イギリスでコロナウイルスのワクチン接種が始まった。緊急事態ゆえの措置と考えるが、異例の早さという。様々なリスクがあるにも関わらず、実施に踏み切ったのは切迫した状況があるからだろう。今朝は早くもアレルギー症状が出た報道があった。世界中で情報を共有するしかない。
再び冬へ
逆行していた季節がまた前進を始めたようだ。これから寒くなる毎日に耐えなければならない。やるべきことは多く迷うこともおおい。
水族館
都会にある水族館に行ってみた。平日だから人は少なかったが、その分水生動物と向き合ってきた。実に不思議な時を過ごすことができた。
どうして魚はこんなにも種類が多いのか。そしてそれぞれに実に特徴的な形をしているのか。様々な色彩があるのはなぜなのか。そういうことが水槽ごとに気になって仕方がなかった。人生という単位では計り知れないくらいの長い年月をかけて、それぞれの生き物はそれぞれの形になった。それぞれの色彩も、それぞれの大きさもすべて長い歳月をかけて今にたどり着いたのだ。人間ごときがそれを描写しようとしても所詮は部分を描いたに過ぎない。おそらく非常に長い年月の意味づけが難しいほどの繰り返しと、突然起きた環境の変化と、その他予測不可能な何らかの変化を超えていまに至っているのだ。
水族館に行くことは楽しみでもあるが、ある意味不可解な質問を無限に繰り返される空間でもある。質問に答えられないことを、私は認めなくてはならない。知識主義の現代人の根底を覆される。だから水族館は面白い。そして刺激的で危険な場所でもある。
晩秋
初冬というべきなのかもしれないがそこまでの冷え込みがない。昨日は近隣の丘陵を訪ねた。半ばはすでに枝だけになっていたが、紅葉もかなり残っていた。その色がくすんで見えたのはこの時期だからだろう。池水には動きはなく、枯れた蓮の茎が窓らに並ぶ。もう来週にはこの地に来ることが億劫になるだろう。私は秋冬の行合になぜか心を揺らしている。
微かな変化
ものごとは少しずつしかし着実に変わっている。私たちはそれになかなか気づかない。あるときなにかをきっかけにして違いに違和感を覚える。そのとき変化の様に愕然とするのだ。
旧友に再会したときに私たちはそのことに驚く。そして己の変化にも自覚するきっかけになるのだ。自分はこんな存在だと考えることが始まってしまう。本当はこの瞬間にも変わり続けていて、着実に死に向かっているというのに。
落差に愕然とすることがないよう私たちはいまのありさまをときどき把握しておく必要がある。
脱炭素
地球環境保全の施策として脱炭素を掲げるものがある。化石燃料をなるべく使わないことで目標を達成しようとしている。注目すべきだ。
実際に完全な脱炭素化は困難だ。再生エネルギーの中にも炭素が含まれるものもある。とりあえず使用量を削減し、効率のよいシステムを用いることが鍵となるだろう。私の利用駅は太陽光や水素による発電システムがある。これらの普及も欠かせない。
気が散る仕掛け
読売新聞でデジタル書籍に関する特集記事が連載されている。新聞という紙面のメディアからの発言であることを割り引いても、現状のデジタルテキストは学習効率を決して高めないものと読み取ることができる。
情報の活用や拡張性については電子書籍の方が圧倒的に勝る。モノでないことから物質的な拘束から解放されるのが何よりもよい。ただ、メールもゲームも何でもできるという多機能性は読書を阻害する。真面目な読者であっても、参考のリンクをたどるうちに本論の論理が消えてしまう可能性がある。
私は電子書籍リーダーを使うことで誘惑から決別しようとしている。一つのソースに集中できる環境を自ら作り出すしかない。金はかかるが読むことしかできない端末を教育現場で普及させるのはいかがだろうか。
鰤おこし
富山に住んでいた頃のことが突然蘇ることがある。ただ、それは風景や天候のことが中心だ。田舎の方に宿を借りた私は、住まいの前の用水路から飛び立つホタルを見て、遠くに来たものだと実感した。夏の乾燥した暑さや、秋の紅葉の美しさ、冬の曇天、時々鳴り響く雷鳴、吹き出すような雪、そしてそれらを越えた春の美しさなど印象的なものばかりだ。
もし、可能であれば再びこの地を訪ねてみたい。さらに住むことができればなおいい。ただ、そこで何ができるだろうか。それを見つけることが今の課題だ。
微熱
昨日、微熱を感じた。もしかしてと思ったが今朝は平熱であり倦怠感もない。どうもいまはちょっとした体調不良も気になってしまう。
おそらく昨日は用件を済ますためにがんばり過ぎたのだろう。強い疲労感があった。そのためにそれが発熱に表れたのだ。
これからはインフルエンザも流行るはずであり、油断ができない日々になる。
地べたを
私たちの感覚は近くにあるもので構成される。もちろん目に見えているものだけではなく、距離の離れた場所の情報も手に入れることはできないわけではない。それにしても限られた空間の中で行動が規定されることは確かだ。
時間の方はもっと限られる。過去の記録は歴史となって残されるものの、実感としての時間はまたたく間に消えてしまう。昨日のことすら思い出せないことがあるのだから仕方がない。未来のこととなると完全に分からない。これはもっと切実で、数年後のことが分からないだけではなく、1秒後のことすらも分からないのだ。
地べたを這う虫は俯瞰ができない。私はそれと同じ生き方をしている。したたかに生きぬくことがいまできることのすべてなのかもしれない。