まだ暑い日が続いているが、いわゆる猛暑を経験した後の今となっては最近の天気が涼しくさえ感じてしまう。気づけば日没の時間も少しずつ早くなり、日没後は気温が下がる。秋と呼ぶには早いが季節は確実に変わりつつある。小さい秋を見つけるのもあとわずかだ。
カテゴリー: エッセイ
ジャワにはないジャワカレー
駅そばの店でなぜかインド風カレーののぼりが立っていた。インド風とは何かを検索すると、小麦粉を混ぜないものだそうだ。日本のカレーはとろみをつけるために小麦粉を入れるので、それがカレーかと思っているとしばしば裏切られる。ただこの「風」というのが要注意で、日本の料理には何々風というのが実に多い。そう名乗らなくても日本アレンジがなされているものが多く、それがすでに独自のものとして評価されている。
インド風カレーをきっかけにして、ジャワカレーというものがあったことを思い出した。なぜジャワなのか。調べてみるとその地名とは関係がないことが分かった。赤道近くのジャワ島が南国の象徴と考えられ、スパイシーだがさわやかな味わいのカレーとして命名されたのだという。当のジャワには日本のジャワカレーのようなものはなく、スープカレーのようなものが主流だという。ココナッツミルクを混ぜて口当たりをよくするのが特徴なのだそうだ。
もっと凄いのがバーモントカレーである。アメリカのバーモントにはそもそもカレー料理が存在せず、この命名にはかなり無理がある。ただし、かつてこの地域でリンゴとハチミツを使った健康法が流行し、有名になったのだという。そこでこの2つの素材を使用して作ったカレーだという訳で、バーモントのカレーではなくバーモントで流行した健康法を取り入れて作ったカレーなのだ。
今ではカレーを「日本料理」と考える外国人も多いという。邪道だったものが独立して格上げされてしまったのだ。ルーツには敬意をはらうが思い切って和風化する。これは料理のみならず、この国の特徴と言える。確かに日本カレーは万人受けする懐の深さがある。
前にも紹介したが、ラーメンや餃子、天津飯も日本アレンジの産物だ。スパゲッティのナポリタンも、ドリアもイタリアにはないという。それを中華なり、イタリアンというのは料理のご先祖に対する敬意があるからだ。ジャワやバーモントには多少申し訳ない気がするが、少なくとも私世代の日本人には知名度が高いことで許してもらおう。
冷菓の思い出
子どもの頃、突然ブームが起きてその後忘れてしまったということがいくつもある。熱しやすく冷めやすい。それは若さの特権でもある。冷めるといえば、その一つに冷菓づくりがある。
冷蔵庫で作る氷を家庭用の削氷器を使ってかき氷を作ることは我が家ではかなり前からやっていた。シロップも普通に売っていたから、ヒット商品だったのだろう。そのときの記憶からかき氷は安価なデザートという先入観ができてしまい、最近の売っているかき氷の価格には驚く。素材も製法も家庭で作ったものとはまったく異なるのは分かっているのだが。
ゼリー、シャーベット、ババロアなどは簡単に作れる素が売っていて、それでよく作った。今よりも冷蔵庫が小さく、性能も低かったせいだろうが、親は子どもが勝手に扉を開けるのを嫌った。すぐに閉めるよう厳しく言われたことも覚えている。
ほぼ火を使わずにできるこうした夏のデザートは子どもにとっては自分でできる料理だった。さまざまな失敗と、試行錯誤の中で食べ物を作ることの楽しさと難しさを知った気がする。今でもそんな子どもはいるのだろうか。
人物像の魅力
吉川英治の三国志を読み直している。中国の古典文学の定番であり、事実というよりは歴史の型に沿った創作と言える。他の中国史にも言えるがその魅力は多彩な人物伝にある。この手法は東アジア全体に影響を与え、我が国の歴史物語や軍記物語、後世の奇人伝と称される諸作品への影響も大きい。
敢えてその特徴をいうなら、登場する人物の造形が濃く大胆で、しかも去るときはあっさりしている。ものすごい個性の持ち主として登場しながら、場面が変わるとあっけなく退場し、その後に関わることが保証されない。多くはその場だけの役割を演じ、消えてゆく。
この手法には慣れているはずなのに、例えば中国制作の時代劇を観ると痛快感の後に、何か不自然なものが残る。こんなに人物描写を軽く扱っていいのか。先ほどまで景色の最前景にいたのに、急にいなくなるのはおかしくはないか、などと。
私は世界をマクロな視点で捉えることが苦手だ。自身の立場や、自分に近い他者に自己の感情を投影して、世界を見ようとする。極めて主観的自己都合的な世界観である。そういう私にとっては漢文なり中国古典文学、及びその手法を現代化した諸作品はどこか違和感がある。その違和感を含めて味わうというのが私の玩味の方法なのである。
現代の多量ながら希薄な人間関係の環境にあって、個が立つ中国史伝のあり方はそれ故に受けるのかもしれない。
未だに完成せず
「あ、自分ってもう立派に大人だな」と実感した瞬間はいつ?
