撫子

カワラナデシコ

 なでしこは万葉集でも詠まれている。大伴家持は恋人をこの花に例え、特に大切にしたようだ。

 日本人女性はこの花に例えられることが多い。ナデシコと呼ばれる花は幾つかある。日本の在来種はカワラナデシコとかヤマトナデシコとも呼ばれるもので、鮮やかなピンク色が印象的だ。白に近い花もある。細く分かれた繊細な花びらもいい。山野に自生するが、園芸店でも売っており、鉢植えする人も多い。先に述べた家持には自分の庭に播種したという歌があり、園芸の伝統は古い。

 万葉集の秋の七種にも詠みこまれている。伝統的な秋の花ということになる。繊細そうな花だが、意外に強い。また、完全な自然林には咲きにくく、里山のような環境の方が繁殖しやすい。そういうことも含めて日本女性に例えられているのだろうか。

差別のない国のはずだが

 多くの日本人は自分の国には差別問題はほとんどないと信じている。私もそうだった。もちろん地域的に差別問題が存在することは承知していた。しかし、それは限定的であり、時代の遺物としてやがて消えゆくものと根拠もなく考えていた。

 ところがどうもそうではないらしい。海外からの入国者に対してこの国は非常に深刻な差別をしている。海外からの就労者が低賃金で働いていることは以前から問題になっていた。不法就労も多いらしく、それを逃れるために日本語学校の生徒という立場で入国するらしいのだ。この日本語学校というのがどうも問題がある。

 九州の専門学校の報道は驚きだった。生徒に鎖をかけて拘束したという。いつの時代の話かと疑ったが、我が同胞が外国人にした仕打ちである。日本人は決して差別をしない民族などではない。残念なことだ。

 もちろんこの報道を全面的に信じる訳ではない。誇張もあるかもしれない。むしろそうであってほしいと願うばかりだ。ただ、不景気になって日本人でさえも貧困化が進行しつつある中で、より安価な労働者としてしか外国人を見ない傾向は今後強まる可能性もある。

 日本人は民度が高いとか、高潔とか言う前にこういう不正を糺さなくてはなるまい。これがごく一部の悪質な人の行為ならばいいが、もし他例もあるというならば猛反省する必要を感じる。いまでこそ先進国を気取っているが、今後日本人が海外で同じような目にあう可能性もある。せめて、我が国の態度を改めようではないか。

金木犀

金木犀

 芳香のする樹木として有名な金木犀は庭木としてもよく使われる。この写真は近隣の市の公園に植えられていたもので、かなりの群生になっていた。この花のことを知らない人がいい香りがすると呟くたびに、名前を教えたくなる。この楽しみも今の季節ならではだ。

最後の残暑

 今日も最高気温が30℃近くまで上がった。10月とは思えない暑さだった。予報では残暑の最後のピークは今日でこのあとは少しずつ平年並みとなり、水曜辺りからは肌寒い毎日となるそうだ。

 そうは言っても17時30分前に日没することは確実な季節の進行を実感させる。湧き上がる虫の音に秋の情緒が広がってくるのだ。半袖の生活もあとわずかだという覚悟がまだできないというのに。

 いろいろな秋のを経験してきたが、なぜかその経験は生かされることはない。見事に季節の情感に支配されて、どこかで味わったはずの感動に包まれる。今年もそうなるのだろう。

後押し

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 小学校や中学校の頃の記憶は実はかなり薄れている。自分が中学校の関係者であるにもかかわらず、自らの中学生活は印象が薄い。でも、今でも覚えているのは自分を後押ししてくれた仲間や教員だ。

 人間の記憶というものは残念ながらあてにならない。昨日の朝食のメニューを思い出せないのは決して脳に異常があるわけでない。覚える価値を見出さないものはすぐに忘れるし、忘れたくないこともいずれは消え去ってしまう。これは紙に書いてもビデオにとっても同じだ。記録してもその時の気持ちは消え、記録の読者にしかなれない。

 でも、自分のことを助けてくれたという記憶はなぜが残る。詳細は忘れてしまうが、深い情動というか気持ちの流れというものがいつまでも再現できることがある。私たちの記憶というのはそういうものなのかもしれない。

 教員などをすると、人のためになることをしたいという甘い夢を持つ。知識を授けることで進路を開拓できる力を授けることを目的にする。それも正しいが、勉強は結局は自力で行うものであり、どんなに名講義をする先生に習っても自分で学習しなければ分かったつもりにしかなれない。大事なのは何かに立ち向かうことを後押ししてくれる存在だ。教員でなくてもこれはできるが、教員はそれを職業的にやりやすい立場にある。さらに生徒の皆さんも受け入れやすい。道端の他人よりはアドバイスはしやすいという意味である。

 ならば私たちの仕事はやる気をおこし、困難に立ち向かう勇気を与えることや、失敗したときにそれでもいいのだと慰めることが第一だということになる。私自身、消えた小中学校の思い出の中で、自分を救ってくれた人たちのことは覚えている。中には名前を思い出せない友もいるが、確かに彼らのおかげで今の自分がある。

代弁者

Who is your leader?

