カテゴリー: エッセイ

味気ないサービス

 最近いろいろな店が機械化をして、人件費を節約しようとしているらしい。飲食店の配膳ロボットはすでに市民権を得ているが、掃除をしたり、公園保護の仕事をするのは機械の得意とするところだ。こうしたことの機械化は人口減少の未来の救いになるかもしれない。

 ただ、対人的な雰囲気を重視する人たちにとっては残念なことなのだろう。日本に訪れた外国人が日本の様々な優良なサービスを称賛したあと、飲食店の注文がタッチパネルなのは残念だという。世界有数の接客サービスと聞いていたのに、実際はむなしくタップやスワイプをするだけだったというのだ。接客を楽しみにしている人にとっては今の状況は期待を裏切るものであろう。

 経済効果とか効率化とかそういう言葉では測れない何かが客商売にはある。顧客に満足してもらうことが大事だ。そのためには熟練した従業員が必要であり、彼らを雇うことができるだけの資本力が要ることになる。価格に転嫁されれば格安店には勝てなくなる。安いが味気ない店か、高いが印象の良い店か。今は選べるだけ幸いだ。今の調子で人口減少が続き、移民を受入れず人手不足のままならば、味気なさが蔓延することになる。

天然の加湿器

 咳の出る風邪が流行っているようだ。発熱は少ないが喉の腫れが強く、咳き込むとなかなか止まらない。私もようやく峠を越えたがかなり長く咳に悩んでいた。

 そこで混雑した電車や雑踏を通過するときはマスクをつけることにした。コロナ禍時代の神経質な雰囲気はないが、それでも混雑の中で咳をするのには気を使う。予防効果がどれほどあるのかわからないが少なくとも気休めにはなる。

以前かかっていた町の医師からマスクは天然の加湿器ですと言われたことも思い出す。寒さと乾燥の季節を何とか乗り切りたい。

オリンピックプールでスケート

 渋谷に住んでいた頃、代々木オリンピックプールに時々泳ぎにいった。競技用なので水深が深く、あまり水泳が得意ではなかった私にとっては少々恐怖もあった。

そのプールが冬季にはスケートリンクになった。これもホッケーやフィギュアスケートの国際大会が出来る仕様なので広くアマチュアというか初心者には贅沢だった。よく考えると滅多にない体験をしていたことになる。

アイススケートも得意ではなく、何とか周回できる程度であったが、なぜか何度も行きたくなった。怪我しても筋肉痛になってもだ。

でも、今となっては相当な勇気が必要だ。イメージ上では華麗なターンを決めてみても、実際に身体が着いてゆくとは思えない。でも一度やってみたいとは密かに考えている。

駅弁の魅力

 時々近隣のスーパーで駅弁が売っている日がある。しかし、そこに行かなくては食べられないというのが駅弁の魅力だろう。

 新幹線が走り、車内販売をやめたことから駅弁を食べられる環境はかなり厳しくなった。機関車を増結するための停車時間を利用した。横川の釜飯などは、初めて見たときにはよくも短時間で売り切るものだと感心した。いまは新幹線が知らない間に走り抜けるので、駅弁としてホームで際どく買う釜飯の醍醐味はない。

 それでも全国にはいろいろな工夫を凝らした駅弁がある。その心意気を楽しみたい。旅することが少なくなったこの頃ではあるけれども。

とにかく書くこと

 自分の考えをなんでも書き出すといいという意見に時々出会う。私にとってのこのブログなどはその目的で続けている。質より量というか、継続である。自分で言うのもむなしいが、ほとんどがどうでもいい記事である。ただ、私の場合は毎日何とか続いているので、過去にこのようなことを考えていたんだということを思い出すよすがにはなる。

 これは悪いことではないらしい。私たちの思考は言葉によってなされるが、それがまとまった文章になって初めて思考というものが形成されるようだ。あれこれ思っていても形にしなくては定着しない。だから、無理やりにでも言葉にすることには価値があるというのだ。思いつくまではもやもやとして何も始まらないが、ノートにメモしたり、キーボードをたたき始めると意外にも次から次へと言葉がつながることがある。これは言葉のもっている文法というか自然の流れというものが、思考を育てる手助けをしてくれるからなのかもしれない。

