。今年も迷走しながら徐々に力をつけていく台風を気にしなくてはならないのだろうか。

 梅雨明け後の猛暑に備え、時折来る台風に気を付けなくてはならない。最近は自身も頻発している。日本という国は天災に関しては実に濃厚な地域である。私たちには世界のほかの地域と比べて防災の設備は充実しているが、それでも抗えないのが自然の力である。せめてもしもの時のことを少しずつ考えておく必要はありそうだ。

鳥瞰の必要性

 鳥の目になって世界を見下ろしたような地図を鳥瞰図という。bird viewing の翻訳語なのだろうか。地面から見るのとは異なる世界が見えるのがいい。地面にはいつくばって生活している私たちは自分の生活範囲だけで世界を判断しがちだ。ときには鳥の視点を持つ必要がある。

 先日、渡り鳥に関する本を読んで気付いたことがある。鳥類の研究者は渡り鳥の実態を調査するために鳥に発信器をつけて、人工衛星の機能を利用することがあるようだ。ある鳥は冬に九州に渡ってくるが、春以降は北上してシベリアなどに渡るらしい。その本によると渡り鳥がしばしば休憩地と利用するのが韓国、北朝鮮の非武装地帯ということだ。この場所は人間の出入りが難しく、結果として野生動物の楽園となっているようなのだ。

 日本、韓国、北朝鮮、中国、ロシアとこの地域は複雑な政治的状況のもと、人間の交流は制限されることが多い。ただ、鳥には国境はない。民主主義国家も独裁的な国家も人間の話である。こうした動物たちが常に行き来しているという現実を鳥瞰しなくてはならないと思うのだ。

最近の幸福感

 幸せになるというのはとりも直さず、自分自身が幸せの状態になることだと信じてきた。自分の身の上に幸せと思えることが次々に起こることが幸せの形だと考えてきた。それが最近少しずつ変化していることを自覚している。自分の幸せを願うのは当然だが、他者との競争ではなく、自分の周辺の人たちの幸福を知ることが喜びになっているのである。かつては妬ましさしか生まれなかったのだが。

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 自分では果たせなかった夢を実現させた人の話を耳にすると、羨望や尊敬、嫉妬や夢想などさまざまなな問題が脳裏を駆け巡る。どちらかといえば私の性格なのか、今は彼より劣っているが、そのうちそれを超えることができるという無根拠で楽天的な考え方が支配していた。そして、同時に深い劣等感が底流で心の底面を傷つけ続けてきた。私は実力とは無関係にその意味では自信家であったと言える。そして、その楽天的な考え方が今までの自分を支えてきたのである。

 ところが、最近はいろいろな失敗を重ね、周囲からの評価も自分が思うものとはかなり異なるものになっている。あの人はあれが限界だからという同情の念でとらえられることが増えていることを実感している。そして、また失敗を重ねている。思い通りに動かない身体、粘りの利かない思考活動、そういった現実を毎日のように突き付けられ、かつての無根拠の矜持は日々崩れ去っている。自分を認めてくれている人が減っていることは紛れもない事実なのだ。

 そういう自分を取り巻く環境の変化の中で、私の幸福感は徐々に変化しているようだ。自分ができないことへの焦燥なり屈辱感よりも、懸命に何かに取り組み、成果を残している人に対する賞賛を行うことが幸福につながっている。他人の不幸は蜜の味というブラックな表現があるが、私にとっては他人の幸福は甘美な果実のように思えているのである。昔の自分にこの感覚はなかった。もし昔の自分に今の感性を説明したら、たちどころに負け犬の考えだと断じられるに相違ない。でも、これは事実なのである。

 おそらく、この傾向はこれからも続くのかもしれない。私は自分の残された力を細々と使っていく。その中でそれなりの幸福感を得ることだろう。おそらく、それ以上に多くの不遇感も感じながら。でも、それを中和する他者の幸福に感動するという精神も増やしていくことになると思われる。歳をとることにはそういう一面もあるのではないか。

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嵐の前の準備

 また台風が接近している。今回は2つの台風が連続して接近するという。8号の方は強い風を保ちつつ進んできており、9号は台風としてはレベルが低いものの、南海上から湿った空気を大量に運搬しているために今回は水害も懸念されている。

 明日、明後日の計画が変わる可能性がある。締め切りのある仕事が並んでいるために、天候によって出勤不可能となった場合を想定すると、今日は一気に忙しくなる。優先順位を決めて、全力疾走ということになるだろう。