 いわゆるオピニオンリーダーという存在が不在になっている今、それでも人は自分の代弁者を探そうとしている。それがどんなに怪しい存在でも自らが代弁者と認めれば、小異は省みられなくなる。これは少し危険だ。

 不安定で不透明な時代にあり、しかも閉塞感が漂う。自分の努力はなかなか報われず、あくせく考えるより、気の利いた発言ができる相手に同調してしまう。そういう状況にいまはある。本当にその人の発言は適切なのか。その発言の背景にあるものはなにかといった基礎的な手続きを飛ばし、巧言令色に飛びついてしまう。

 情報社会はこうしたまやかしを排除できるはずだった。適当な発言をしてもすぐに嘘が露呈するはずだ。しかし、実際はそうではない。情報の洪水の中で個々の見解を吟味することはなくなり、手っ取り早く理解できるコメントを信じ込んでしまう。

 こうした事態はかなり危険だ。心地よい表現はしばしば毒を含んでいる。その時は良くてもそれが蓄積すると社会悪に転じる。独裁者のような存在を生み出した時代はいつもそうだった。現代はそれに近いのかもしれない。

 不器用だが自分で考える人をもっと称えるべきだ。メディアで発言の多い人物の発言を疑うべきだろう。気の利いた発言を繰り返す人物はきっと何か裏がある。彼らは言論で商売しているタレントであることを忘れてはならないだろう。

ゆがんだ地図

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 メルカトル図法で描かれた地図は面積や方向が実際とは大きく異なる。グリーンランドはオーストラリアよりはるかに小さいし、南極は草むらのようにつながってはいない。何かを見るときに何を中心に考えるかによって全く異なって見えてしまうということを地図は教えてくれる。

 ロシアはウクライナの一部の州を住民投票の結果を生かして併合すると言っている。占領しておいてその地の住民に投票をさせるという似非民主主義はどう考えても通用しない。たとえば日本に某国が侵略して、この県の住民をあらかた追い出した後に、残った人たちに日本に残るか、それとも自分たちの仲間になるのかと聞いているという風に置き直してみるといい。

 こんな理不尽なことがまかり通るのはロシア、少なくともその為政者が持っている地図はゆがんでいるのだろう。本来ロシアの領土であるべき場所が、こころならずも他国によって支配されている。その不正をただすのだと。私たちの持っている地図とはかなり違う図法で描かれている地図を持っているようなのだ。

 これはこの地域の戦争のことだけではなく、人生の様々な方面で現れる。違う地図を持っている者同士が共存するにはどうすればいいのだろう。それを考えていくべきだ。もしかしたら相手の地図を非難するだけでは目的は達成できないのかもしれない。

集中できる場所

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 このブログの名前は架空の別荘にしかも書斎があるという想定でつけた。実際の住宅環境は恥ずかしくて言えない。読書するとき、何かを考えるとき、ものを書くときには集中できる場所がほしい。それが自宅にある人は幸せだ。そうではない場合どうすればいいのだろう。

 職場はいそがしく、しかも仕事の山で気が滅入るばかりで落ち着いて本も読めない。帰りのコーヒーショップなどで試みることもあるが、隣の客がおしゃべりだった場合は目的を達成できない。もっと強敵なのが無駄ににぎやかなBGMだ。こどもが多い店は対象外だ。こどもには高校生も含む。レンタルオフィスのようなところはいい。ただ、いちいち金がかかると気軽には使えない。

 図書館はあらゆる意味でいい。静かだし本もある。ただ、パソコンを開くのは気兼ねがするし、打鍵音も気にしてしまう。以前にも書いたスマホとBluetooth接続するキーボードは音がほとんどしないのでこれを使うことは多い。

 ただ、図書館も開館時間が短かったり、閲覧席がすぐにいっぱいになったりするので万能というわけではない。結果としてたどり着いたのが、駅の周辺のベンチである。人通りは多いが、立ち止まる人は少なくおしゃべりに邪魔されることは少ない。基本的にあまり座っている人はいないので座席確保は容易だ。屋根があるところでは全天候型となる。これは少ないが。そして、文字通りのラップトップにすればコンピュータも使える。机のある席が確保できれば、100円ショップで手に入れたスマホ立てと先の携帯キーボードの組み合わせで入力装置が完成する。

 というふうに最近は駅周辺のベンチやテラス席のようなところで隙間時間を過ごすことが増えている。真のノマドワーカーだ。しかも低予算型、低機能型の部類である。この方法を実践するために最も必要なコンピテンシーは「忍耐力」と「恥ずかしがらない力」だろう。

国内生産

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 身の回りにある衣料、電化製品などの多くは中国や東南アジアなどの工場で生産されていることは周知のとおりだ。かつては1ドルが75円くらいまで上がったために国内で製造しても採算が取れないというので海外に生産拠点を移したからだ。

 結果的にこの方法は国内のサプライチェーンを弱体化した。さらに様々な技術が海外に流出し、いまでは日本製以上の性能の製品が作られているものも多い。利益重視で動いてきた各企業と、それを監督できなかった政府や関係機関の失敗である。

 コロナウイルス流行で貿易不可能もしくは制限がされる状況となり、ウクライナの戦争で原料確保が難しい状況が生まれ、さらには歴史的な円安が進行する中で、改めて国内生産の意味が問い直されている。日本で作っても利益が上げられるかもしれないと考える企業が増えたようだ。

 エネルギー資源がない我が国にとって、円安の影響は大きい。単に日本で作ればよいということにはならない。ただ、生産拠点を日本に戻せばそれに関係する雇用は生まれる。農業資源なども国産に切り替える方法で新しい可能性が生まれるかもしれない。環境汚染などの問題にも直面することになるが、昭和のような惨状は再現されないはずだ。ものづくりの在り方が変わるかもしれない。

 おそらく、大量生産大量消費の方法ではなく、高品質長期使用、修理による継続使用のビジネスモデルが日本には向いている。ある程度、国内で循環させていけば為替相場のよくないときはそれで対応できるのではないか。さらに、かつての日本がそうであったように独自の進化がなされていけばかえって世界的に評価されるものもできるかもしれない。

すすき

 スマホの画面から目を離して車窓を見ると圧倒的なすすきの穂が広がっていた。今日も夏日になりそうだが秋の風景は確実に広がりつつある。