AIが生成したイメージ

 作家とか文筆業の人の中に多作の人がいるが、この最初の思い切りができる人なのだと思う。あいまいでゴールが見えていないのに、書き始めると自然に次の道が見えてくる。それが達人の技なのだろう。とにかく行ってみるのが冒険家だという話をどこかで聞いたが、文章家もそれに近いものがあるのだろう。もちろん、いろいろと調べたり、経験を積んだりすることが必要なことは言うまでもない。それがなければ語る内容が薄くなるはずだ。でも、経験豊富であれば文章が書けるというものでもない。やはり最初の一歩を踏み出す勇気があるかどうかなのだと思う。

 とにかく書くことが大切なのだが、日々を忙しく過ごすうちに日常の路線から少しでもはみ出ることにためらいを感じてしまう。それが新しい考えをすることを拒み、日常の繰り返しに甘んじることにつながっているのだろう。これは加齢もある。年齢を重ねることは経験を豊かにするが、同時に失敗を恐れる臆病さも獲得してしまうのだ。なんでも思いついたことを書くノートは常にカバンの中にあるが、最近何も書けないことが多い。もう一度考え方を改めて、最初の一歩をたくさん踏み出したい。このブログもそのための一つだ。

Jリーグ入れ替え悲喜こもごも

 J1リーグは神戸の優勝で終わった。天皇杯との2冠であり、昨年からの連覇でもある。初昇格で3位になった町田はいろいろな話題もあったが、批判する人の多くは初昇格のチームがこんなに強いはずがないという焦りが感じられた。他チームでも普通にやっているロングスローへの批判などはサッカー観戦初心者への訴求力はあった。資金力と指導者の個性があれば何とかなるということを町田は示したと言える。

 野球と違うのはリーグの昇降格があるということだ。リーグが変わると収入見込みが大きく変わる。本拠地の運営に危機感がある札幌などは正念場であろう。J2は集客に格差があるようで、うまくやっているクラブもある。不景気の中でいかに地元のサポーターを獲得できるかが鍵になる。昇格プレーオフで最後の一枚を掴んだ富山が来年いかに戦うのか注目したい。ただ、私の近隣には所属するクラブがなく応援に行くのは大変だ。

 J3リーグはプロとしては限界のクラブもあり、苦しい経営の中で戦っている。かつて町田が属していたときに注目していたが、チーム事情はさまざまである。ただ、不安定な状況の中で戦っている選手の純粋さには心惹かれる。そして、来年の今ごろにはこのリーグから昇格するクラブが3つもあるのだ。ライセンス問題はあるが。

 J3リーグ降格という制度は過酷だ。せめて入れ替え戦必須にすればいいのにと思うが、J3リーグを目指すクラブにとっては扉が開かれたということなのだろう。今年は2つのクラブが降格する。結果を出さなくてはならないのがプロスポーツの厳しさだ。ただ、結果に関わらず応援したいと思えるクラブがどれだけできるのか。それが大切なのだろう。

選挙ビジネス

 選挙がビジネスになっていることについては少なからぬ国民が危惧していると思う。兵庫県知事選挙で公職選挙法違反があったか否かが報じられているが、その候補者を後方支援した者が展開する選挙ビジネスは民主主義の盲点を突くものだ。今のところはその程度で済んでいるが、最後には民主主義を破壊するのではないか心配になる。

 そもそも、国民の代表を選ぶべき選挙はその制度上、一定の良識を有する者が運営するものと考えられてきた。ところが、最近は規則の範囲であれば何でもしていいという風潮がある。非常識というよりは反社会的と言える行動をして憚らない者が出ている。

 残念ながら彼らに一定の支持をし、投票する有権者がいる。彼らの活動源は実は税金であり、選挙というビジネスをしていることを分かっているのだろうか。

 いかなる政策を目指そうが個人の自由であるが、それを金儲けの道具にしはてはならない。表向きは政策を語りながら、実はしたたかに蓄財している者がいることを見逃すべきではない。

図鑑をみていたころ

 子供の頃、図鑑を見るのが好きだった。特に昆虫や鳥類、気象、地学、天文の分野は好きで図鑑は文字通り穴が開くほど読んだ。深い意味は理解できなかったが。私が子どもだったころは高度経済成長期であり、科学技術がすべてを解決するという風潮があった。それとともに、さまざまな公害が発生し多くの悲劇を生んだ時代だ。

