読書感想文のすすめ

感想文は嫌な思い出?

 意味のない宿題の代名詞とも言えるのが読書感想文である。無駄であり、害悪だと難ずる人もいる。だが、私は敢えて読書感想文を勧めたい。特に大人に。

 読書感想文が宿題であるのは確かに問題だ。宿題ともなれば他者と共有される品質が要求され、評価されることを意識してしまう。ただ、感想というのは極めて個人的なものであり、どうあるべきかという基準などない。科学的評論を読んでロマンを感じる人もいれば、ミステリーに哲学を感じる人もいていい。感想に正解はない。

 読書するときに何を感じたのかを書き残すのは意味がある。まとまった文にならなければ断片的なメモでいいと思う。何を感じるかは読書のタイミングによっても変わるはずだ。そもそも自分自身が心身ともに刻々と変化しているのだから。

 何を感じたのかをあとから見直すことも意味がある。自分の変化も分かる。大切なのは素直に自分の言葉で書くことだろう。とんでもない誤読をしている可能性もあるがそれも含めて読書感想文に書いておくとよい。

 私の場合は野帳にメモのような感想を書くことにしている。かつては一字一句正確に書き写して引用していたが、いまは自分の言葉でまとめ直している。肝心の機微情報は削ぎ落とすことになるが、自分が感じ取ったことだけでも残せば意味があるのではないかと考えている。

言い当てる

 自分の中に可能性があるとしたらなまだ言語化できていないことに関心を持つことだと考えている。

 自分にはあふれる才能があるなどとは少しも考えていないが、それでもまだできることはあるのではないかなどとかなり楽観的になることもある。そのためには自分の未開拓の側面を知る必要がある。

 ここで言う知るとは言語化のことと考えておく。もっと深層で悟ることもあるかもしれないが、その方面は後まわししよう。自分にできることは何かを手持ちの言葉で探り出す。恐らくできないことに気づいてそれに振り回されるかもしれない。それでもしつこくできることを書き出してみたい。

 同じようなことを多くの人が述べている。私の言っていることはいわば当たり前のことだろう。でもそれを実践できるかどうかは個人差がある。多くの人ができない。それをあえてやってみたい。

葬儀は誰のため

 銃弾に斃れた安倍元首相が国葬されることになった。賛否は分かれる。否定的な意見がやや優勢だ。安倍氏がもし発言できるとしたら、自分の葬儀を国葬にしてほしいだろうか。私はよくわからないがおそらく断るのではないかと考えている。

 国葬は何のためにあるのか。国民が喪にふすためというならばこの行事はやらない方がいい。安倍氏の業績は大きいが、国民の大半には不利益しかもたらさらなかった。つまり、日本経済をその場限りの延命策で持ちこたえさせられたのは大きな功績だが、イノベーションもしばしば発言された女性の活躍も達成できなかった。

 国葬をやることに意味ないかといえば、私はなくはないと考える。これを口実にいろいろなことが始められるのはいいことだろう。統一教会などカルト宗教と政治の関係を見直す機会としてはいい。また安倍氏の死去にかこつけて日本に訪れる弔問使節を外交の相手として活用することは大切だ。

 議員を銃撃してはならない、政治は暴力によってはいけないというメッセージは出るのだろうか。狙撃手の家庭環境には大いに同情するものの、何があっても言論を暴力で消してはならない。それをすれば民主主義は終わるというメッセージはでるのだろうか。安倍氏の功績を評価する以前にこのメッセージを国民にしなければならないが、果たして行われるのか。はなはだ疑問だ。

 葬儀は死者を弔うための行事に見えて、実はまだ生きているものたちが自らの立場を確保したり有利に運びたいがゆえの闘争だ。つまり、棺桶の外側の問題なのである。日本がこの国葬を外交にいかに生かすのかが今後の課題なのであろう。

自画像

I’m here.

 自画像を残している画家は多い。中には群像の中に自分の姿を意図的に混入することもあるようだ。なぜ自画像を描くのだろうか。

 モデルが雇えないときの窮余の策として鏡に映った自分の姿を描くということはあったようだ。モデル料金もいらず、好きなポーズを好きな時間だけ取らせることができるのは自分自身だ。

 でも、十分な収入がある画家も自画像を残している。一種の自己顕示欲を満たすためなのだろうか。先に述べた他の目的の絵画に己の姿を描き込むのは、その意味もあるのかもしれない。それとともに、絵画の世界のリアリティの保証のために、自らの存在を追加したのかもしれない。絵はそれがどんなに精巧なものでもフィクションだ。それがリアルな世界と交流する手段として、自分を登場させたことになる。

 もしかしたら風景とともに自分を撮すセルフィにも同じ精神があるのかもしれない。どんなにきれいな風景でもデジタルに変換した時点でリアルではなくなる。電子信号の集合体に過ぎないのだ。そこにせめて自分の姿を加えることで、かろうじて現実味を残したいという気持ちが自撮りの要因の一つかもしれない。

