カテゴリー: エッセイ

Podcast Episode: 反・反教養主義

Pip: 瑠璃荘の書斎へようこそ。AIが何でも答えを出してくれる時代に、人間がわざわざ教養を積む意味があるのか——そんな問いが今回のテーマです。

Mara: Mitsuhiroが書いた記事を取り上げます。教養主義への批判を、さらに批判するという入れ子構造の議論です。では、反・反教養主義の話から始めましょう。

反教養主義への反論——人間に残された力とは

Pip: 「教養は特権階級の道具だ」という批判は長い歴史を持ちます。でも今、その批判が行き過ぎて、学ぶ意欲そのものを削いでいるとしたら、話は変わってくる。この記事が問うのはまさにその逆説です。

Mara: 問題意識の核心はここに置かれています。「現実世界の問題は決して単一の論理で解決できない。相反する考え方の乱立する中で一つの方針を決めなくてはならないことの方がむしろ普通なような気がする。」

Pip: つまり、正解を素早く選ぶ力ではなく、矛盾を抱えたまま判断できる力こそが問われているということです。それはAIが最も苦手とする領域でもある。

Mara: その点で、現在の教育トレンドへの懸念が示されています。大量の問題を短時間で処理させる方向性は、情報処理能力を鍛える一方で、内容への興味を失わせる可能性がある。そして皮肉なことに、その情報処理こそAIの得意分野だという指摘です。

Pip: 入試問題は解けても、その問題が訴えているメッセージを深く考えない——有名大学のエリートにすら当てはまるという観察は、かなり手厳しい。

Mara: 一方で、反教養主義への批判も丁寧に受け止めています。知識の独占が社会的地位を固定化してきた歴史は事実として認めた上で、今は状況が違うと論じています。

Pip: 「自分のことを棚に上げて理想を言う」と最初に断ってから議論を始めるあたり、自覚はある。

Mara: そのうえで、今後の教育は実体験や読書体験の蓄積を問う方向に動くだろうという予測が示されます。ただし「そこに至るまでにはもう少し時間がかかる」とも。

Pip: AIに代替されない力を育てる教育へ——その転換が来る頃、書いた本人はすでに現役ではないかもしれないという一文が、静かに重い。


Mara: 教養を積む理由が「AIに負けないため」になる時代は、それ自体すでに何かが変わっているのかもしれません。

Pip: 問いを立て続けること自体が、まだ人間の仕事ですね。次回もお聴きください。

反・反教養主義

 自分のことを棚に上げて理想を言うことにする。これからの知識人はもっと幅広い教養が必要になるのではないか。なんでもAIが答えを生成する時代になり、その真偽を見極め、人工知能を操る力を持つためには様々な価値観を持った現実をそのまま受け入れる人間としての力が必要になると考えられるからである。現実世界の問題は決して単一の論理で解決できない。相反する考え方の乱立する中で一つの方針を決めなくてはならないことの方がむしろ普通なような気がする。

 それなのにいまの教育がどちらかというと情報処理能力の方に傾いているのが心配である。大量の問題を短時間で解答させ、その大意をつかませることが教育界のトレンドだ。確かにこれも大切なことであり、情報があふれる現代社会においては欠かせない能力だ。でも、この作業こそ人工知能の得意分野であり、むしろ代替してもらうことが必要な能力になるのかもしれない。こればかりをやらせていると、人々はその内容に興味を持たなくなる。短時間で設問を解答することに関心が向きすぎてしまうのである。

 教養ばかりを重視する風潮を批判する動きがある。一部の特権階級が知識を独占することは不平等であるというのがその理由であった。確かに教養の独占は長い歴史があり、それが社会的地位を固定化してきたことも事実だ。しかし、現在は学ぶことをそれ自体の意欲を削ぐような動きが教養の意味を変えている。有名大学に入るようなエリートであるのに読書量が少なかったり、知識に伴う経験が乏しかったりする。入試問題は解けても、その問題の中で訴えられているメッセージに関しては深く考えない。

 おそらく、この後の教育の動きは人工知能のできない人間的な問題を解決する力の涵養に動くのだろう。様々な実体験、およびその疑似体験、その一部としての読書体験をどれだけ積んできたのかを問う形に変わっていくと予測している。おそらくそれまでにはもう少し時間がかかるだろう。その時、私はすでに現役ではないがそういう教育の在り方を見てみたい気がする。

