ハナミズキの実

赤い実

 よく通る道の街路樹が紅葉し始めた。赤い実をたくさんつけている。晩春初夏の頃、白や桃色の花で華やかだったハナミズキが結実したのだ。

 花とは色が違うが実もかなり人目を引きつける鮮やかさがある。この目立つ実は残念ながら食用にはならないようだ。ただし小鳥たちにとっては冬に向かう前の栄養源の一つらしい。味覚が違うのだろうか。

 ところで、私が見たハナミズキの実は今のところ鳥からはまったく見向きもされていない。ほぼ無傷で樹上にある。あるいはまだ熟していないのだろうか。やがて落葉して実だけが残るようになると、鳥がついばみ始める。その時を待っているのかもしれない。

十三夜

ビルの向こうの十三夜

 今日は旧暦の9月13日ということで後の月、十三夜である。古来、名月とされてきたがなぜ満月の前なのかよく分からない。

 古人の月見に由来すると言われるが、それ以前の要因もあるはずだ。栗名月、豆名月の別名があることが示すように、収穫感謝祭の一面があったはずだ。

 先月の十五夜はまだ暑い最中だったがさすがに今日は秋も深まった感がある。肌寒さを感じながら月を見上げることに、十三夜の趣きがある。

 今年は二つの名月を見ることができた。これをわずかな心の支えとしたい。

蜜柑色づく

 急に寒くなり、冷たい雨も降って驚く身体を如何に御していくか。大事な局面である。マスクを外していいと言われても、別のウイルスも心配になる。そんな微かな不安をしばし忘れさせてくれる風景に出会った。

 通勤途上の道に植えられている蜜柑の木に鈴生りに実っている蜜柑が色づき始めているのを見つけた。毎年なるのだが今年は特に豊作のようだ。誰の所有物なのか分からず、持ち主も摘果しないので大抵カラスたちのごちそうになるのだが、今年はカラスだけでは処理できないかもしれない。

 すぐ近くにゴミの集積所があるので、それこそカラスか何かがあさってこぼれた中に蜜柑の種があり、それが育ったのだというストーリーを考えてみた。やや無理があるけれども。

 この蜜柑の立っている位置は道路の建設予定地の近くであり、今後の運命は分からない。まだやったことはないが、一度くらい蜜柑泥棒をしてみようか。

13℃

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 今日の東京の最高気温は13℃だった。数日前まで29℃あったことを考えればすでに別の季節であることは確かだ。しかも今日は雨が降っていた。

 いいこともある。雨の中を大通りを歩いていたら、信号のない横断歩道で両側の車がすぐに止まってくれた。さすがに寒い中を歩く者を無視できなかったのであろう。運転するものに優しさを思い出させた冷たい雨であった。

 明日は小回復するとのこと。すでに夏の思い出は褪せ始めている。いまは先に進むしかあるまい。

筆記体

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 アメリカの若者は筆記体で書かれた文章を読むことができないという記事を読んだ。手書きの文字を書く機会が減った現代において、筆記体が衰退するのは当然の成り行きだ。私の知り合いの外国人も筆記体で文字書くのを見たことがない。ブロック体かその変形である。

 この現象に対してアメリカの一部の知識人は、過去の文献を直接読めなくなるのではないかと危惧の念を示している。歴史的な文化遺産を直接読み取ることができないのは文化的な損失が大きいというのである。一部の地域では学校教育のなかで筆記体の読み書きを復活することを検討しているという。

 これはよそ事ではない。日本語においても江戸時代以前の写本や版本を直接読むことはかなり難しい。私のような古典を学習したものでも江戸の版本までは何とか読めるが、写本となると怪しく、それ以前の時代のものになると字書なしでは読めない。読めるのは研究者に限られている。

 そんなに昔の本でなくとも、昭和の文章でも行書で書かれた文字が読めないという若者は増えている。草書はたしかに書道の心得がなければ読めないのは分かる。しかし、行書は読めるはずだと思うのは思い込みである。若い世代は活字(正確にはスクリーンに表示できる文字)を通して日本語を学ぶ。他人(同世代ではなく上の世代)の書いた手書きの文字を読む機会はほとんどない。だから、「令和」の「令」の字の最後の画が斜めになっているのと真直ぐなのは同じ文字なのかという疑問が生まれる。「葛」の字形もそうだ。英語より文字の種類が多い日本語において、過去の人が書いた文字が読めないという問題はより深刻であると考える。

 これに対しては、手書き文字の文化は切り捨てていいという考え方もできる。私はそうは思わないが、昔の人が書いた手紙や原稿を読むのは専門家だけだからそのほかの人は行書のようなくずした字は読めなくていいし、書かなくていいという考えだ。字が汚くて読めないという問題は、今後は誰もがコンピュータやスマートフォンで入力していくようになる。その中には音声入力もあるからもはや文字を書くことにこだわる必要はないというものである。

 一見未来志向で現実的な考え方と思われるのだが、いろいろな研究から手書きで文章を書く方がものを深く志向する際には効率がいいとされている。これからも「紙に」であるかどうかは怪しいが直に文字を書くことは当面続くはずだ。

 話は戻るが過去の人が書いた文字を読めなくなるということはやはり大きな損失である。その意味において、教育の場でもまた家庭の中でも手書きの文字を読み書きする機会をもっと増やしていった方がいいのではないか。デジタル化に反するようだが、教育効果や文化の継承という面を様々考えるとその方がいい。

Streak500

You are smart, unlike me.

