写真

Why do you take pictures?
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 人はなぜ写真を撮るのか。そんな作文を中学生に課してみた。もっともZ世代にとっての写真の意味は私のそれとはずいぶん違う。私はシャッターを切るという言い方に違和感がないが、今この言い方はなされない。なされたとしても意味がかなり違う。写真を撮る意味はテクノロジーの進歩以上に変化しているかもしれない。

 父は写真を撮るのが下手だった。ピント合わせも遅ければ、なかなか構図が決まらず家族を待たせた。たいていの場合しびれを切らした家族の不満な表情を撮ってしまうことになる。しかし、これは父が悪いだけではなかった。かつての写真はピント合わせから自力で行った。フィルム代も安くはなく、24枚か36枚程度でフィルム交換をしなくてはならず、その交換も手巻きだった。だから、一枚ごとの撮影は慎重にならざるを得なかったのだ。それでも現像してみたら目を閉じていたということはいくらでもあった。

 今はデジタルカメラだから、何枚でも撮り直しができるし、その場で写り具合を確かめることも可能だ。カメラではなくスマートフォンで撮影する人の方が多い。カメラを持っていない家庭が多いのは昭和時代では考えられないことだった。写真を撮る緊張感はほとんどなくなった。自撮りというよく考えれば不可思議な行動をする人も一般的になった。

 では、なぜ写真を撮るのだろうか。一つには不断の時間の中に生きる私たちのささやかな抵抗だと考える。諸行無常の世界にあってすべては移り変わる。自分の身体でさえ絶えず変わり続けている。昨日の自分はすでに今の自分とは物質レベルで別物になっている。ならば写真もしくは動画でその時点での自分もしくは自分が見たものを残しておきたいと考えるのが撮影の願望の底にあるのだろう。

 実際はその写真、フィルム、動画ファイルさえも劣化して消えていく。その速度がいかに遅くてもやがては消滅する。人生よりは長い。しかし、見る方が変わってしまえば、たとえ写真が不変であっても違って見えてしまう。だから本当は過去の一時点を完全に保存するこは不可能だ。

 それでも私たちは写真や動画を撮りたがる。後でそれを見ることだけが目的ではないのかもしれない。いま、それを記録しようとしている行為そのものに生きがいを感じることが撮影の意味なのかもしれない。大量に撮影され、顧みられることがない映像をかつては無駄と感じることもあった。しかし、もしかしたら、無駄になる写真を撮ることが生きていることの証なのかもしれないと考え直している。

文章で

授業は対話

 授業のときに気をつけているのは発問をしたとき、その回答が文の形になっていることだ。何かを尋ねたとき回答が単語になっている場合が多い。これをいちいち言い直させる。

 対話型の授業にしようということで授業の中でやり取りをすることがある。なるべく個人の負担を減らすために予め周囲の人と話し合わせ、その中で出た内容を答えさせる。

 そして出た答えは文末まで聞き、文の形になっていることを要求する。会話をするように、会議をするように答えるというのが基本方針だ。表現する力、会話力もつけさせたいというのが真意なのだ。

 日々の積み重ねで口頭表現の力もつけさせたいというのが真の狙いなのだ。

昭和は遠く

昭和は歴史の中に

 昭和64年1月7日に昭和が終わった。1989年であった。今年はそれから33年も経過している。その日に生まれた人はすでに若者とは呼ばれない年齢層だ。

 私にとって昭和の終わりはまだ学生であった。いろいろなことがこれから始まるという予感はあったが何も予測はできなかった。そもそも自分が生まれた元号と同じ時代に戦争があり、敗戦して復興し先進国と自称している国であることが理解できていなかった。どの時代の誰でも同じだが、自分の人生を俯瞰することは難しい。

 小渕官房長官の掲げた「平成」の元号に違和感を感じ、いかなる時代になるかと思い始めたころ、日本の経済的な停滞が本格化した。この平成年間にはアメリカの同時多発テロ、日本国内での阪神淡路大地震、東日本大震災、オウム真理教信者によるさまざまな社会不安など様々なことが次々に発生したため、その実質的な期間以上に長く感じる。その分昭和が遠ざかってしまったともいえる。

 明治は遠くなったと草田男は嘆いたが、その気持ちはいまの私の世代に共有されているのではないか。

感性

 感性という極めて個人的な要素も実は社会的に規定された枠組みの中で育まれている。まったくの個人の感性というものはなかなかないものだ。

感性は

 美意識にしても死生観にしても個人のオリジナルというわけにはいかない。周囲の人々のそれに大きく影響を受ける。個性的と言われる人も大抵の場合、社会的な平均からの絶対値が多少大きいだけなのだ。

 感性というものも自分だけを見ていても説明できない。これは文化や芸術を考えるときに忘れてはならない。

英語アナウンス

 オリンピック前後にはよく聞かれた車掌による英語アナウンスを聞く機会が減っている。相変わらずの世界情勢で外国人旅行客は減っているままだが、ぜひ復活してほしい。

 予め録音された英語アナウンスは以前から使われている。最近は中国語や韓国語も流すことも稀にある。ただ、大半は定型文であり、状況に応じた情報は用意がないらしい。

 私の利用路線では電車が接近しているから速度を落とすとか、乗客のトラブルのためにしばらく停車するといった情報まで英語でアナウンスしていた女性車掌がいた。こうした不慮の事態こそ知りたいことなのだから大切なサービスだと感心した。