今の脳力に対する手当

 認めたくはないが、やはり加齢による影響は思考にも現れる。その一つが短期記憶と集中力の減退ではないかと考えている。いまはそれを補うための工夫をして何とか乗り切っているが、この先はさらなる手当てが必要になるのかもしれない。

 まず、短期記憶が弱くなっていることに関しては常に小型メモを持ち歩くことでカバーしている。捨ててもよい小さなメモとボールペンは欠かせない。最近、家族からもらった小型カメラ兼レコーダーも役に立ちそうだが、まずは手書きのメモだろう。

 集中力に関しては対策が十分ではないが、30分以上は続けないということをとりあえずの目安としている。昔のように数時間にわたってやり続けるということは今の状況では難しい。ならば初めから30分したら別のことをするとか、休憩するということに決めた方がかえってうまくいくことが多いようなのだ。

 ただ困ったことにこの方法では気持ちの継続性が途切れやすく、創作的な文章が書きにくい。感情のつながりがうまく表現できないのである。これも短編を書くことで満足することにした。それをつなげばなにかができるかもしれない。いまのところ、その見込みはないけれども。

 今の脳の力を考えればできることとできないことがある。できることを優先し、できないことは無理しない。それが今の戦略である。

AIで要約の陥穽

 最近は文書を読み込んだだけで人工知能が立ち上がり、文章を要約してくれる。さらに文章の改善点を指摘することもある。実用的な文章に限ればかなり精度が上がっており、私もしばしば参考にしている。

 ただ、小説などの文章においてはあまり信用していない。そもそも創作を要約することには限定的な意味しか感じない。論理的な文章に比べればあいまいであり、無駄な展開もある。ただそれを含めて作品世界であり、要点だけを知っても本当に作品を鑑賞したとは言えない。

 最近はタイパなる概念のもと、なるべく短時間で効率よく収穫物を得ることがよいことのように考える人が増えている。自ら努力して作品世界に踏み込み、迷宮をさまようことなく、失敗しないガイドブックを始めから求めてしまう。

 私自身、何度完読しようと思っても挫折してしまっている本がいくつもある。ただ、いつかは読んでやろうとは思っている。さまざまな情報源により、どんな内容なのかはだいたい察しはつくのだが、やはり自分の足でゴールまで歩き通したいと思うのである。

 人工知能はたどり着けなかった到達点の幻影を見せてくれるが、それはあくまで幻だと考えている。その地に到達するまでのさまざまな経験こそが大切だと思うのである。

数字の読み方

 いろいろな統計があるが、数字は客観的なデータに見えて、その扱い方によっては極めて主観的なものになると感じている。好結果だと言われても、実際にはさほどではなく、むしろよくないこともある。その逆もまた真である。最近はこの見かけの客観性に騙されていることが多くなっているように思う。

飛鳥の意味

 学生時代、万葉集を専攻した私にとつては明日香村周辺の世界遺産認定への動向は注目すべきであり、至極当然のことと考えられる。日本の国家の濫觴というだけではなく、東アジアの島国がなぜ統一的な国家意識を保てたのかについて考える機会になるからだ。

 たとえば英国は日本と同じ島国国家であるが、歴史的には複数にわたる侵略を受け異なる民族と文化の融合が起きている。英仏海峡が対馬海峡より渡航しやすかったことや、バイキングの存在がその要因と考えられている。

 東アジアの辺境の列島が国家を形成し、独自の文化を発展させた礎が飛鳥付近にはある。学生時代はよく尋ねた。多くは建造物が失われた遺跡であり、建物も後世に再建されたものが大半だ。建築様式なども往時のものとは違うらしい。

 ただ、たとえば大和三山をいろいろな場所から見たり、古墳の大きさを感じたりすると、見えない古代の姿を幻視したくなる。地図だけでは分からない距離感や方角の感覚を感じることができるのである。飛鳥の景観を維持する意味はそこにある。

 ただ、世界遺産としての保存と、地域の人々の福祉とは両立しなければならないものだ。それをどのように行っていくのかが課題になるのだろう。

ラジオ劇

 音声だけで成立するいわゆるラジオ劇もしくは放送劇は、私にとつては創作意欲を刺激される表現方法だ。高校生のころこっそりと聴いたラジオの放送の中にはこのラジオ劇がいろいろあった。映像がない分、想像の力で世界がどこまでも広がる感じがしたのはよかった。