 WordPressによれば今日で500日連続投稿だという。streak という表示が出る以前から続けているので実際はもう少し続いている。何ごとも長続きしない私にとって駄文の公開がこんなに続いているのは我ながら不思議だ。

 継続している理由の一つは、完成体を求めていないからだ。完璧に仕上げようと思えばそれなりに時間がかかるし公開するときに躊躇する。それがないのは無責任に書いているからである。

 さすがにねたに困ることもある。そういうときもとにかく残すことにしている。天候や思い出を書いている日は大抵ねたがなくなっているときだ。

 基本的な方針として書きたいことを書くことは続けたい。アクセス数アップにも憧れるがそのためにトレンドを探したり、検索対策をすることはやめておく。文章も常体のそっけない文体を続けることにする。その方が書きやすいし正直な気持ちになれる。

 アクセスの稼げるブログの書き方といった類の本やウェブの資料を読ませていただくと、私のスタイルはもっともよくないらしい。この指摘は間違っていないことは、WordPressのデータが証明してくれている。

 でも、やはり私にはこの書き方しかない。最近は年配者の戯言のようになっているが、それでいい。戯言を極めよう。願わくばスマホの字の小ささや、スワイプするときのミスタッチを克服し続けんことを。これが一番危なそうだ。

人間としての評価

魅力的な人間とは

 よく言われることだがいわゆる知能指数だけでは人間は計れない。学校の試験のような出題者が予め想定する解答がある問題ならば知能がものをいうが、答えのない問題に関してはそれだけでは対応できない。

 最近、学校に行く意味がないという人がいる。一斉教育をしている日本の学校は無意味だという。学力が高い生徒にとっては退屈な授業であり、低い生徒にも逆の意味で無意味だという。

 確かに従来の講義形式の授業であればわざわざ学校で自分にあっていない授業を受けるより、自分にあった問題集を解く方がよほど有益だ。しかし、この考え方は測定可能な学力だけしか考えていない。

 学びには、自己を制御したり、周囲と調和したりする行動も含まれる。自他を学びに向かわせ、利益を共有する力がいるのだ。これを身につけるのは集団の中に身を置く必要がある。

 学校は知識だけではなく、感情や協同の涵養の場にしなくてはならない。知識の伝達ではなく、伝達される知識に意味があり、それを活用するためには一人ではできないことをしなくてはならない、ということに気づかせること。それが学校の存在意義だろう。

 そのためにはまずテストの点数だけで生徒や学生を評価してはならない。もう少し広範の人間性を視野に入れるべきだ。

記憶の怪しさ

 有名なエピソードに「ショッピングモールの迷子」というものがあるらしい。これは人の記憶が如何に危ういものであるかを物語るものだ。

 成人の被験者に家族から聞いたエピソードとして4つの話を聞かせる。実はそのうちの一つのショッピングモールで迷子になったことがあるというのは実験者が勝手に加えたもので、事実ではない。ところが、4つのエピソードをすべて本当の思い出だと思い込んだ人が全体の4分の1に及んだという。

 記憶は過去だけではなく、現在や未来にも影響を及ぼす。記憶として残っていることが行動の規範になることもあるからだ。しかし、ショッピングモールで迷子になったことがない人が、その経験をもとに何を考えたり行動したりすることがあるということになる。この程度のことなら罪はないが、これをたくみに利用すれば他人の記憶を操作できることにもつながる。

 この実験が知られてから、裁判で過去の記憶を証拠として扱うことが慎重になったという。虚偽記憶とか過誤記憶などと分類される様になったのである。人の記憶はかくして曖昧で移ろいやすい。

 そうはいっても、私たちは記憶の中で生きている。もし、一切の記憶がなくなれば世の中は大変ワイルドになる。安心して歩くこともできない。記憶は私たちが生きる支えだ。

 ならば、この曖昧な世界をどう生きてゆけばいいのだろう。まずは自分の記憶を絶対的だと思わないことだ。他人の記憶も同じだ。その脆くも頼らざるを得ないものをなるべく出し合って、折り合いをつけていくしかないのだろう。これは人が生きることの基本なのかもしれない。

大気の入れ替わり

 気象学的には正しくないのかもしれないが、今日空気が入れ替わるようだ。正確には寒気が到来して、季節が進むのだという。

 この時期になると仕事は一段と忙しくなる。いろいろなことに結果が求められ、その多くは達成できずに悩むことになる。そして、それに妥協しながら冬を迎えていく。そういうことを何年も繰り返している。

 短期的には挫折の連続だが、中長期的には確実に何かを達成できているはずだ。そうでなければ今の自分はないはずなのに、つい今日の失敗ばかりが気になってしまう。

 季節が変わるのはあるいは大切なことなのかもしれない。時間の進行が意識できるし、確実に次の場面に進行したと自覚できる。うろたえることなく前を向くことにしよう。

明日から

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 天気予報によると明日の東京の予想最高気温が23℃、最低気温が16℃という。明後日は最高気温が16℃で最低気温は13℃というから驚きだ。気象庁のデータによると今日の最高気温は29.5℃だったというから、これからは下がる一方ということになる。明日は雨も降るらしい。

 天候が急変したときは体感温度は実際よりも激しく感じられる。明日はかなり寒く感じることになるだろう。汗ばんできていた上着が明日からは身を守る大切なものになる。個人的には暑さよりも寒さの方が性に合っている。しかし、それも程度がある。コロナ騒ぎの中では自由にすることもできない。換気を強制される中で寒さのあまり体調を崩した2年前のことを思い出さなくてはならない。

 季節が変われば感受性も変化していく。気づかなかったことを探し出すことができるかもしれない。