カテゴリー: エッセイ

タイヤ交換

 降雪地域に住んでいた頃はこの頃にタイヤ交換をした。実際はもう少し早い方がよかったと思うが、師走に入ってようやく手をつけたという年が多かった。スタッドレスと呼ばれる冬用タイヤは雪道や凍結した路面を走行するのに不可欠であり、私のような雪国ネイティブでない者にとっては命綱のようなものだった。

 ガソリンスタンドでも交換してもらえるが、その手間賃を払うのもケチっていた私は自分で取り替えた。最初の数年は時間がかかったが、その後は要領を得て速くできるようになった。そうは言っても寒空の中で白い息を吐きながら行う作業には抵抗があってなかなか着手しなかったのはそれが原因だった。遅くなるほど寒くなるのだが。

 本格的な降雪は数日のことで大抵は融雪装置で半ば解かされたシャーベット状の路面を走った。通勤の必要性からとは言え、よくもあのような不安定な道を走ったものだ。

 いまでもたまに運転はしているが雪道走行はできればしたくない。そんなことが言えるのは関東に住んでいるからだろうが。この時期になるとタイヤ交換のことをふと思い出す。

歌舞伎が好きだった旧友の訃報に接して

 旧友の訃報に接した。大学で知り合った彼は京都出身で多くの京都人がそうであるように東京の大学に来てからも方言を改めることはなかった。日常に京都方言に接していると、なぜか多数派であるはずの関東者が、一人のために方言に巻き込まれてしまう。

 彼の変わっていたのは大の歌舞伎好きだということだった。時々奇声を発したかと思えば歌舞伎役者の所作を演じていた。こんなことをする人はそれまでの私の周りにはいなかったので最初は驚いた。大学では歌舞伎研究会というサークルに入っていた。彼のほかに歌舞伎の身ぶりをする同級生をその後知ることになった。

 私とは色々な意味では正反対の彼だがなぜか気はあった。週に一度か二度あった大学付近での安い居酒屋の飲み会でしばしば一緒になった。今の学生は酒を飲まないそうだが、私の頃は居酒屋こそが交流の場であった。

 卒業後、彼は趣味をそのまま職業にして国立劇場の職員になった。本物であったのだ。大学院に何となく進んでしまった私はあてもなく図書館の住人というか地縛霊のような者に成り果てていたが、ある時彼が現れて調べて欲しいことがあるという。それは国立劇場で仮名手本忠臣蔵を通しで演ることになったが、暫く演じられなかった建長寺の場に掛かっている掛軸に何と書いてあるのか調べて欲しいというのだ。そして前回の公演の舞台写真を見せてくれた。

 これが不鮮明なモノクロ写真で掛軸の字も癖のある草仮名だった。何とか部分的に読み取って、国歌大観などで検索しても一向に出てこない。当時の私は根気もあったし、何よりも時間が十分にあった。恐らく和歌だろうと見当をつけ、しかも歌舞伎の舞台にかかるくらいだから有名人の作であろうと当てをつけ探し続けたところ、一休宗純の作という和歌に極めて似ていることが分かった。そこで彼にそのことを伝えたらありがとうと言って、それが正解だったのか否かを教えてもらえなかった。代わりに国立劇場の忠臣蔵公演の招待券を貰った。調べた場面ではなかったので私の努力が報われたのか、大間違いだったのかはついに分からない。鬼籍に入ってしまったのなら、答え合わせはこちらからその世界に入るまで分からない。

 彼は気さくな変わり者だったが、礼儀正しく常識もあった。京都に行くときの一泊500円という超破格な宿を教えてくれたのも彼だ。その後ソーシャルメディアで彼の情報に接することもあったが何もせずに過ごしてしまった。残念でならない。

説明過剰

 歌人のエッセイを読んでいてなるほどと思ったことがある。現在の文芸は大概が説明過剰であり、それゆえに詩歌の入り込める世界が小さくなっているとのことである。文学的な表現として説明し過ぎないという基本的な約束がある。文学で求められるのは分かりやすさではなく、表現の中にどれほどの情趣を盛り込めるのかということである。目指しているものが違うのに、最近の文学はとにかく分かりやすいというのだ。うべなるかな。

 分かりやすさを求めるのはビジネスの場面では当たり前である。多義性を極力排し、一読すればすべてが分かるというのが理想とされる。そこに含蓄は要らない。その発想が文芸にもそのまま援用されているのだろう。きわめて分かりやすいが、その分薄っぺらい出来具合になってしまう。

 この傾向の背景にあるのは、やはり読み手の読解力が低下しているということにあるだろう。分からなければ読まないという姿勢は、読解への挑戦心を削ぎ、いつしか本当に読めなくなってしまう。面倒なことはしない。非効率的だからというビジネス文書の読み方と同じになってしまうのだ。

