分岐

あれこれ考える

 マインドマップの作成アプリを試してみた。自己分析のツールとして、アイデア創出の手段として使われるものである。限りなく分岐していく図を見ると思うことが色々ある。

 考えが分岐するとはどういうことなのか。ある考え方の元に複数の可能性を考えることだ。正と負の関係もあれば並列の関係もある。並列といっても対等な枝分かれもある一方で、枝の太さが異なるものもある。不思議なことにその区別は無意識に行われる。

 脳内のイメージを樹形図に描くことはあくまで手段に過ぎない。実際はかなり複雑である。少なくとも二次元では表現し難い。だが、マインドマップを使うと分かったような気になれるのは確かた。言語化と図式化のもたらすものが大きいからだろう。三次元にすると複雑になり、明瞭さがなくなる。

 考えが分岐する原因は何かを考えることがある。なぜこうもああも考えるのだろう。考えることができるのだろう。その謎を考えることが人間のあり方を考察することに繋がるということなのだろう。

思っています

Think は結構強い意味がありそう

 最近よく聞く表現に「〜と思っています」というのがある。これは口癖になりやすいようで何度もくり返す人もいる。別に何の問題もないが、日本語のある側面を顕在化している。

 英語のI think that とどう違うのかは詳しい方に教えていただきたい。用例から察するに確証は足りないがそのように判断しているというときに使っている感がある。日本語の思うは確信や判断よりも感情的な印象が強い。そのように受け取ると気持ちが安定するといった意味がある。

 だから、「思っています」は自分の判断を他人に押しつけるのではなく、あくまで自分の見解は示すが、そう考えると自分としてはしっくりくるという感情の報告をしている。同意するかしないかは任せる、といった印象が強い。

 相手に自分の意見を強要しないのは日本語のコミュニケーションの底流にあり、そのために様々な朧化表現が生まれては消える、その流れにあるのではないだろうか。

述べて作らず

 

 述べて作らずというのは論語以来の中国の教えの一つである。事実を述べることはしても創作はしないという精神論だろう。果たしてこれは今どのようになっているのだろう。

 中国の古典文学、つまり漢文の世界では創作はあくまで二次的な行為であったようだ。漢文に史伝は多いが小説のような虚構の文学は少ない。寓話的な話はあっても現実の例え話として語られる。

 だから、漢文の世界では作り話は忌まれる。本当にあったこととして語られる。創作に対する評価が低かったのだ。これが中国文学に小説的の誕生を遅らせることに繋がっている。

 最近の中華ドラマや韓流ドラマの歴史をみるに史実との乖離が甚だしい。歴史はモチーフの一つにすぎず、いくらでも改変が可能だ。述べて作らずの伝統はどこにいったのだろう。対して日本歴史ドラマは史実との比較にうるさい。史実とは異なるというクレームを本気になって言う輩が一定数存在する。

 創作を嫌っていた儒教国と創作に熱心な日本の国民性との比較を私たちはしておくべきだろう。

文語になれる機会

うさぎは食べない  Photo by Leanu00e8 Jacobs on Pexels.com

 子供のころにテレビから時々流れてきた「誰か故郷を想わざる」という曲は印象的だった。なぜ「たれか」なのか、「ざる」とはなにかなどと少し疑問に思ったがそれ以上は考えずまねして歌ったこともある。今考えると文語を覚える機会は国語の時間だけではなかった。

 小学校でも文語を覚える機会はあった。音楽の時間には「故郷」や「早春賦」を習ったが今考えるとかなり難しい文語だ。「兎追ひしかの山」とあっても「ウサギ美味しかの山」ってなにか。そもそもウサギは食べられるのか。「かの山」とはどこにあるのか、どんな字を当てるのか、などと考えた。「春は名のみの風の寒さや」に至っては「なのみの」とは何かが分からず、「時にあらずと」もなんだかよく分からなかった。教師が説明してもピンとくることなく、ただメロディのままに歌うことに終始していた。そういえば「箱根の山は天下の嶮」はケンがなにか分からず歌っていた。「羊腸の小径」などわかるはずがない。

 それでも歌から覚えた文語はかなり多い。その当時は意味が全く分からず誤解をしていた。落語「千早振る」のようなこじつけも起きる。それでも文語の調べは身につき、意味が分かるようになるとさまざまな再発見がなされる。「げにいっこくもせんきんの」が「実に一刻も千金の」と分かったとき、まさに千金の価値を感じるのだ。

その意味で文語の歌を子供の時に聞いておくのは無意味ではないと思う。古典など学習するに値しないと豪語する自称知識人もいるが、自国の言葉の深みを捨ててしまうのは大きな財産を失うことにつながる。目先で日進月歩の技術のうわべだけ学んですぐに使い物にならなくなってしまうのとは異なる。古典の知識を身近に感じられるようにするためには文語の感覚は不可欠であり、そのためには知識がいる。それを身につけるのに文語の歌は役に立つと考える。

成長

 