大人をどう定義するのかで回答は変わるが、自己基準によれば、大人という基準には自分は達していないと考えている。漢文でいう「うし」もしくは「たいじん」と読まれる大人は徳の高い尊敬される人物のことである。この方面に関してはいまだ全く目標にたどり着けない。自覚の問題ではなく、他者の自分への評価を俯瞰すれば明らかである。
一方で小事を飲み込んで目的に絞り込むという技ができることは別義の大人の域に達しているのかもしれない。要するに妥協することに甘んじられるということで、褒められることではない。でも、そういう受けとめができることが社会を円滑にしていることは確かなのであり、その意味では幾分かの成長の跡は自認するのである。
最も大人を感じるのは、経験という鏡を持ち得たことにある。毎日の経験を常に過去の先例と照合して、その差分から事態を把握するのは年の功以外の何ものでもあるまい。それは必ずしもよいことばかりではないが、日常の困難さを和らげていることは確かなのだ。
大人になることはネット検索だけでは達成できない。いろいろな経験の中で成功や失敗を味わいながら、知らないうちにそうなっている。
終戦記念日
戦争について知る日本人はどんどん少なくなっている。今年で終戦81年である。ということは戦争の直接的な記憶がある人は80歳代の後半ということになる。昨年の時点で85歳以上の人口は約692万人という統計がある。しかし、いわゆる健康な人口となるとさらに減少する。要介護認定率は40~45%程度らしく、その反対の55~60%は介護認定を受けていないことになる。認定を受けていないから健康とは言えないが、これらの数字から比較的健康で自立できている人は85歳以上では380~415万人であり、全人口の3.0~3.3パーセントということになる。荒い統計であるが数字を示せばそういうことだ。つまり、戦争を体験し、語れる人自体がわずかになっていることになる。
日本の戦後の平和教育に関しては一定の効果があったと言える。憲法9条の条文により、いわゆる国軍を持たず、徴兵制を放棄したことも大きかった。しかし、戦争の真の痛みを概念的にしか理解できない世代にとって、戦争は実利や自分の自由度のみが評価基準になっている。本当の意味での反戦の主張はかなり難しい。さらにロシアやアメリカがそれぞれの自国利益のために戦争という手段を使ってはばからず、中国もまた軍備拡張に余念がない。国連の常任理事国が平和維持ではなく、自国利益のために腐心する状況にあって、ならば日本もという主張がはばからなくなっている。
概念化した戦争は、実感から乖離して人を傷つけること、その後の苦しみなどを後景に押しやってしまう。だから、核兵器を持つ方が国防上は安上がりだなどといった発言がなされ、本人に失言の意識すらない。またそれにうなづいてしまう人が多数いる。
終戦記念日は平和の意味を問い直す日でなくてはならない。かつてはこの時期になるとそういう新聞記事やテレビ番組がたくさんあったが、最近はそれも少ない気がする。人類の歴史において戦いが繰り返されてきたのはこういうことなのだろう。その愚をまた繰り返してしまうのだろうか。
喜劇の難しさ
誰かを笑わせることは実は難しい。悲劇よりも喜劇の方が難しいとはよく言われることだ。そんなことはないと思う人は多い。コメディアンとか漫才師とか、そういう人はメディアに横溢しているし、身の回りにも笑いをとるのがうまい人がいる。そういう反論はあるはずだ。
でも、彼らの笑いの大半は前例をなぞったものであり、過去の笑いの模倣なのである。だから、新たな笑いの場を作ろうとすると途端に難題となる。笑いをとるのがうまい人はその型を心得ているということになる。
私たちが笑えるのはいろいろな条件が揃ったときであり、それがなければ笑いに至らない。例えば落語や漫才を見るときには、観客はすでに笑いに来ている。そのスイッチを適切に押してくれれば演芸としては優秀であり、それを追究しているのがプロなのだ。
例えば学生に喜劇をやらせてもうまく笑えないことがある。彼らには笑いの原理が分かっていないことがあるからだ。セリフや所作が上手くても笑えないことがある。観客に笑いの道に導く手順を怠ればどんなに上手く演じても笑えないのだ。
おそらくいくつかの要素の一つに、役者なり演じ手への親和性がある。自分を笑わせてくれるという信頼感がなければ、笑いの感情を発動できない。だから、評価されているコメディアンは登場しただけで笑いのスイッチを押すことができている。これは一般人には難しい。
笑わせることを追求するのはその意味で永遠の挑戦かもしれない。どうすれば人の笑いが取れるのか。既存の文言に頼らない笑いをどのように創出するのか。面白いテーマである。
今日もまた天気は不安定
昨日の豪雨は私の町でも一時恐怖を感じるほどだったが、千葉では死者も出てしまったらしい。一時に大量の雨がふると排水が間に合わない。また地下施設やアンダーパスと呼ばれる高さの低い場所は雨水が集まりやすく、避難ができないまま閉じ込められる危険性がある。日本のインフラは決して脆弱というわけではない。ただ、基準を超える天災に関しては対応できないのは事実なのである。
今日も午前中から空が曇り、いかにも大気が不安定な気配が濃厚だ。午後にはまた集中豪雨が降る地域が出るかもしれないとのこと。雨の継続時間は1時間以内というから無理はしないことが肝心だ。夏休みもあと数日だが、事故だけは起きないでほしいと思う。
豪雨
田舎のバス
実家に行くときは駅から遠いのでバスを使うことが多い。一時間に一本で午後5時台で終わってしまうので実は歩くこともある。大体30分くらいの道のりを歩くのはよくあることだ。
先日、ものすごい形相でバス停に駆け込んでくる人がいた。ここのバスはスマホで車の位置が分かるので、思わずもう少しで来ます。間に合いましたねと声をかけてしまった。するとその青年(というには少し年長にも見えたが)、実はいつものバス停ですでに通過してしまったので、先回りして来たんですとの答え。このバスは住宅地を蛇行するように走るので、やろうと思えば近道して追いつくことも可能なのだ。際どい賭けにはなるのだが。
彼と私がバスに乗った時には他に乗客が一人だけ、その一人もすぐに降りた。その後も御年寄が何人か乗車した。いわゆるコミュニティバスで料金は100円だ。こういう交通機関があるから助かっている人は多い。今後、高齢化がさらに進めば重要性は増し、不可欠のものになるのだろう。経営は困難かもしれないが是非維持していただきたい。