 車掌が英語アナウンスができるということはとても大事だ。ぜひ復活していただきたい。車掌という仕事のステータスが上がるだけではない。学生諸君に外国語習得の必要性を悟らせるための最善の策にもなる。語学レベルで給料アップをするなどいかがだろう。

あざみ野のホタル

firefly

 この頃になると思い出すのはあざみ野駅のあるあたりにホタルを見に行ったことだ。あざみ野は横浜市の北部、丘陵地帯にある。今はかなり人口が多い住宅地だ。

 私が住んでいた頃にはあざみ野駅はなく、青ガエルの愛称があった田園都市線は止まらずに次の江田駅を目指していた。田圃が点在し、雑木林が取り囲んでいた。農家の脇の用水にヘイケボタルが飛んでいた。

 いまは絶対見ることはできない。この沿線は恐ろしく変わり続けている。私のような思い出を持っている人も少なくなりつつある。

分からないことが前提

分からないことだらけ

 なんでも検索すれば分かると考えてしまうのが現代人の発想法のようだ。確かに手元のスマホで検索すれば説明が即座に出てくる。音楽を聞かせれば曲名や演奏者の名前が瞬時に分かるし、昨日は道端の花を映像検索して和名や学名を知ることができた。検索可能な世界観はこのようにしてできあがっている。

 しかし、本当は検索などできはしない。同じ花でも株ごとにみんな違う。音楽は同じ音源であろうといつどこでどのような目的で聞くかによって意味が変わる。記号化された世界は、その網目があらすぎるといい加減な把握になる。結果として大切なものを取りこぼす。

 分からないことが世の中にはたくさんあることを再認識するべきなのだ。誰か別の人が調べたことで世界が説明しつくされている訳ではない。検索しても分かったつもりになってはならない。分からないことだらけの毎日こそが現実であり、それ故に私たちは豊かな可能性のある日々を生きているのではないだろうか。

人とは違う成長

伸び方はそれぞれ

 長年教員を続けているといろいろな生徒に出会うことになる。中には学力は高いがメンタルが弱い人や、人間的な魅力はあっても他人と共生する能力に劣る人もいる。こういう人たちは集団生活に適合しない人として問題視される。

 でも、その人の絶対的な評価が低いとは考えたことはない。いまの学校がもっている物差しでは測れないというだけのことだ。それぞれの人にはそれぞれの成長の過程があり、一見劣っているように見えても実は優れているといったことはいくらでもある。個性というにはあまりに曖昧かもしれないが、個々人の能力、コンピテンシーといったものは簡単に測定できるものではない。

 ところが、現実社会ではあたかも学力には序列があるかのように思わせ、性格にも強弱、優劣が数値化できるかのように見せることが行われている。学校などの教育現場ではそのうち現体制に都合のいいものを選び、その数値で人を評価している。数値化することは現状の把握のための手段であるから不要とは言えない。ただ、それは数多くある尺度のいくつかであり、別のメジャーをつかえば別の人間像になるということを忘れてはならないだろう。

 少々心配なのは教員になる人の大半は現行の教育のなかで優秀な成績を取り続けてきた人であるということだ。自らができることが生徒にできないはずはないとか、当然こうするべきだとかいう思い込みは捨てなくてはならない。効率主義の企業と教育の現場との違いはそこにある。

バランス

 

ほどよい課題

 できそうだけどできない。しかし、ちょっと工夫すればできる。そう感じたときに学習効果は上がるのだという。全く歯が立たないものは気持ちを萎えさせるし、簡単すぎても侮るだけだ。この匙加減が重要らしい。

 しかし、現場にいて困るのは様々な理解度習熟度の生徒が同居していることだ。個々に応じることは難しい。AI教育プログラムにはこれを解決しようとするものがある。ただ、プログラムに向き合う自主性は必要で、学習効果は限定的だ。学ぶ気持ちが少ない人には向かない。

 ほどよい課題で学びを促進するには、分かった人がまだ分からない人に教える仕組みを作るといいのかも知れない。互いに教え合うことで教える方は考えを整理し、教えられる方もやり方を学べる。

 教員の役割はきっかけづくりとこの難易度の調整、学び合いの促進にある。これは言うに安く行なうに難い。やり方を研究すべきだろう。

Another station, another story.

 通勤電車や旅行中に電車に乗るとき、時々思うのは駅ごとに物語があるということだ。それぞれの駅にまつわる歴史があり、その上で人々が重ねていくエピソードがある。

 仮に住まいを今とは別の駅の近くに構えていたらと考えることがある。別の道を歩き、別の店で必需品を買う。別の学校に通い、別の病院のお世話になる。そういうことがいくつも繋がるのだろう。

 この駅の近くに住んていたら、あの駅ならとさまざまに考える。するとそれぞれに違った人生の選択肢の可能性が浮かび、逆に実現しなかったバリエーションが考えられる。本当にこれで良かったのかという反省も起きるが、もしかしたらこうだったかもしれないと考えるのは楽しい。

 駅はそういう可能性を想起するためのきっかけであり、テレビのチャンネルのようなものだ。