性能の定義

使いやすさを優先したい

 新しいコンピューターを買うとき、いわゆるスペックに拘るのがこれまでの私の考えだった。性能が上がればできることが増える。所有欲も満たす。しかし、そういう高機能は使わないことも多い。

 いま使っている家庭用のラップトップはかつてなら選ばなかったレベルのCPUなのだが、殆ど動画を扱わない私にとってはなんの不自由もない。すごく遅いというレビューは信憑性に欠ける。恐らく何をするかで必要な性能は変わるのだろう。浮いた値段で何か他のことをするほうが実りが多いはずだ。

 如何に使うかということが機器の性能以上に重要であることを確認しておきたい。こだわるべきこととして使いやすさという面を再認識したいということである。

そこに至るまで

 

今に至る道

ものごとの評価をする際についおかしてしまうのがいまあるのものの姿だけで判断するという誤りだ。なんでも簡単に手に入ると考えられる現代は物の価値が下がった。それとともに忘れてしまったことがある。

 目の前にあるモノやコトが今の形になるまでには様々な物語があったのだろう。試行錯誤の末にここにたどり着いたはずだ。中には身を削るような悲劇も含まれていたはずだが、大抵の場合、それは深層にあって見えない。その過程の一つ一つに関わった人への敬意が抜け落ちてしまっている。

 こうしたことに気づくためには歴史を学ぶ必要がある。人や国、地域に歴史があるようにものにも来歴がある。その想像ができてこそ、物事への敬意と、深い意味での批判が可能になるのだと思う。

名月

今夜は中秋の名月なのだそうだ。旧暦8月15日であり、今年は月齢も満月に当たる。関東の天気予報では観月可能とのことだがいかがだろうか。

 月を頼りに生活していた歴史のほうが遥かに長い。暦法が伝来してからも、月の満ち欠けのが頼りになっていたはずだ。閏月という誤差修整を認めていたのは、月齢こそが実感できるカレンダーであったからだ。

 月の顔を見るのは避けるべきだという古典作品もあるので夜空を見ることには複雑な感情があったのだろう。星空を歌う古歌は少なく、月も秋季に類型的に詠まれる。少なくとも観察の対象ではなかったようだ。

 名月には供物をする。収穫感謝祭だという説もあれば、先祖霊に対するものという人もいる。いずれにせよ自然科学的な関心ではないところに名月を感じる心の根があることは確かだ。

ムクゲ

ムクゲ

 夏から秋にかけての花木としてムクゲは存在感を示す。実は一つ一つの花は1日しか持たないというが、群生しているからかその印象はない。

 中国が原産地というが、大韓民国では国花として扱われ、日本でもかなり古くから鑑賞用に輸入されていたようだ。中世までは短い花の命を扱い兼ねていたようだが近世になると華道の花材として利用されるようになる。庭木としても好んで植えられるようになると、季節の花として定着した。

 猛暑が明けて漸く花を見る余裕ができたということなのだろう。気がつけばすすきの穂もたなびき始めている。

シナリオのネタ

いま考えている短い演劇のシナリオのことを書く。自分のためのメモだ。

作成中

 この舞台には何かが足りない。足りないことを積極的に利用者する。具体的には観客の想像力だ。ないものを勝手に想像してもらって完成させる。

 例えば大道具などが足りない。これは能舞台のような日本演劇の伝統があるから、客も受け入れる準備ができている。森の中に教室にも、戦場にも天国にもなる。何か象徴的なものを置くだけでいい。

 あるいは役者が足りない。本来配役すべき役者がいない。これは観客に感情移入してもらうことで見えない役者を作り出す。見えない、存在しないから、逆になんでもできる。

 こういうシナリオを書きたい。少しだけ構想はできている。本筋とそれに絡むサイドストーリーとの関係が未完成だ。少しずつ形にしていこう。

高温多湿

私には快適ですが

 台風の影響だったのかここ数日は気温湿度ともに高く寝苦しかった。かつてのような猛暑ではないが、異常な高湿が体感を悪くしたのだろう。

 体調に影響を与えるのはこうした高温多湿の状況のようだ。私の場合はさらに気圧の変化も関係して疲労感を高める。この認識のもとで振る舞うしかあるまい。

 気象ニュースによるとはるか南海上で台風の卵がいくつか発生しているという。心身ともに吹き飛ばされないように構えるしかあるまい。

ムサシノケヤキ

 近隣のショッピングモールに植えられているムサシノケヤキには繊細な美しさがある。紅葉まで楽しめる。

 ムサシノケヤキは欅の園芸品種らしくあまり枝が広がらない。街路樹などに利用されている。特筆すべきなのは葉の滑らかな感じと色彩だ。夜光を浴びると適度に透けて美しい。

 紅葉するとまた違う味わいになる。あっという間に落葉してしまうのが残念だ。

 ただの木なので多くの人は振り返らないが、私はこれからの季節の楽しみの一つとして心にかかっている。

残響

音のない音

 あるコンサートを聞いて気づいた。よく言われることだが演奏は音符のあるところだけで聞かせるのではない。むしろないところに表現が生まれることもあると。

 演奏中の休符はもちろんだが、演奏前や直後の残響に説得力のある表現がある。これは観客である私の思い込みなのかもしれない。それがもし演奏者が意図して仕掛けているのなら、私はその技法にまんまとやられていることになる。

 日常生活の中にもこれと同じような表現を感じることがある。何も話していないのにある種のメッセージが伝わる。この効果を見直したい。発言や動作だけが伝える方法ではない。

情報処理重視

考えるには時間がかかる
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 あまりに情報処理重視の教育に少し反旗を翻したくなる時がある。そんなに物を覚えて、すぐに忘れるような教育をなぜ続けるのか。先人の生み出した知識の価値をまるで大量生産された商品のように扱うことを良しとする考えがなぜまかり通るのか。わからないことだらけだ。

 もちろん、世界の情勢の変化が急であり、それについていくことが大事なのはわかる。でも、だからといって、何もかも情報の断片として等質化してとらえるのはいかがだろう。今の教育は考えることを軽視しすぎだ。効率的にやればいいという。PDCAサイクルを金科玉条のようにいう教育者は完全になにかに毒されている。知というものがあたかも効率的な作業の一つのように考えているのだ。彼らにはきっと新しい地平は見えない。

 私はもっと晦渋な局面を右往左往する時間があってもいいと考えている。その時間を子供たちから奪うことを良しとしない。効率的に学習することばかりを重視する教育を受けたものは、生産性という言葉を繰り返しながら、結局なにも生み出せまい。

 伝統的に人は多くの無駄を行い、その中で新しい局面を切り開いてきた。無駄がなければ新局面は見えない。それはAIのような効率性を第一に考えるものには見えない世界だ。教育現場にいられるのもあとわずかだから、この無駄に考える時間の大切さを訴え、ひそかに実践していこうと考えている。粛清される前に。