まとめる、まるめる

 ものを考えるとき、私は過去の経験から既に獲得しているものの捉え方に当てはめている。これは認知上の基層にあるもので多くの人に共通するはずだ。ただ私の場合はその拘束力がそれほど強くなく、しばしばいきあたりばったりになる。

 いざというときにうろたえることがないように、行動の作法、もしくは型のようなものがあるのだろう。迷いをなくすという点においてこれは大いに意味がある。

 たが、千変万化の事象に対して限られた型に当てはめることには無理があるのは確かだ。詳細をいわばまるめて目につきにくくしている訳だ。厄介なのはまるめられた部分が実は全体の印象に深く関わっている場合、大切なことを見落としてしまうことだろう。

 まとめることは大切で、それがなければ理解できない。理解できなくては何も始まらない。ただ何でも理解しようと大切な部分までまるめてしまうと本質を見失う。

 ときにまとめず、まるめないものの捉え方をする必要を感じる。そのためには何気ない自然の風景をながめたり、抽象的な芸術作品を見たりするのも意味があるのだろう。

 まとめる、まるめる力が知の源泉であるのと同じ意味で、まとめない時間を確保することが大切なのだ。

通り過ぎる雨

突然降り出して

 台風の進路が住まいからは離れていたことにより、風の被害はほとんどなかった。対して雨はかなり強くしかも断続的だった。

 曇天の中からにわかに強い雨が降り、周囲の視界が遮られるほどの強いまとまりになる。しばらくすると止み、また曇天となる。さらにどこからかまた雨雲が走って来て、集中的に雨を叩きつける。その繰り返しだ。

 雨間に油断すると傘を忘れる。忘れた人が慌てて傘を買うと止む。そういうサイクルに陥りやすい。午前中はこんな天気が続くらしい。

脚本家のエネルギー

 ウルトラマンシリーズなどを手掛けた金城哲夫や上原正三の伝記的なエッセイを読み始めた。様々な障害があってもシナリオを書き続けるエネルギーに圧倒される。この熱量を私は忘れていたことに気づいた。何か書きたいという気持ちが高まっている。

ダンボールに描かれた絵

捨てる前に芸術を
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 少し前のことであるが絵本画家の展覧会を見に行ったことがある。会場には多くの絵本の原画が飾られていたが、その周りにダンボールに描かれた動物や植物が立てられていた。演劇の書き割りのように縁取りが切り取られていたのだ。

 梱包の際に使い捨てられるダンボールが芸術の対象として大切に扱われていることにちょっとした驚きを感じた。学校の文化祭などでもこの手法はよくとられるが、プロの手にかかるととても使い捨て出来るようなものではなくなる。

 もちろん、耐久性という点においてダンボールの絵、もしくはオブジェは期待できない。すぐに滅びてしまうものだ。ただ、生活の中の芸術としてこういう気楽なデザインなり、美意識は見直されていいと思う。数万円から数十万円の彫刻を買うのは覚悟がいるが、ダンボールでかたどる動物なり植物なり、幾何学オブジェならば気楽に置ける。安っぽくならないよう、気持ちを込めて作ればそれなりに精神的な栄養剤になる。

 いわゆるダンボールアートと呼ばれるものになるととても素人の及ぶ域ではなくなる。まずは気に入った絵や写真を切り抜いて貼り、それを立体として置くということから始めてみたいと思っている。

嵐の予兆なのか

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 個人的な問題を書いておく。前回もそうだったが台風が接近するとどうも体調がおかしくなる。そして夜眠れなくなる現象がある。これはおそらく心身両面に何らかの影響があるからであると勝手に判断している。

 実際の台風はまだ日本の南海上にあり、沖縄に近づきつつある。住まいからはかなり遠い。昨日は陽射がありかなり暑かったが、ときおり大きな雲が通り過ぎた。しかし、まだ悪天候といえるものではなかった。にもかかわらず、軽い頭痛と、抑えられていた秋花粉への反応などが起き、少々つらい一日だったのだ。

 これがよく言う気象痛なのかは分からない。過去にもそういう事例を多く経験しているので、あるいはその例に当てはまるのかもしれない。気圧の変化などが関係しているという。ただそれにはまだ原因となる低気圧(台風)が遠すぎる気もしている。

 もう一つはいつか前も使ったしゃれだが、「気のせい」が原因かもしれない。つまり精神的な要因で一種の思い込みだ。台風が来ると体調が崩れるという過去の経験が何度か続いたため、それが偶然の重なりであっても因果関係を考えるようになってしまったということである。おかしな話だが、こうした条件反射は存在するらしい。

 さしあたって今日はほとんどよく眠れなかった夜を超えて一日をどう過ごすかだ。世の中は連休というが私は仕事がある。そして二連休に入る。今日やっておかなくてはならない仕事を伸ばすとよろしくない事態になる。台風などに負けてはいられない。あるいはこのプレッシャーが台風よりも強いのかもしれない。

無人化

いらっしゃいませ

 外食産業で無人化が進んでいる。と言っても、内情は知らないのであくまで客の立場での無人体験をまとめてみた。

 某回転寿司店では入口でロボットが出迎える。彼は日本語がかなり流暢に話せるが、きまり文句以外はできないようだ。この点は最近の人間と変わりない。残念ながら人間の話を聞く度量はないらしくタッチパネルで希望する席種や人数を聞いてくる。作業が終わると丁重にお礼して席の位置を印刷した紙をくれる。

 あるファミリーレストランは席に座るとタブレットがおいてある。客はここでもスクリーンの沼に誘い込まれ、自分で注文をする。かわいいウエイトレスやかっこいいウエイターは来ないが、彼らに間違った注文をされる心配はないし、ご注文はこれで「よかったでしょうか」を聞かずに済む。

