カテゴリー: エッセイ

サンタクローズ

 クリスマスの主役はサンタクロースであると信じていた。しかし、英語のSanta Clausはどう聞いてもサンタクローズなのである。むかしアメリカの映画に「Santa Clause(サンタクローズ)」という作品があった。clauseというのは条項という意味らしい。映画はサンタクロースの役割を果たすという契約を結んでしまった男が引き起こす心温まるファンタジーであった。似た発音にかけた洒落のようなものだと思っていた。ところが、実は発音はまったく同じだと知って驚いたのである。サンタクローズさんだとは知らなかった。

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 英語の発音が日本にカタカナ語として取り込まれたとき、発音が変形してしまうのはいろいろある。Cupがコップとなったり、カップとなったりするのがその例だと思って知らべると、コップはオランダ語由来、カップは英語由来であるという。また日本語では取っ手のないものはコップであるが、取っ手がつくとカップになるのだという。日本語で言うコップに当たるのはたいていがglassと英語では言うのだとか。ならば取っ手のない紙の容器はpaper glassかといえば、paper cupと言わねばならないらしい。取っ手の有無より素材の方が優先する。
 クリスマス(ちなみにX’masは間違いで、Xmasだという)の楽しみは子供にとってはサンタクローズが持ってくるプレゼントだが、大人にとっては実は英語ではグラスというのが正しいコップで飲むビールだったりする。もっともこれは別にクリスマスには限らないけれども。

「む」の話

 文語文法の必須の知識に助動詞の「む」がある。これには意志、勧誘、推量、婉曲、仮定の用法があると学ぶ。そして主語が一人称のときには意志、二人称なら適当・勧誘、三人称なら推量であり、文中で使われるときは推量の意味は弱く、その意味が弱い婉曲かわずかにその意味が残る仮定の意味になるという。受験生としてはここまで覚えていれば完璧だ。

 ただ、同じ語がどうして一見離れた意味を表すのかを考えるのは難しい。意志は「しよう」であり、推量は「だろう」で勧誘は「のがよい」である。これらを一語で言えるはなぜなのだろうか。

 思うに、「む」は対象に対して気持ちが向かうということなのだろう。私が主語のときには、その対象に対して気持ちが向かうので、意志の気分になる。それを自分ではなく話相手に対象に対して向き合うことを求めると勧誘になる。その度合いが弱いと適当になる。三人称ならば対象に向かう気持ちは確信が持てない。だから、推量という形になる。

 文中の連体形の「む」が婉曲の用法になるのはなぜか。基本が対象に向かう気持ちならば、意志や推量の気分が強くなるはずではないか。これが大きな疑問である。ただ、どうもこれは日本語のもっと大きな文法によるものらしい。日本語では物事の確信的判断というものを避ける傾向にある。「なり」「たり」といったいわゆる断定の助動詞を使った表現も、確信というよりも現状追認という意味の方が強いように思える。「なり」や「たり」に含まれる「り」は「あり」の短縮で、そのような状況で存在しているという現状追認と思う。話者の判断による断定ではなく、そうなっているという報告なのだろう。

 ならば「む」が連体形で用いられるとき、そこに話者の判断はなされず曖昧な推量がなされることになる。結果として推量の意味が極めて弱い表現としての婉曲が成り立つことになる。

 かなり恣意的に話を進めてきたので識者からみれば反論はいくらでもあるはずだ。批判を受け入れる用意はある。というより、この疑問を解いていただけるならば幸甚極まりない。

 ただ古典文法を技能として教えることに疑問を持ち始めてしまった者に対する救済を求める次第である。

冬至の祭り

 2024年は12月21日が冬至に当たる。二十四節気のうちの大きな節目である冬至は一年で最も昼の長さが短くなる日であり、逆に言えばこの日から昼の長さが少しずつ長くなる。その意味では復活の日ともいえる。古人は物の影が最も長くなる日として把握していただろう。多くの節気が暦の存在を前提としているのに対し、直感的に感じ取れる当時は特別なものであったはずだ。

 冬至の記録上の初出は『続日本紀』の725年11月の記事である。当時は聖武天皇が国家仏教の考えのもと様々な行事を行っていた時期であり、冬至を祝うのも大陸の風に倣ったものであろう。ただそれ以前から、冬至に関する民間伝承はあったはずだ。たとえば天岩戸神話が冬至に行われた祭祀と何らかの関係があったのではないかという説は有力である。世界を見渡してもクリスマスのようにこの時期の前後に何らかの宗教行事を行う文化は多い。しかもそのテーマが復活や再生であることは自然現象に対する人間の素朴な信仰に端を発しているのかもしれない。気象学的には厳冬期に入る直前の季節であるが、日の長さが長くなる事実は人々にとっては頼もしいことであり、生命力の再興を想起させたのだろう。

