カテゴリー: エッセイ

ナフサをめぐる取り組み

 中東情勢に安定化が見られないいま、日本ではナフサの供給不足による不安が徐々に始まっている。原因は供給の円滑性が滞り、必要な所に行き渡っていないことにあるらしい。政府の説明は在庫は十分にあるから心配するなの一点張りだ。しかし、この手法は長くは続くまい。

 原料が届かなければやがて品薄になる。そうなってから売れば利益率は高い。商人がそう考えるのは至極当然である。これを統制するのが政府の役目なのだが果たして機能しているのだろうか。

 消費者レベルでのプラスチック使用を節約しても現今の問題の解決には容易には繋がらない。ただ、危機意識を多くの人が共有することにより、流通の目詰まりをもたらす関係者への圧力を与えることにはなるのかもしれない。何よりも指導的立場にある部署が積極的に動くべきなのだ。医療機関での資材不足は人命に関わる。

 いたずらに危機を煽るのは論外だが、中東の戦局に終わりが見えないいま、ある程度の現実的状況説明と取りうる対処の執行報告を政府がするべきであると考える。

雑草の風景

 今日は気温が下がり雨が間断的に降り続いたが、ここ数日の暑さは近くの風景をすっかり変えてしまったようだ。草むらの丈が一気に延びている。こんなに植物があったのだろうかと驚くのである。

 いわゆる雑草と呼ばれる植物は条件が揃えば一気に成長し、生息域を広げる。少ないチャンスを確実にものにしていく逞しさがある。この点を甘く見ていると、結果的に圧倒されることになるのである。

 少しだけ低温の日があり、今度は一気に暑い日が来ることはほぼ間違いない。少し喉に痛みを感じているのは体温調節がうまくできていないからだろう。雑草に見習いもっと強かに生きていかなくてはならないと思うのである。

まだ水曜日

 曜日の感覚を失って一日先だと考えていた。まだ水曜日かと思ったのである。あまりにも毎日が単調だとこんな錯覚も起こしてしまう。

 このまだ水曜日には、次の休みまで日があることを嘆くことが根本にある。休みまでは頑張らなくてはならない。食いしばらなくてはならない。そんな思いだ。ただ、その後に別の考えも浮かぶ。締め切りが一日延びてやるべき余裕ができた。焦る必要はないと。

 時間の感覚は多分に主観的で、それが行動を変えることがある。本当はただ続いているだけなのだが、なんととらえるかで長くとも短くもなる。私にとっては授業時間はまったく足りないが、生徒諸君には耐え難く長いはずだ。

 だから曜日の感覚がずれてしまったのは、何をもとに時間の流れを計るのか、その基準が途中で変わってしまったことが原因なのかもしれない。一日損した、もしくは得した今日を大切に過ごすことにする。

サヨナラだけが人生だ

 歳をとったからなのか、何もしないでいるとすぐ眠くなる。若い頃もよく寝たがそれとは少し質が違う。抗えない睡魔というのは同じだが、最近のは身体的限界を実感させる後味の悪い寝落ちがある。

 恐らくこれは本当の眠りの予兆なのだろう。ただ、今の私としてはせいぜいこの自然の摂理に反抗してみようと思う。少々無理をしてもいい。自分の生きたいように生きる。それがいまの願いである。

 ただ、自分の生き方を追求するあまり人に迷惑をかけたくない。さんざん粘るが、去るときはあっけなく行く。それが理想だ。最近はこんな話をすることが架空の話とは思えなくなっている。今はなんとかなっていても明日は分からない。考え方も少しずつだが、生命の有限性に基づいたものになっている。

 いつどのようにサヨナラを言うか。そういうストーリーをいくつも考えている。もっともそんな計画はどれも無意味なのは分かっている。サヨナラだけが人生だとは思わないが。このフレーズを叫びたくなるときがある。やや

こぼれ種

 通勤途中のアスファルトの隙間に、キンギョソウが咲いている。園芸店で売っているものよりは幾分小ぶりだが、同じ形で色も鮮やかだ。その隣にはマーガレットに似た花も咲いている。これらは植えられたものではなく、どこかの花壇から種が飛んで来たか、何者かに運ばれてこの地に芽生えたのであろう。園芸品種の中にもたくましいものは多い。

 同じ場所に昨年まではベニバナユウゲショウというツキミソウの仲間が生えていた。今年はそれに打ち勝ったということになる。植物の世界も厳しい生存競争がある。

 パンジーの仲間も過酷な環境に耐えられるようだ。耐寒性も、浅い土壌も厭わない。スミレの強さを受け継いでいることが分かる。

 近くの公園で幅をきかせていた野草が、草刈機や除草剤で消えてしまった。すると空いたスペースに植物のレースが再開するのだ。人間が手を入れるまでは進化で獲得してきた生存のスキルが陣取り合戦に活用される。そんなふうに思って散歩をするとかなりエキサイティングな風景にたどり着ける。

大失敗は財産

 根拠のない妄言だが、大失敗の思い出はなかなか忘れられない。その記憶の保存期間の長さが結果的に自分にとってはよき教訓となり続けている。失敗はしなくてはならない。

 うまくいったことはその時は嬉しく、興奮もするが、意外と忘れるのも早い。試合に勝ったことや、大学に合格したことなど私にとっての数少ない栄光の記憶となるはずのものが、今となってみればほとんど思い出せない。その記憶は陳腐な類型的なものであり、本当に自分のことだったのか、後で他の人の記憶を当てはめたのか分からなくなっている。

 失敗の記憶の方は具体的な状況まで思い出せる。場合によってはそのときの心身の痛みまで再現されることもある。激しいダメージを伴うこともある。そのときに感じた再現される記憶が身体の感覚と結びついて保存されている気がする。