育てるとは

 花を育てたり、動物を飼っている人はよく理解しているはずだが、成長の仕方には個体差がある。どれもが同じように育つのではない。人もそれと変わりない。

 育苗の例でいえば、揃わないものを間引くという作業がある。経験上、この時期までにこの段階に達しないものは結実しないといった知識がそうさせる。ただ、それは統計上の確率であって、実際の結果は誰にも分からない。

 人に対しては動植物ほどには露骨に差別はできない。でも、今の時期ならこのくらいできるのは当たり前だという考えが潜在している。できないことに苛立ち、ときに叱責する。でも、成長は個人差があるものなのだ。

 教育を生業にしている身としては至極当然のことであるのに、時々忘れてしまうことがある。だからときに花を見て思い出さなくてはならない。

暗唱

読む、覚える

平家物語の冒頭を覚えさせられた記憶は多くの人と共有するはずだ。意味は後まわしでとにかく声に出して言えることが求められた。これには実は一定の意味があった。

 中学生のときに例の祇園精舎の暗唱が課された。覚えたものを教員の前で言わなくてはならない。職員室の片隅で行った。他の教員の視線を時折感じながら盛者必衰の理を語ったのは思い出に残っている。

 高校では社会科の教員に藤村操の巌頭之感を暗唱することが課された。なぜ遺書を教材にするのかまったく理解不能だった。テストにも出た。教員の趣味が出ていたのだろう。

 文語を覚える機会は限られている。品詞ごとに文法を教える伝統的な方法は、古文や漢文訓読には不可欠だ。ただ意味もなく覚えろと言われてもなかなか頭に入らない。入ってもすぐ抜ける。なんからの別のアプローチがいる。その一つが文章の丸暗記だ。

 意味はあとからでいい。とにかく古文の調べを体感させること。それには暗唱は一定の効果がある。

漢字テスト

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 日本語にとって漢字の知識は不可欠だ。意味理解に漢字が果たしている役割は大きい。だから、低学年で漢字のテストがある。ただやりようによっては効果の違いが出るのかもしれない。

 範囲を決めた小テストでは短期的な記憶が活用される。これは若い世代は優れており、写真のように字を覚える。ただ、この記憶は長続きしない。満点を取った生徒が数週間後に同じ問題を出したとしても半分しか取れないということもある。

 文字の記憶も常に反復しなけれは定着しない。平仮名や片仮名は書く機会が多いから忘れないが例えば薔薇や憂鬱は滅多に書かないから忘れてしまう。

 忘れにくくするためには意味やなにか別のものとの関連づけが必要になる。それを同時に行っていくと少し忘却曲線がねばりを見せるはずだ。

 ならばその仕掛けを漢字テストの中に作っておくのがよいのではないか。

土筆

広い野原でなくても

 近くの駐車場脇に僅かな露面がある。1メートル四方にも満たない小さな面積なのだが、ここには毎年この時期に注目している。

 誰も顧みない空間だが、定期的に草刈りが行われているようで常に地面が見える。春になると雑草が芽生えるのだが、その中で印象的なのが土筆だ。他とは異なる色形は一目でそれとわかる。

 にもかかわらず、土筆を発見するのはいつもかなり伸びきった後であり、盛りを過ぎた感じだ。毎年これを繰り返している。同じ体験をするので、瞬時時間を遡ったかのような経験になる。

 よく見れば杉菜も繁殖を始めており、やはり強い生命力を持った植物であることが分かる。草刈りされてもまたこの時期には何事もなかったかのように土筆が並ぶ。

新人教員諸君

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 今年初めて教壇に立つ新人教員に申し上げたいことがある。私は何事も続かない不出来な人間だが何の因果か教員だけは続いている。男子校、女子高、共学校、中学、高校、短大、大学で教えたことがあるという変な教員だ。あなたの身近にいる先輩に比べると大したことはないが、年配者の戯言につきある勇気があれば以下の文章を読んでいただきたい。

 教員というのは基本的にはサービス業だ。ただ、お客様は神様ではない。後で神様になるかもしれない人材を育てる役割だ。この辺を間違っている先輩は多い。生徒や保護者の言いなりになっている。私はそれは違うと思う。基本的にずるい性格なので、それとわからないように小出しに、本人や親にあなたは神様ではないということを言っている。こういうことが堂々と言えるのは教員だけかもしれない。

 それでもサービス業である限り、自分が頂点であると決して思ってはいけない。あくまでも生徒やその保護者をレベルアップさせるための触媒の役割を果たすべきだ。私はこのことを悟るまでにかなり時間がかかった。教員はそこに喜びを見出すべきであり、安易な自己満足をするべきではない。

 今の日本の教育システムはご存じの通りかなりの矛盾をはらんでいる。多くの生徒を平均的に扱うことを前提としながら、個性の重視などと言われる。これは初歩的な矛盾だ。個性を重視するならば一律に生徒を扱うことは間違っているのかもしれない。私は矛盾の多い社会への適応の機会を与えるのが学校であり、その矛盾の権化が教員だと考えている。制服の着方、髪の色、言葉遣いなど個性を生かせば他人に合わせなくてもいいだろう。でも現状の日本社会ではそれではうまくいかない。国際社会においても決めるべき時に外してしまうと取り返しのつかないことになるようだ。