 別のファミレスは注文した料理を自走するロボットが持ってくる。残念ながら人型ではなく、自動ワゴンとでもいうべきものだ。なぜか陽気な音楽を鳴らしながら動くのは、そこどけとは言えないからだろう。彼、もしくは彼女には言語能力はない。

 先日入ったレストランは座席案内も注文も配膳も人の手で行っていた。これが一番落ち着く。多少の間違いはあってもいい。やはり人のぬくもりは大切だ。食事が終わってお会計は、というとこれがセルフだという。勘定書のバーコードをスキャンすると金額が表示される。現金を入れるか、スマホでバーコードのお返しをするかで会計を済ませる。ありがとうございますとも言わない。会計が済んだらただ消え去るのみだ。

 以上がすべて揃った店にはまだ入ったことはない。でもそのうち普通になるかもしれない。ロボットにいらっしゃいませと言われ、タッチパネルで注文した料理がロボットによって運ばれる。すでにネットで会計は済んでおり、あとは帰るだけだ。食べ散らかした食器や残版の類はロボットが音も立てずに見事に片付け、除菌までする。これは数年後に見られるかもしれないし、来年かもしれない。

 今日は少し塩辛いなと思ったら、後でお詫びのメールと謝罪用のポイントが届くかもしれない。先日調理ロボットがハッキングされ、塩分センサーに異常が発生していました。今後はセキュリティに注意していきますと。

生活の中の美

 考古学資料のなかに魅力的な芸術を感じることがある。恐らく作られたときは獲物を狩るか、神に祈るかといった実用的な目的を持っていたはずのものだ。それが例えば展示ケースに並べられると美術品に見えてくる。

 今わたしたちが何気なく使って、意識することなく捨てているのものの中にもそうした美は隠されているに違いない。あまりに日常的だと気がつかなくなる。だからものを粗末に使うようになっていく。

 生活の中に美を見つけるにはときにいつもと違うやり方をするのがいいのかもしれない。見方を変えることによって日々の積み重ねの中に消えてしまった美しさを発見できるはずだ。そういう余裕だけは持っていたい。

捨てること

 整理の苦手な私の言い訳である。盛んに捨てることを奨励し、本来の意味とは異なる断捨離という概念まで当てはめて知的営みを軽視する動きはいつまで続くのだろうか。大量生産、大量消費を美徳としてきた時代が行き詰まったからといって、それを個人の怠慢に帰結していく発想には社会的欺瞞を感じる。

 捨てることを前提としたものの作り方や買い方を改めていかねばならない。使えるものはとことん使う。様々に応用して活用することこそ現代の状況に合っている。そのためにはメンテナンスの手法や経験を蓄積した専門家や、修理が手軽にできるメカニズムの構築などを考えていくべきなのだろう。

 捨てれば片付くという発想は自己欺瞞と社会的損失を拡大するだけだ。

校歌

校歌覚えている?

 卒業した学校の校歌を歌えるだろうか。校歌のことを考えると様々な物語が思い浮かぶ。

 流石に幼稚園に園の歌があったのかは思い出せない。小学生時代は転校を繰り返していたので4校に通ったことになるが、そのうちの1校はどうしても思い出せない。また入学した最初の学校は新設間もなかったらしく校歌がなく、行政自治体の市の歌を歌った。やたらと難しい歌詞と曲、作詞は森鷗外と自覚したのは何年も経ってからだ。

 中学校からは対外試合の応援などで歌ったからよく覚えている。住宅地の小さな学校で残念なほど狭い校庭だった。ここではいろいろな大切な時を過ごしたが、残念なことに廃校になってしまった。校歌には過密都市になる前ののどかな風景が歌われていた。

 元女子校であった高校の校歌は複雑で合唱曲のようだった。通して歌える生徒は多くなかった。それでも、試合の時の応援には声を揃えて歌った。およそ応援には向かない優雅な曲であったが。

 大学の歌は応援歌の方が有名で校歌(正式にはそう言わないが)は知られていない。でも野球の応援などで歌ったのでいまも歌える。

 校歌のことを考えると過去のいろいろを思い出す。ところで卒業した学校がすべて存続している人はどのくらいいるのだろう。その人はかなり幸せだ。

自動運転

安全な道でありたい

 高齢者による運転ミスの問題は今後ますます増えていくはずだ。私自身の問題としてもやはり、いざというときの脳の瞬発力が残念ながら減退していることを感じることがある。高齢化社会にあってこれは宿命であり、まさに焦眉の急の課題だ。

 自動運転の技術は我が国においては国家的な事業とすべきだろう。完全な自動運転は難しい段階でも、あきらかなアクセルとブレーキの踏み違えがおきたときに対処する制御システムを先行開発し、実装すべきだろう。オールインワンよりも実態にあったものを先にというのはこの場面でも言える。

 例えば駐車場での車の誘導の自動化は設備投資的にも実現しやすいものだろう。コンビニの駐車場に入ったら、あとは自動で駐車スペースに停められる。公道に出ると自動が切れるというのはいまの技術でも可能なように思える。

 逆走を知らせる警報の設置もできるはずだ。GPSの精度はわからないが、道路脇に物理的な誘導装置を設置しておけば解決できそうだ。

 恐らく素人のわたしがこんな戯言を言う前に技術者のみなさんはもっといい考えを持っているはずだろう。それがなぜ実現できていないのかを問題とすべきだ。高齢化社会のなかでどのように安全を保つべきなのかを真剣に考える必要がある。期限はすぐに来る。後回しはできない。