古典文法を教えているのだが、これがなかなか面倒だ。コツをつかめば受験勉強レベルのものならばある程度はすぐにできるようになる。教える側はそのように考えてるのだが、それがなかなかうまくいかない。思うにまずは興味の持ち方の違いがあり、次に練習量の違い、さらには自分ごとに落とし込めるのかどうかの違いもあると思う。
日本の古文は現在とは異なる文法がある。同じ日本語であるから基本的な構造は変わらないが、例えば動詞の活用の種類は9種類もある。また推量系の助動詞も「む」「けむ」「らむ」「べし」「じ」「まじ」「まし」「らし」「めり」「なり」と非常に豊富だ。係り結びという現在は消滅した(というより置き換わった)文法もある。中高生はそれをいちいち覚えるのだが、この局面では暗号解読の手段を身につけることに他ならない。
その暗号が分かれば巨万の富が手に入るというならばまだ学ぶ動機は保たれよう。入学試験を通過するためというなら、かなり危うくなる。古典ができなくても入れる大学はいくらでもある。そもそも昔の文章を読んでも意味はない。あくまで試験に合格するための手段だと考えている輩に古典文学を読む自立的動機はあるはずがない。
古典学習についてはいつも不要論を振り回す人がいる。そんな時間があれば、プログラミングか、フィンテックを教えるべきだと豪語する。しかし、この論理は最近分が悪い。その程度のことは人工知能がやってしまうので、小手先の技術では何ともならないのだ。経済問題ならば、国家の歴史や国民性、企業の慣習などさまざまな文化的要因を理解する必要がある。文化的な理解こそ、人工知能が及ばない部門であり、それができるのが人間だとも言える。
話が拡散したのでもとに戻そう。古典文法を学習するのは大学受験が目的であつても、日本語の成り立ちを考えるきっかけになるということだ。そして書き言葉として長く君臨した平安時代の文章語がなぜ権威を保ち続けたのか。その謎を説くことが日本文化を考えるのには重要だろう。
文法を学ぶことはその国の言葉、つまりその言葉を使う人の考え方の型を学ぶことになる。それが古典文法であるならばその国のものの考え方の基本を学ぶことになるのである。このことを意識して教育をしたい。受験のための手段を教えている訳ではない。