 南瓜を食べたり、柚子湯に入ったりとさまざまな民俗があるが、今よりはるかに過酷であった冬季をしのぐための生活の知恵が形を変えて定着したものと考えられる。現代人はその理由をすでに理解できなくなっているが、おそらく切実な願いが背景にはあったのだろう。空を見上げることも、明日の天気を占うこともおろそかになっていることを反省するのである。

闇バイトの対義は

 闇バイトという困った事案がある。警察はこれに対抗するために仮想身分捜査という方法を検討しているという。これは捜査のために偽の身分証明書等を使い、犯人グループに潜入捜査とするというものだ。いわば悪を懲らしめるための悪である。最近の悪質な犯行から考えると仕方がないのかもしれない。少なくとも捜査官が入るかもしれないという事実が多少の抑止力になるかもしれない。捜査官は命がけということになる。心配だが職務には敬意を禁じ得ない。
 闇ボランティアの対義は何かという話題もある。光バイトという人がいるが、バイトの性質を金銭を得るための短期労働もしくは非正規雇用の形態と考えるならば、何が光なのかは分かりにくい。社会的に認められ、利他的な結果につながる公共性の強い労働に従事するアルバイトならばそれに該当するのだろうか。しかし、これは闇と光という対称しかみていない。バイトの対比としては金銭の獲得を目的としないボランティア活動が想起される。ならば光ボラが対義なのであろうか。
 ボランティア活動は無賃金労働かといえばこれも違う気がする。ボランティア活動には無償性のほかに、自発性と無償性が必要とされる。そしてある時には費用の一部を受益者が負担する場合もある。例えば遠隔地から来たボランティアに対し、宿泊所を用意したり、食事の提供をすることなどはボランティア活動の意味に抵触しないだろう。
 忍び寄る衰退基調の中で、少しずつ人々の心がすさんできている気もする。こういうときほど慈善の精神を考えることも必要であろう。それが光ボラの実践で果たせるならば社会は変わっていく。

今より不便だったころ

 今より不便だったことを思い出すことができるのか。それが現代を生きる鍵になるのかもしれない。

 いまは何でも効率的なことが求められる。少しでも無駄のないように徹底的に計算される。そうせざるを得ない現実があるから躊躇がない。

 でも、今に至る前の時代は必ずあり、その時代を生きていたはずなのに、すっかりと過去の思い出を忘れている。これは老化とか人生の問題とは違うようだ。加齢がもたらす記憶系の不思議な振る舞いである。

 いま私は時代の先端にいて、その流れに乗っていることになる。当然さまざまな矛盾を抱え、場合によっては崩壊し始めている要素もあるのだが、いちいち検証することはない。過去の経緯を思い出さないことに加えて、少し後のことも考えない癖がついている。それが恐らくいま求められている効率的に生きることなのだろう。何かが違うとしか言いようがないが。

 試みに10年前とか30年前のことを思い出してみる。インターネットが普及する以前のことを考えてみる。そのときに感じていた何かを忘れてはいないだろうか。いまを見つめ直すためにはこういう脳内作業も必要だと思う。

初雪予報

 これから気温がが下がっていくという予報が出ている。強い寒気が南下する影響で寒い季節に拍車がかかるようだ。東京でも明日、もしかしたら初雪になるかもしれないという。東京の降雪の条件は微妙な要素が多く予報が難しい。もしかしたらという覚悟でいたい。

 初雪を吉兆と見る精神は古代からあった。雪を豊作の予兆と考えるのは農耕民の経験知のなせるわざだろう。表土が雪に覆われることでかえって保温されるということを故人は理屈ではなく知っていたのであろう。

 東京人にとっては雪は年数回の珍事に過ぎない。その都度喜び、ちょっとしたことで事故を引き起こす厄介なものでもある。それでもやはり降雪はどちらかといえばポジティブにとらえられる。

 明日、雪を見ることができるのか分からない。降れば冬の到来を実感することだろう。それは嬉しい確認であり、覚悟を促す天象でもある。

印象操作

 最近、気になっている言葉に印象操作がある。マスメディアからソーシャルメディアまで、事実の一面を強調することにより、全体のイメージを変えてしまうことだろう。これを結果的に行って来たのがこれまでのメディア史だったが、最近は明らかに意図的に行っている気がする。

 例えばある出来事について、その賛成派を中心に取材すれば好意的報道になるが、反対派を中心に報ずれば批判的になる。マスメディアは一応公平性を配慮するが、それでもどこを切り取るかで受け手の印象はかなり変わる。ソーシャルメディアは元々発信者の個人的な意見なので偏向報道そのものだ。