 書き手の方もそういう読者を慮ってとにかく分かりやすく書く、技巧は最低限にして話の展開も単純にする。複雑な時は文中に注釈を入れてしまう。読者に嫌われるくらいならばその方がいいと考えてしまうのだ。こうした動向は日本語のレベルを下げることに繋がることを認識しなくてはならない。

 私は日本の事情しか分からないので、この先は推論に過ぎないか、恐らくどこの国もおおかれすくなかれ同様の背景があるのだろう。説明がなくても読み取れる教育をすることが求められている。

師走入り

 今日から12月だ。気がつけば今年ももう一月しかない。今年から始めたこともあるが、できなかったことの方がはるかに多い。しかし、この歳になったら欲張りはよくない。むしろ、始めたことがあったことを喜ぶべきだろう。

 

欠けていく記憶

 久しぶりに訪れた場所が、どこかかつてと違う。違和感を覚えながらもその原因が分からないということはよくある。記憶というものは柔らかく伸縮自在だから厄介だ。

 記憶の核となる風景や出来事、人物などが変わってしまったときはさすがに分かりやすい。だが、それより少し劣る場合は曖昧さに紛れやすい。記憶の欠損をうまく補えないまま時を過ごしてしまう。

 そのうちに何がどうなったのか分からなくなる。得られるのは概観的な印象が何か違っているということだけだ。よく分からないけれど何かが違う。分かるのはそれだけだ。

 記憶というものはかなりあやふやだし、自分の都合のいいようにいくらでも改変してしまう。そのことを自覚しないとひどい間違いをしてしまう。文字に残すとか、映像化するとか、記憶の延長策はいろいろあるが、結局本人の頭脳に残るメモリはさほど多くはないのだから、記録資料をみてもそれが本当か否かは知り得ない。

 何でも記録できると信じてしまったのは現代社会の根本的な誤りかもしれない。過去の出来事をいつまでも事実として保持できるとは限らない。少なくとも一人の人間としては。

SNS年齢制限は妥当だが

 オーストラリアの上下両院で16歳未満のソーシャルメディアの使用を制限する法案が可決された。国民からの支持も強いらしい。ソーシャルメディアに流れる情報は玉石混交であり、個人や団体への根拠薄弱な誹謗中傷も日常的に出ている。加えてAIを使ったフェイク画像、動画も多く、いわゆるメディアリテラシーがなければ虚偽の情報に翻弄されてしまう。

 オーストラリアはインターネットが非常に普及しており、若年層がソーシャルメディアの閲覧をきっかけに犯行に及んだり、自殺したりするケースが多いのだという。情報によって追い詰められた人の行動が悲惨な結末に至るのはどの国も同じようだ。

 若年層が被害に合いやすい現状では制限をかけるのも仕方がない。無法地帯に踏み込む準備ができるまでの猶予だ。ただ、これは年齢だけが解決するものではない。いくつになっても条件はあまり変わらない。SNSで繰り広げられるはかない嘘話に精神を吸い取られている人は年齢に関わらず多い。

 情報を規制されるのは大いに問題があるが、ときには自らメディアとの距離をとるのもいいのかもしれない。

こらえ時

 夕方になって少し喉が腫れているのに気づいた。風邪をひきかけているのかもしれない。ここは踏ん張らなくてはならない。年末にかけてやるべきことが山積している。例年、ここで踏みとどまるときと、発熱してしまうときとがある。こらえ時なのだ。

太陽光発電に新機軸

 フィルム型のパネルで太陽光発電ができる新技術が注目されている。日本人が発明したというペロブスカイト太陽電池は、軽量で薄く曲げて使うこともできるという。

 ならば、いわゆるソーラーパネルの設置による森林破壊や、パネル廃棄時の無駄なコストについては解消される可能性が高い。フィルムの扱いについても、森林破壊ではなく、現在ある建築物に貼り付ける形で運用できれば心配はなくなる。廃棄にかかるコストも軽減されそうだ。

 この発電システムで必要なのは新機軸へ移行するときに起こる制度上の問題点をよく考える必要があることだ。既得権やインフラとの関係、過渡期の作業工程を俯瞰的に予測しておかなければならない。ここ数十年にわたって繰り返してきた失敗を避けるためにも。

クリスマスデコレーション

 あちこちでクリスマスデコレーションが施されている。心なしか近年と比べて派手さが抑えられている気がする。私としてはそれでいいと思う。宗教的な意味でクリスマスを迎える人はさほど多くはない。多神教の発想としては季節の神様の一つだ。ただ、そうとは言ってもおごそかな空気を作ることは忘れてはならない。クリスマスの雰囲気を作るデコレーションであってほしい。

木星

 夜空に一際輝いて見える星がある。それが木星であることを知ればもう迷うことなく探すことができる。

 11月3日に衝の位置になり、25日には月に極めて近づく。こどもの頃に望遠鏡で見たいわゆるガリレオの衛星の映像は今でも感動的に思い出される。

 星を存分に見られる人を羨ましく思う。心の余裕がほしい。