蕎麦が好きな私にとってこの季節は新蕎麦の風味を楽しめる季節だ。私が行く店の蕎麦はせいぜい4割程度の蕎麦粉でできているのだろうが、それでもかなり違う。蕎麦独特の香りや味わいがある。ほんの僅かのことなのだが食に関する豊かさを再認識できる季節なのだ。
カテゴリー: エッセイ
役に立ちたい
少しでも誰かの役に立ちたいという気持ちは多くの人が持っているはずだ。自己の利益に繋がればもっといいが、そうでなくとも構わない。何らかの利益が他人にもたらされば嬉しいという意識は恐らく多くの人が持つではないだろうか。
これを偽善と呼ぶ人もいる。ただ、偽善もときには役に立つということなのだ。私たちは自分のために何かをすることを日々行っている。自分の幸福追求のために行動することに疑問はない。ただ、それが他人の利益と交錯するときにには躊躇いや滞りが生まれる。自分が利益を得ることは嬉しいが、そのために他人が不幸になることを自覚すると素直に喜べなくなる。
そのために自己が他者に及ぼす影響について考えないという思考停止の習慣がついている。人のことを気にしないという方法である。この方法で日々を乗り越えたとしても、いつかは矛盾を感じてしまう。他者の窮状を知ると動けなくなる人は多い。私たちは一人だけ幸せになるということを良しとしない傾向がある。
他者の役に立つことは言うほどたやすいものではない。人のためになると思うものでもかえって害となることも多い。ただ、どこかで誰かの役に立ちたいと考えるのは人類の進化の過程で刷り込まれたものであると考える。
差別の醸成
我が国が国際社会の立場や経済的地位に関して停滞し、衰退の途をたどりつつあることは多くの人たちに実感されている。働いても増えない報酬、着実に進行する物価上昇の流れをどうすることもできない。その中で密かに差別が生まれ、多方面に拡散しつつある。
人種差別のような露骨なものではなく、ほぼ等質の者同士がある基準で優劣を設定する。俯瞰的に見ればほぼ等しいのに、あたかも天と地の隔たりがあるかのような演出がおこなわれる。自分および自分の属する集団こそが正義であり、あとは邪道だと言わんばかりだ。
出身大学や所属する会社名にランクつけて階層化することは昔からあるが今はそれを露骨に言って躊躇いがない。どのような哲学を持ち、いかなる意識を持っているかより、所属する集団によって優劣をつけようとする。潜在的でたちの悪い差別意識が隠れている。
努力してもなかなか報われない社会を生きていると、向上心を持つ価値が危ういものとなる。既得権に縋り、自分の持つ物差し以外で考えることが難しくなるようだ。有名大学の出身であるか否かは一つの基準に過ぎず、今何を目指しているのかの方がはるかに大切なはずなのに。
様々な方面で芽生える差別の意識を危惧しているのは私だけではないはずだ。ネットで他人を冷笑して自己満足している人たちが増えて行くのが不気味であり、衰退する集団の凶兆のように思えてならない。
暗いからこそ
手袋始め
冷たい雨の降る一日となった。冬を感じる空気につつまれて、今年初めて手袋を着けた。これでかなり感覚が変わる。
昔から防寒には無頓着で、上着、コートの着脱だけで凌いできた。冬用の下着とか、素材の違う上着とかも考えるべきだろうがしてこなかった。ただこの歳になれば考えた方がいい。父はステテコを着ていたが、私は一着も持っていない。温暖化のせいかもしれないが何とかなってきたのだ。
そして来月あたりに風邪を引いて熱を出すのも例年の決まりごとのようなものだ。そのときは厚着しなければと考えるのに治ってしまうとまた無防備に戻る。これも改善しなければとは考えている。
四季のあるのはありがたいことだが、その都度対応を忘れて失敗を繰り返す己に呆れるばかりである。
よりはマシ
アメリカ大統領選挙の結果に失望した日本人はかなり多い。国民を扇動し、裁判では敗訴しているのに、そして選挙運動中の発言は理解不能だったのにも関わらず、選挙で圧勝してしまったからだ。アメリカ人の民度に失望した人も多かっただろう。