 NHKの日曜名作座は森繁久彌と加藤道子、その後を継いだ西田敏行と竹下景子が2人で全ての役を演じるという名人芸が展開された。これもよく聴いた。いまは段田安則がその後を演じているようだ。

 映像美、とりわけ現在のコンピューターグラフィックスやAIの生成画像はもちろん魅力的だが、敢えて音声だけで演じるラジオ劇は別の魅力がある。目を閉じて聴き入ると作品の世界が浮かび上がるのである。

 最近は動画サイトばかりに気を取られることが増えた。ラジオもかつてと異なり、ネットを通して好きな時間に聴取できる。基本に帰って音だけの表現世界を楽しんでみたいとしきりに思っている。

クールビズの自己規制

 いわゆるクールビスに移行してノータイとなった。しかし、私はどうもこのスタイルが落ち着かない。恐らく長年着タイを強制されてきたくびきがそのような反応をさせているのだろう。

 私はそこでかつてな線引きを試みる。ボタンダウンの半袖シャツならネクタイがなくても構わない。それ以外ならタイは必要だと。これはどこのマナーでもない。自分の妥協点だ。こんなふうに決めてしまうと途端に不自由になる。今日は久しぶりに半袖で出勤したのだが、襟は普通仕様であり、ネクタイをしてこなかったことを悔やみ出したのである。

 明日はボタンダウンで出勤することだけは決めている。でも果たしてこれに意味があるのだろうか、なぜボタンダウン型ならば許されるのか。その理由が合理的に説明できない。ネクタイの呪縛に取りつかれた私の葛藤は暫く続く。

調理という個性

 最近は料理をする機会が少ない。それでもわずかな機会を捉えて料理とは何かを考えることがある。今回はその雑感である。

 調理は一種の方程式であり、代入すればある程度の解は求められる。塩コショウの量の間違いは食べるときに気になるだけのことである。なんなら、修正も可能だ。

 方程式を乱しているだけなのに、なぜか料理の出来はその都度変わる。我々の味覚というものが繊細なのか、類型的なのかは分からないが、調理の努力に関わらず、味覚の大きな変革点がある。

 調理という日常的な作業は、この点を見事に克服できている。大きな冒険をしないが確実にネイティブの心を捉える料理を提供し続ける。これがプロの技であろう。

 かくいう私は通を装いながら、実はよく分かっておらず、類型的な価値判断に頼っていることがよくある。料理に正解はないが、作る人の価値観は確かにある。

自給自足型エネルギーの時代になるのか

 大国の掲げる「正義」のために多くの国がエネルギー問題に直面している。資源国からのエネルギー輸送の末にようやく文明が成立するという図式は限界にきているのかもしれない。化石燃料を頼りに発展してきた人類史は次の段階を迎えなくてはならない。

 太陽光や風力といった非化石燃料のエネルギーはいまのところ効率が悪く、エネルギー問題の主役にはならない。ただそれは現在のインフラがエネルギー生産会社と、それを消費する企業や個人といった図式になっていることに大きな理由がある。もし自分が使うだけのエネルギーを自分で生産し、それを必要なだけ消費するのならば、おそらく違った世界があるはずだ。もちろん自給には限界があるのでその不足分をエネルギー生産会社から購入することになる。単価はかなり上がるはずだが、その分、自分の使うエネルギーの管理が徹底されるはずだ。

 一つの海峡が封鎖されただけで世界経済が大打撃を受けるのは、よく考えてみれば極めて不自然なことだ。資源国と資源のない国との格差もよく考えてみればおかしな事実である。これまでなら、このような物言いは無意味とされてきたが、たとえば太陽光発電、とりわけペロブスカイト太陽電池ような技術を使えば、大きなゲームチェンジャーになりうる。資源国が独占していたエネルギー問題の大元を、別次元で考えることができるのだ。加えて風力や潮汐力発電も可能性としてはある。

 現時点ではそんなに単純な問題ではないようだ。新しい世界基準を作る覚悟がなければ新しい制度は生まれない。理想的な世界はこうですと言っても、そのことを同感する人がどれほどいるのか。それが分からない限り論は進まない。ただ、これほど理不尽な現実に直面したいま、新しい基準への模索は当然なされるはずだ。

 太陽光というおそらく多くの方国や地域の人々にとって分け隔てなく与えられているエネルギーについて私たちは何をすればいいのだろう。地域によっては同じ効率では降り注がない太陽エネルギーを分け与える心が求められるはずだ。私たちは国家主義を維持する限り、困窮する隣国を救うことはできない。