幸せになるというのはとりも直さず、自分自身が幸せの状態になることだと信じてきた。自分の身の上に幸せと思えることが次々に起こることが幸せの形だと考えてきた。それが最近少しずつ変化していることを自覚している。自分の幸せを願うのは当然だが、他者との競争ではなく、自分の周辺の人たちの幸福を知ることが喜びになっているのである。かつては妬ましさしか生まれなかったのだが。

自分では果たせなかった夢を実現させた人の話を耳にすると、羨望や尊敬、嫉妬や夢想などさまざまなな問題が脳裏を駆け巡る。どちらかといえば私の性格なのか、今は彼より劣っているが、そのうちそれを超えることができるという無根拠で楽天的な考え方が支配していた。そして、同時に深い劣等感が底流で心の底面を傷つけ続けてきた。私は実力とは無関係にその意味では自信家であったと言える。そして、その楽天的な考え方が今までの自分を支えてきたのである。
ところが、最近はいろいろな失敗を重ね、周囲からの評価も自分が思うものとはかなり異なるものになっている。あの人はあれが限界だからという同情の念でとらえられることが増えていることを実感している。そして、また失敗を重ねている。思い通りに動かない身体、粘りの利かない思考活動、そういった現実を毎日のように突き付けられ、かつての無根拠の矜持は日々崩れ去っている。自分を認めてくれている人が減っていることは紛れもない事実なのだ。
そういう自分を取り巻く環境の変化の中で、私の幸福感は徐々に変化しているようだ。自分ができないことへの焦燥なり屈辱感よりも、懸命に何かに取り組み、成果を残している人に対する賞賛を行うことが幸福につながっている。他人の不幸は蜜の味というブラックな表現があるが、私にとっては他人の幸福は甘美な果実のように思えているのである。昔の自分にこの感覚はなかった。もし昔の自分に今の感性を説明したら、たちどころに負け犬の考えだと断じられるに相違ない。でも、これは事実なのである。
おそらく、この傾向はこれからも続くのかもしれない。私は自分の残された力を細々と使っていく。その中でそれなりの幸福感を得ることだろう。おそらく、それ以上に多くの不遇感も感じながら。でも、それを中和する他者の幸福に感動するという精神も増やしていくことになると思われる。歳をとることにはそういう一面もあるのではないか。