ただ、いろいろな情報を総合すると、ハリス民主党よりはマシだと考えた人々が多かったということになる。その一つが民主党が国民の生活感を捉えられなかったことにありそうだ。急激な物価上昇という現実があるのに、選挙戦では人工中絶や性的マイノリティの保護の話ばかりを争点とする。間違いではないが優先順位がおかしい政策論争に国民が非を訴えたということなのだろう。
二択しかないアメリカの政治にとっては積極的賛成か、比較的賛成のどちらかしかない。そもそもトランプ氏のような個の立つ人物が党の代表になっていること自体が実は問題で、よりふさわしい共和党代表がいないことに問題点がある。
これは民主党にも言える。ハリス氏が副大統領としてもう少し実績を残していたら結果は違っていたはずだ。バイデン氏がもっと早く政権移譲を考えられる存在になっていたらと多くの人が考えている。ガラスの天井の問題とは異なる気がする。
民主政治の性格として常に誤りを繰り返すということがある。絶対的権威がないことは選択ができるということだが、常に最善の選択肢が用意されている訳ではない。その中で比較的上級なものを探し、折に触れて意見を権力側に伝えて行くしかないのだ。それが機能するのか。注目したい。
冷え込み始まる
芝居の感想
ある演劇を観た高校生が感想を語り合っているのを耳にした。登場人物の振る舞いや、台詞について情熱的に語っていた。中には私とは見方が違うと思うこともあり、基本的な筋の読み間違いではないかと思う発言もあったが、概ねは賛同し得る意見であった。
立ち聞きしたのは申し訳なかったが、私が驚いたのは細部にわたって様々な解釈がなされていたことだ。私と言えば、芝居の構成や他の演劇との類似性、伏線の答え合わせなどなんというか本質的てはないことばかり考えていたのである。理屈で芝居を観るのではないと思うがそうしてしまうのだ。
純粋に演劇の世界を楽しむにはある程度の没入が必要だが、私はどこかで自分を押し止めてしまっている。それが本当の意味で楽しめていない原因かもしれない。
過去を取り戻すのではなく
政治家の話を聞いていると、かつては良かった日本が今は衰退している。だから、過去の輝きを取り戻すといった内容のメッセージが多い。過去の栄光と、今の体たらくを認めた上での論調だ。
私のような世代にはこれはある程度説得力がある。世界第二の経済大国とか、Japan as No. 1という言い回しに慣れた世代にとっては、現在の停滞とこれから予想される縮小再生産が許し難く、それでも認めざるを得ない事実は辛い事実だ。だから、過去を取り戻すという主張には惹かれてしまう。
でもよく考えれば過去を取り戻すという考えは現実的ではない。あの頃のような人口増加はないし、劣悪な労働環境に耐える心性もない。豊かな状態を知ってしまった人に、レベルダウンは耐えられない。できなければ効率化を目指すべきだということになり、それができないのは個々人の才能によるという自己責任論になる。
発展段階にある国家、組織は個々人が幸福の追求に貪欲で、多少の自己犠牲を厭わない傾向にある。当然競争や軋轢もある。それを避けているうちはブレークスルーは生まれにくい。
だから過去を取り戻すのではなく、新たな挑戦の時代に局面を移すというのが、指導者の言うべきものなのだろう。これには多数の敗者が発生する。過去の歴史では一度敗れると浮かび上がるのは大変だった。もし可能であれば、敗者復活のシステムを確立すべきなのだろう。
リーダーがこのことを言うのは難しい。挑戦しなさい。うまくいけば社会的成功があります。ただ、失敗することもあります。その可能性の方が多いのですが、それでも再挑戦するのです。いつか成功するまで続けるのです。そんなことを真面目に言えるリーダーが出ればまだこの国は何とかなるのかもしれない。そもそもこんなことを言うリーダーに支持が集まるとは思えないが。
学歴社会に生きてきた私にとって、過去の栄光は絶対的な財産であり、獲得すれば上に行き、しそこなえば浮上は不可能という思い込みがある。ただ、若い世代は違うだろう。過去の栄光がない代わりに危機感がある。そこに上昇志向が加わればいい。
年配者は後生に余計なことを言わず、個人の可能性を信じ引き出すことに意識を向けるべきだ。それが私たちのできる1つ目、そして、もう一つ、自分もまた挑戦する立場を捨てないことなのだろう。