 自分と気のあう仲間だけで暮らせる世界があればいい。しかし、現実には正反対の価値観を持つ者たちとの共生を強いられるのが社会というものだ。国際社会ではその差異のぶれがとても大きくなる。それでもそこに対応する必要がある。自分が常識と思うもの、正義と信じるものが、他者にとっては非常識な悪徳であったりする。それを教えるのが、正確には体験させるのが学校だ。教員はその現場に常に立ち会う存在だ。

 教員は理想ばかり語るという批判は伝統的なものだ。自分はできないくせに理想ばかり言うのだ。それはかなり当たっている。でも諸君も躊躇なく理想を語るべきだ。今の時代、損得勘定なく理想を言える存在がどれだけいるだろう。教員はその意味では自信家であっていい。

 ただし、自分の理想が必ずしも世間の常識とあっているとは限らない。また間違っていることも多いと心得るべきだ。これは生徒にも伝えるべきことだが、教員に限らず誰のいうことでも正解ばかりだとは言えない。むしろ常に間違い続けていると言える。間違った時には素直に認め訂正すべきだ。それができるのも教員の特権である。

 教室を一人で任されるとつい自分がルールになりやすい。しかし、自分の存在は既述したとおり一個人の意見にすぎないことを忘れてはならない。自分とは違う立場の人間はいるし、その方がいいかもしれない。矛盾しているようだが、理想は語るべきだが、その理想は常に吟味すべきだ。そのためにも同僚とは常に意見交換をした方がいい。話が通じそうもない上司がいれば、積極的に接触すべきだ。異業種の人と話す機会があればもっといい。きっとあたらな価値観を教えてくれるはずだから。

 新人教員の皆さんには長く教員を続けてほしい。昨今は全く人気のない職種となってしまったが、これほど面白い仕事はない。職場環境の改善は少しずつ進むはずだ。あきらめずに続けていけば職員ではなく職人としての教員になれるかもしれない。私もそれを目指している。

教室に映写する教材は

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 勤務校ではここ数年、教室のデジタル化が進んでいる。すでに黒板はなく、ホワイトボードはプロジェクターから映写されるスクリーンにもなる。数年前とは雲泥の差だ。ただ、これまでやってきていくつかの注意点があることに気づいた。

 これまで黒板に書いてきたさまざまな情報、これを教員用語では板書というが、これをスライドであらかじめ作成することができる。よいことはあらかじめ仕込むことになるので、授業計画がより綿密に行えることだ。授業の展開を見越してスライドを作るからである。図解や写真なども簡単に行える。例えば夏目漱石の作品にはこのようなものがあって…などと説明するときはこれまでは副教材を開かせたり、プリントを作成して配布したりしていた。それがスライドでできるのだから、時間的にも資源の節約という観点からもいい。

 しかし、悪いこともある。私は縦書きの表示をする手前、パワーポイントなどのソフトを使ってスライドを作る。やったことがある方はわかると思うが、手書きよりはるかに多くの情報が入る。それは素晴らしいのだが、中等教育の現場においては詳細情報は選ぶ必要がある。なんでも載せていると生徒はそのどれが大切なのか分からず、ひたすら写そうとする。写さなくていいというと今度は注意力が散漫になる。電子教材ならでは問題点が発生してしまう。

 手書きのもっている微妙なニュアンスも電子化すると伝わりにくくなる。便利さと、教育効果は必ずしも相関しない。最近の研究によれば電子書籍よりも紙の本の方が、キーボードで入力するよりは手書きの方が学習効果が上がるという。長年人類が培ってきた学びの習慣はそう簡単に変えられるものではない。長谷川嘉哉「脳機能の低下を防ぐには「手書き」が有効だ」(東洋経済オンライン2019/11/19)

 教育現場においては単純にデジタル化をまんべんなく押し広げるのではなく、従来の紙の教科書、手書きノートの要素をうまく活用していくことが求められている。生徒にとってのインプットの局面では、核となる情報は紙面のテキストを使い、書き込みなどをさせて読みを教えるべきだろう。そのほかの補助的情報はデジタルで見せ、メモをとらせるのは最低限にすればいい。

 アウトプットにおいては手書きノートを充実させるべきだろう。板書の「写経」は最低限にして、自分の感想や疑問点を書かせる。また、授業後のまとめや感想を書くことを習慣化させるのがいい。あくまで手書きにこだわらせる。国語科である私にとってはここは譲れないところだ。一方で記号で答えられる小テストなどはGoogle Classroomにあるフォーム機能などを使って答えさせると即時に解答の傾向が分かり、指導の助けになる。添削を要する作文も時にはデジタル入力させると添削や返却が簡単になる。

 要するに、アナログとデジタルの使い分けが必要だということだ。世間的にはデジタル化の遅れが日本社会の停滞の主因だという論調が多いが、中等教育の現場においてはそれをそのまま適応してはいけない。