 メディアリテラシーが意識されているうちは何とか見過ごすこともできる。ただし昨今のように目まぐるしく、大量の情報が流動する状況では何が中立で何が偏向しているのかなど考える余裕がなくなってしまっている。

SNSに流れた情報があたかも事実、もしくは多数意見のように振る舞い、多くの人がそれを信じてしまう。よく考えれば、雑踏の中の誰かの呟きに過ぎないのに、おかしな力を持ってしまうのだ。少し前の、インターネットなどなかった時代の人たちの感覚を取り戻したい。トイレの落書きをどれだけの人が信じただろうか。

 意図的に事実を歪曲しようとする印象操作はAIの力も借りてますます巧妙化している。どんな報道がなされても、そこにある映像がいかにももっともらしくとも、立ち止まって考えなければならない。それができれば、操作されない自由が獲得できる。

心配な韓国の政情

 韓国の尹大統領が弾劾された。政局悪化に非常戒厳を持ち出したのは悪手と言わざるを得ず、国民感情を逆なでしてしまった。ただ野党側の党首も汚職疑惑があり、自分への批判をそらすために国民の関心を反日運動に向けさせようとする手法をとるリーダーなのが気になる。この策を取っていた過去の大統領はいずれも失策して失脚している。

 韓国は日本以上の少子高齢化と格差拡大という厳しい現実にあって、安定的な政局が不可欠だ。国民の観点からすれば今の状況を何とかしたいと願っているのだろう。だが、彼の国もそれを実現してくれるリーダーがいないようだ。

 戒厳令は全斗煥大統領の起こした光州事件の記憶が先行し、政局の展開の手段としては間違っている。ただ、おそらく野党党首の李在明氏が次期大統領に適当かといえばかなり怪しい。つまり、未来を託せる指導者がいないのだ。今回は大手メディアも戒厳令の方に注目し、事態の背景を追いきれていない。韓国の若者層もソーシャルメディアを含めた報道に踊らされて冷静な判断力を失っている。

 これは日本も似たような状況にある。ただ、分断を嫌う国民性がようやく混乱を抑えているのかもしれない。容易に解決できない問題に直面しているとき、そしてそれを導く者がいないとき、民主主義はどのようになるのだろうか。それを考えさせられる。

近隣の未開地

 車のランプが切れたので隣市の自動車用品店に修理を依頼した。とても混んでいて1時間後に作業開始とのことだった。そこで急にできた時間で近隣の商店等や格安量販店、リサイクルショップなどを巡回することにした。

 いわゆるホームセンターを見つけたのでまずはそこに入る。聞いたことがない地元系の店だが、かなりにぎわっていた。売られていたのはいわゆる一流ブランドものではなく、価格を抑えた海外生産品がほとんどだった。保証がしっかりしていればものによってはお得かもしれない。問題は耐久性だが。

 次にリサイクルショップに行く、近隣に2軒もあり、物価高の現在、また環境問題への意識もあってか結構繁盛していた。最近、私も古着を買ったりするので、以前あった抵抗感はない。1軒目に入った店は全国展開しているので他の支店には時々行くが、地域によって売っているものが少しずつ違うことに気づいた。

 格安量販店もかなり賑わっていた。これも用途と使用の仕方を考えればいい買い物ができる。所有の満足感は高くはないが、むしろ遠慮なく使い込めるという点においては適合している。長期使用の前に中期使用という分類ができるとすれば、そういうものに向いている。使わないブランド品よりは実用的かもしれない。壊れることはよくあるのでそれを覚悟したうえで。

 そうこうしているうちに車の修理が終わったとメールがきた。この車こそ長期使用の最たるものだ。すでに骨董品の分類に入るだろう。あちこち修理しながら今に至る。

 空いた時間で近隣を散歩することになった。すぐ近くなのにこのような店があることを全く知らなかった。未開の地は実はすぐ近くにある。

 

雑種文化

 雑種文化というとかなり抵抗がある。ただし、それを独自の文化といえばかなり違った印象にになる。多くの識者が説くように日本の文化は複数の文化の融合からなる。これも言葉を変えれば雑種であり、少しかっこよくいえばハイブリッドである。

 純日本風という言葉は色々な意味で解釈が難しい。日本独自のものはないが、日本にしかないものはある。トートロジーのようだがそれが現実だ。日本の文化が先行する要素を取り入れながら、その本筋は変えず、したたかに現実に合うように変更していく。それがこの国の伝統であり、我が国独自の性質である。

 この事実は実は時代を先取りしていた。グローバルな時代では自分のアイデンティティは他国他民族との対比の中から芽生える。他国とは違う何かを見つけたとき、それが自国文化を語る物差しとなったのだ。それを在来の文物、制度の中に織り込んでゆくことで和風が常に生成されている。

 柔軟性を忘れると活力が失われる。これは本当の生物のあり方にも似ている。