 知識が世の中をよくすると単純に信じられたのが私の子ども時代だ。それが多くの矛盾に直面して考え方を変えざるを得ない局面があった。ただそれがいまは通じない。人工知能に代表される高度なテクノロジー白旗を揚げて恥じない人が多数になってしまったのだ。

 図鑑をみていた頃の自分は世界の現状をひたすら受け入れ、その意味を丸暗記しようとしていた。それは大切なことなのだろうがその段階では現状への批判精神は生まれない。それができるのはもう少し上の年齢なのだろう。

 考えてみれば、今の私の知識の分類方法は子どもの頃にお世話になった図鑑の方法と似ている。意味の分節の仕方は実は幼年期に基礎学習を済ませていた。それは人生における思考活動の物差しを得たということである。その意味で幼年期の読書は意味が大きいと言える。

 謙虚な気持ちを忘れてはならない。ただ、いわゆる盲従にならないようにしなければなるまい。世界を測る物差しは時代ごとに変わる。自分が見ている風景が、支配する階層が変わればまた全く違うものになる。図鑑を見て喜んでいた時代から少し成長した者が考えることである。

昭和は良かったわけではなく

 数日前に立ち寄ったレストランで流れていた音楽がまるで昭和歌謡ばかりだった。演歌ではなく、いわゆるシティポップの類だ。楽曲は現在のものに比べるとシンプルであるが、メロディーラインがなんとも言えないよさがある。歌い手の歌唱力も要求されるものが多い。

 音楽に限らず、古き良き時代として昭和末期が取り上げられることがふえた。若い世代にとってはすでに歴史時代なのだから、かえって物珍しくものによっては魅力的なのだろう。

 ただ、その時代が理想的であったかと言われれば否としかいいようがない。バブル崩壊後の経済停滞はこの時期に路線が決まったし、様々な社会問題が湧き上がり、それを解決しないまま前進することがよいこととされた。多くの人が傷つき、その手当の手段も疎かだったというしかない。

 現在と違うのは何もかも知っているふりをする人が少なかったことかもしれない。インターネット普及以前、知識は一部の人、もしくは集団に独占され、門外漢は何も発言できなかったのだ。専門的知見が一部の有識者に独占されているのは今も変わらないが、ネット検索によって、知ったかぶりができるようになった。口先だけで批判をする者が発生したのが現代の特徴だ。

 行き先をよく知らされないまま、とにかく進めと追い立てられていたのが昭和時代だったと言える。働けば何とかなると信じていた楽観性は急速に失われたが、諦めることもない。現代人は現状を情報機器の助けを借り、人工知能の助けも借りて自分の力であるきだす必要がある。懐古趣味はほどほどにしなければなるまい。

韓国で戒厳令?

 韓国で一時戒厳令が出たというニュースに驚愕した。ユンソンニョル大統領の支持率が低下していることは報じられていたが、国会と捻じれ現象にある政権が運用困難になっていることの証だろう。

 韓国の政権交代は非常に激しく過酷だ。大統領はその末期に悲劇的結末を迎える。先のムン大統領は今のところ無事のようだが、歴代大統領の人生を調べると信じられないほど残酷である。白黒をはっきりとつける国民性も影響しているのかもしれない。今回の記事の戒厳令も切羽詰まった末の決断だろう。

 日本と決定的に違うのは戦乱がすぐ隣にあることだろう。世界的にみても対立する国家が有数の経済力や未知数の軍事力を有し、かつ対立を続けているところは少ない。日本は戦争による解決という選択肢を捨てた国だが、隣国の情勢次第では方針を変えなくてはならなくなる。まずは大韓民国が安定し、他国から付け込まれることのないようにしていただきたい。

 古代からの戦術に離間の計なるものがある。仲間同士の争いを誘発し、国力を落とし、その間に他国から攻め落とすというものだ。基本的な戦略であるのにも関わらず、これに見事に引っかかってしまう。朝鮮半島の歴史には何度も繰り返されたはずだ。もちろん日本の歴史にも枚挙にいとまがない。

 国のために政策を争うのは大いに結構だが、その度が過ぎて国益を損じることがないように祈るばかりだ。