教員の仕事

 日本の教員の仕事が多忙かつ多岐にわたっていることは、その業務に就く一人として実感しています。できることはすべてやらせられるという感すらある。ただ、働き方改革の流れにコロナウイルス感染予防のための自粛の社会情勢が作用して、教員の働き方を見直すきっかけが与えられているように感じます。

 教員が授業に専念できるためには、事務的な要素の効率化と、部活動顧問などの外注が欠かせません。そのためには責任を持って児童や生徒を預かる機関なり企業なりが必要です。保護者の負担が大きくなり過ぎないように、行政の補助が必要になります。そういうことが確保できれば教員は子どもたちの教科や生活の指導に注力できるようになります。

 部活動顧問の外注化は卒業生や地域の住民の力を借りるべきです。校舎を活動場所として指導者には資格審査をして責任を持って行動していただきます。この方が結果的に活動は活性化するのではないでしょうか。

 教員が定時で帰宅できるようになれば日本の教育は復活できるのではないでしょうか。消耗ばかりで発展できる機会が限られている教員の現状は早急に改善すべきことです。

Jリーグ再開

 昨日、日本のプロサッカーリーグの2部3部のJ2、J3が再開しました。無観客試合という変則的な方法ですがとにかく始められたことは大きな前進といえます。

 スポーツ興行の再開は経済効果的は小さくても、社会に与える影響力は大きなものがあります。彼らが試合ができることが、精神的な勇気をあたえるほか、集客を前提とした産業全体に希望を与えると思うのです。客を集めなくては始められない商売のウィズコロナ時代でのあり方を具体的に考える契機を与えてくれるはずです。

 野球やサッカーなどの屋外でできるイベントの次はホールなどの密閉空間でのあり方を考えなくてはなりません。リモートではなくリアルな興行をどうやって成立させるのか、知恵が必要になります。

効果、過程

 実効性が重視されすぎるといろいろな矛盾が出てきます。しかし何でもやればいいというのも無理な話です。

 最近よく使われている言葉の一つに生産性があります。なんでも日本人の生産性は低いらしく、やっている割には金になっていないというのです。骨折り損のくたびれ儲けが現状という訳です。働き方改革などはこの文脈から出てきます。これは改善しなくてはなりません。

 ただし、これはあくまで労働時間と収益との関係の話であり、仕事の内容、質は別の次元に追いやられています。時間をかけてもやらなくてはならないものを考えるべきなのです。

 教育の分野では特にこのことが言えるのではないでしょうか。なんでも生産性に置き換え短期的な効果ばかりを考えるのは問題がありそうです。

履きつぶし

 通勤に使う靴を買いました。私は安い靴を履きつぶしては乗り換えています。ところがどうもこれはあまりよくない方法のようです。

 靴は歩行によって大きなダメージを受け、さらには水分などの付着で変質しやすい環境に晒されるために、一定期間回復の時間を設けた方がいいようです。結果的にその方が長持ちするし、型崩れもしにくいようなのです。

 今度はそうしようとおもいながら、また同じことを繰り返し始めています。

夜明けの地震

 午前5時の少し前に千葉県沖を震源とする地震がありました。最大震度は5弱とのことです。私の住まいのあたりも3程度の揺れが少し長めに続きました。

 今朝はしっかりとした降雨もあり、コロナウイルスの感染の脅威も消えていないとあって悪い要素が揃ってしまいました。このあとの梅雨末期の災害はかなり高い可能性として、大地震の発生は低いけれども影響甚大な要素として常に考えていなくてはなりません。

 日本人の心性を語る上でこの天災との付き合い方は不可欠の要素です。

蒸し暑い日に

 今朝の東京は低く垂れ込めた雲に覆われています。かなり湿度が上がりそうな気配がします。

 日本の夏は湿気が高いというときっと不正確です。太平洋側の地域はという条件が必要です。南から吹く季節風が太平洋で発生した蒸気を列島に運び続けるために、東京や名古屋、大阪などの都市は高温多湿の酷な状況にさらされます。

 最近は熱中症の被害者が深刻な問題となっています。今日のように日照がなくても症状が発生することがあるとのこと。むしろ油断して重篤化するまで気づかないこともあるらしい。気をつけなくてはなりません。

融合

 横浜には様々な日本初があります。多くは近代の文明開化によるものです。

 日本初と称するものの多くは海外のものやことを移植したものです。しかも単なるコピーではなく、無意識の和風化が起きている。取り入れたものを見よう見まねで作り出した結果、オリジナルとは似て非なるものができたのです。はじめはまがい物扱いだったものが、時を経て価値のあるものに変わってきたのです。

 進取の精神は忘れてはならない我が国の徳の一つ。最近それを少なくとも私は忘れかけているようで自省していますが

詳細にこだわらず関係性を説く

 自分の思っていることを相手に伝えようとするとき、そのほとんどが伝わらないという経験をしばしばしています。それは私の話し方に問題があるのでしょう。それではどうすればいいのか。自分なりに修正を試みます。

 自分では論理を立てて説明しているつもりでも、初めてそれを聞く人にとっては非常に分かりにくいことがあります。自分にとっては一度通った道でも、始めてきた人にとってはどこに連れていかれるのかわからない探検のような雰囲気になります。分かりやすくするためには適度な道案内と、ゴールが見えているようにする可視性が必要なのでしょう。そのためには結論先出、説明後付けの方法がいいのでしょう。

 板書をするときなどは論理の筋道を文字化、図式化することを心がけます。細かい情報に拘ると全体像が見えなくなりますので、全体を見通せるようにします。最初にその地に立った人は、自分の立地点のことばかりを考えてしまいますが、あとになって考えるとその位置はあまり重要でなかったということもあります。大切なのはその地点ではなく、他の事象との相対関係であることが多いものです。まずはそのことを説明するべきです。

 個々の物事を説明するのではなく、互いの関係性をできる限り俯瞰して見せること。それがうまい説明につながるのでしょう。

終息せず収束した状態

 日本語は音韻の数が少ないため同音異義語が多数存在します。使われる文脈で大抵は意味が使い分けられるのですが、なかには判別が難しいものがあります。その一例で昨今頻繁に使われているのが「しゅうそく」です。

 収束はものごとがおさまることを意味します。混乱していたものが一定の秩序を取り戻した時に収束したと言います。コロナウイルスの流行に関して我が国では感染者数、死亡者数ともにひところよりは減っています。これを表現するには収束の語がふさわしい。

 それに対して終息は終わったことを意味する熟語です。ウイルス感染がほぼなくなった状態が終息ということになります。この終息への道はまだまだ遠い。厳密にいえば終息はありえず、ほぼ終息という状態をいう言葉ということになります。

 アメリカやブラジルなどでは感染者数がまた急増しているとか。海外での数万人の死者の報道は日本人からすると信じがたい事実なのですが、まだ日本で同様のことが起きる可能性は消えていません。あくまで収束の方向に向かっているだけで、終息には程遠いというわけです。

明日は夏至

 明日は夏至です。東京は梅雨の季節であり、いつの間にかに過ぎているということが多いのですが、今年は晴れそうです。

 年間でもっとも昼の長さが長い日という夏至ですが、確かに帰宅する時間まで明るく、それを実感できます。

 明日は部分日食でもあるのだとか。