 私の経験が他の方にも当てはまるとしたならば、失敗の経験は貴重なものだということになる。不快で屈辱的な思い出は、将来の教訓として機能する。脳内で生成される失敗の経験がいまの自分の行動を制御するのである。

 その意味で大失敗は巨視的には財産であり、貴重なものと言える。この考え方は若い世代には受け入れ難いかも知れない。でも、失敗は屈辱的だが意味がある。

文字起こしの問題点

 話したことを文字にしてくれる、いわゆる文字起こしは大抵のコンピューターで実現できる。私たちは音声記憶だけでは記録性に欠け、文字となったときに長期記憶になると考えるために文字起こしは大変魅力的なものに感じる。

 ただよく考えてみると、会議の記録をすべて文字で表そうすると、必ずしもそのすべてが有意義とは限らない。私たちの思考は逡巡するものであり、迷走することも多い。語弊を恐れずに言えば、大抵の会議はそうした右往左往の展開によるもので効率的なものとは言い難い。

 人工知能に任せて内容を要約することもある。使ってみるとそのまま使うことはまだできないが、書記をおくより便利であることは確かだ。

 自分たちの話したことが文字化され、記録されることを歓迎することは間違ってはいないとは思う。でも、記録に残ればよいという考え方は再考されなくてはなるまい。考えること、話し合うことそれ自体に意味があるのであって、それを要約したものがあればいいという訳でない。

本が読めない人が増えれば・・・

 文章を読むことが苦手な人が増えているという。情報があふれている現代において、いくらでも文章に出会う機会があるというのに、それが読み取れないというのだ。難解な文章であれば無理もないが、ごく平凡な文章でさえも読めなかったり、内容を取り違ったりしてしまうことが増えているらしい。これはそういわれているということで検証はできていない。ただ、どうもあながち嘘ではない気がしているのだ。

 漫画のように絵が中心のものでも最近は読み取れない人もいると聞く。動かない絵や言葉をつなぎ合わせてストーリーを作ること自体が困難な作業になっているようだ。最近は動画で情報を受け取ることが当たり前になっている。しかも短い時間にポイントだけをかなり誇張して見せる動画が蔓延している。これも読解力の低下に影響しているのではないか。

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 読書をすることの楽しみを知らない人が今後増えていくとすればかなり危機的な状況におちいると危惧する。他者の考えを批判的に読むことができず、短絡的に結論を述べるものばかりに注目する。結果としてして自分で考えられず、他人の気持ちが分からない人が増えてしまうのではないか。

 人工知能の発展がそれに拍車をかけるのかもしれない。人間の知能を補助し、プラスアルファの思考を提供する目的で作られているはずの人工知能が、それに依存し自ら考えることをやめる人々を量産している。今のところまだ、人工知能の操作には専門的な知恵が必要なようだが、今後プロンプトの書き方のハードルが下がっていくことは必至で、そうなるとさらに考えない人が増える。利用しているつもりが利用される側に回る。悪意のある開発者が人工知能を操れば、冗談抜きで世論操作や人格操縦なども可能になるかもしれない。もうそれが始まっている可能性もある。

 少なくとも私の立場でできるのはもっと本を読もうということなのだろう。そして爆速で読み飛ばすのもよいが、熟読して他者と感想を交換するような機会を作ることも大事だと言いたい。それが人間の歴史をもう少し伸ばすことにつながると真剣に考えだしている。

開拓者への敬意

 物事を効率的に行うことばかりを求める現在において貴重なのは最初の一歩を踏み出すことである。人がやっていないことを行うことには多くのリスクを伴い、失敗すれば損失も多い。効率主義の考え方ではこのような賭けを嫌う。だから、これまでの成功例に則り、最小の努力、最短の時間で成し遂げようとする。コスパとかタイパとかいろいろな言い方をするが、要するに挑戦を避けた生き方である。

 かくいう私も毎日の生活に危険を冒すことを極力避けている。同じ時間に起き、同じ道を通り、同じものを食べ、同じ時間で仕事をする。その枠からはみ出さないように細心の注意を払い、結果として可もなく不可もない毎日を送っている。しかし、これでは新機軸は得られず、長期的に見れば衰退していくことになる。

 失敗しながらもそれにくじけることがなく、自分のやりたいことを続けている開拓者精神を持った人物には敬意を持っている。そうした強者はどこかに傷を負っていたり、他とは違う属性を持っていることも多い。自分とは違うと切り離して考えることもある。自分のことを棚に上げて言うならば、開拓者にもっと敬意を持ってその生き方を少しでもなぞりたいと思う。

絵画的フィルター

 妄想の話である。絵画に熱中すると時々自分の見る世界が絵画風に見えることがある。恐らく単なる思い込みなのだろうが、時として結構現実的に思えることもあるから、恐らくまったくの嘘ではないのかもしれない。

 有名な風景絵画の構図が実物を捉えるときの基準になることはよくある。富士山はこうであるとか、海の写真はこう撮りたいとか、そういうものは知らないうちに名画のそれをなぞっていることがある人物像も、その表情も把握する際にそうした評価基準を無意識のうちに使っているのではないだろうか。

 もしそれが正しいとすれば、私たちは現実を目前にしながら、そのありのままの姿を写し取ることなく、一定のテンプレートのようなものに照らし合わせて、その枠内に入ったものだけを認識しているのかもしれない。見ていながらも見えないものはかなり多くあるのだろう。

 それが何であるのか、本当にそうなのかを見極めることはさほど容易ではない。目の前にあるものでさえ見えていないことがある気がする。