介護職員の待遇改善は急務

お元気な方を支えたい

 高齢社会が進行する中で介護職の必要性はますます大きくなるばかりだ。ところが介護職員の不足は深刻て、介護する側も高齢者しかいないという状況にある。その原因の一つが介護職への社会的評価が低いことがある。

 高齢者の世話はかなり大変なことは間違いない。私も親の高齢者施設の訪問をして痛感している。人にもよるが幼児よりも手がかかり、しかも手強い。尊厳を保ちながらも、できないことは補わなくてはならない。

 かなりストレスのたまる仕事だ。心をつくして介護しても必ずしも理解されるとは限らない。逆に事実無根の非難がなされることもある。この人に虐待されましたと言われれば、職員の気持ちは折れてしまう。

 その悪循環が続けば介護職のメンタルも持たない。それほど大変な仕事なのだ。それなのに待遇が悪すぎるのはなんとかならないのか。日本人の給料が安いのはまず改善すべき課題だが、加えて職能による評価の再検討も必要だ。大学を出て標準的な能力を身につけることだけに好評価を与えてきた時代はそろそろ終わりにしていい。

 介護職は高度な経験と技能、さらにはメンタルの健全さも要求される。特殊能力が必要とされる仕事であることをもっと評価しなくてはならない。

なぜ風は吹くのか

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 小説などを読むとき、あらすじを大づかみにとらえて読むのは、一つの方法としてはいいと思う。ただ、単なる事実の因果関係だけを追っていても、作品の世界は理解できないこともある。

 例えば、ストーリーの途中に風が吹くという表現があるとする。風自体は登場人物になんらの作用も及ぼさない。その後の展開にも風が原因で起きることはないとする。こういうときになぜ風の描写があるのかを考えるのが読書の楽しみだろう。

 つまり、作家は何らかの意図をもって場面を設定するということだ。無意味な描写はその意味ではないことになる。なぜ天気が雨なのか、舞台はなぜ港町か、朝の場面がなぜ必要かなど考えてみるとより深い読みができる。もちろん、作家にインタビューでもしたら、気分でそうしたんだなどとはぐらかされるかもしれない。ならばその気分の内容を小説をとおして読者は考えるべきなのだろう。

 小説のあらすじを知ってすべてを理解したようにすること、ビデオを早送りして筋だけ確認する人など、こういう点も考慮してほしいと考える。

秋晴れ

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 久しぶりに良く晴れてさわやかな一日になりそうだ。このところ台風の影響で曇ったり急な雨が降ってばかりだったので、心を干したくなる。遠くから町の音が聞こえてくる。耳を澄ませている自分に気づくのである。

 明日からはまた忙しい毎日だ。今日はいつもと違う過ごし方をしてみたい。

台風の後

 今回の台風は基準ぎりぎりのものだったらしく、低気圧とほとんど変わらなかった。台風が運んでくる大量の湿気と一時的な気温上昇は季節を進める働きをするようだ。

 幸いなことに私の住居の付近では目立った被害はなかった。進路が被害を出す方向になかったからだ。風水害にあわれた皆さんには心よりお見舞い申し上げたい。

 台風にしても大雨にしてもリアルタイムの被害ばかりが注目されるが、本当に大変なのは過ぎ去ったあとなのだ。

萩

萩は秋を代表する花

 『万葉集』でもっとも多く詠み込まれている植物は桜ではない。桜は5番目であり、4番目は橘、3番目は松、2番目は梅、そして一番多いのは萩なのだ。もっとも万葉仮名では「芽子」などと表記され、これをハギと読むことにしている。

 ちなみに日本では「萩」といえば写真のようなマメ科の植物を指すが、本来古代中国の「萩」はヨモギ科の植物を指すらしい。秋の植物といえばハギということで「萩」がハギと読まれるようになったのだろう。その意味で「国字」として使われているということになる。

 萩が多く詠まれたのはこの植物がかなり古くから日本列島に自生していたことに加え、何らかの信仰的な要素があったからかもしれない。実りの秋に豊富な花をつけるこの植物に何らかの意味を感じたのかもしれない。やせた土地でも繁茂することに生命力を感じたのも知れない。

 このように秋の植物の主人公であった萩だが、若い人に道端に咲くこの花を指さし、その名を訪ねても答えられる人は少ない。文化の基本は自然との関係である。もっと関心を持ってもらってもいいのではないか。

 

彼岸花

 秋の彼岸であるがその名をもった鮮やかな花をつけている。隣家の狭い庭にもこの花が並んでいる。おそらく家主の趣味なのであろう。

 かつて俳句を習った先生がこの花は土の中の赤を吹き上げたものだと句にしていたのを思い出す。鮮やかで生命力を感じさせるのはこの花の力だろう。曼珠沙華ともいうらしい。ほかにも地獄花とか死人花とかいう不吉な別名もあるようだ。聖なるものは俗にも振れやすい。鮮やかな赤は生命力にも悪魔の色にも見えたはずなのだ。

 植物自体には何の功罪もないが、歴代のこれにどのような思いを重ねてきたのかを考えることには意味がある。