優先順位

 私の仕事の失敗の多くの原因は優先順位の把握の間違いによる。どんな仕事でもそうだと思うが私の場合、仕事の種類が多く、何から手をつけていいのか分からなくなりやすい。

 グーグルが提供するメールやカレンダー、タスク管理のサービスはよく使う。しかしこれもすべてが同じように記録されてしまうのでだんだんわからなくなる。保存性やリマインダーのあることなど捨てがたい機能があるのでまずはこれでいく。

 もう一つがいわゆるバレットジャーナルである。手書きのタスクリストや仕事メモを机上に置く。二度手間になるがこれくらいしないと私の場合はだめだ。最近気づいたが手書きメモはあまり画一的な書式にしない方がいい。平準化しないよう書き方に工夫する。これはリングノートなど開きっぱなしにできるものにする。

 基本的に自分を信用していないのでこれだけでは足りない。信用のおける同僚にやるべきことをつぶやく。別に覚えておいてほしいわけではない。他人に話すとそれなりの自覚が生まれる。運がよれけばリマインダーになってもらえる。

 こんなふうにしているのだが、それでもエラーがある。残念ながらこれは己の現実と認めるしかあるまい。

「る」「らる」

 古典文法を学ぶときいくつかの難所というべき項目がある。助動詞の用法の識別はその一つだろう。助動詞は日本語を日本語らしくする品詞の一つである。文の細かな意味や感覚を表現するのに助動詞が大きな役割を果たすからだ。現代語と比較しても古典の助動詞は種類が多く、なおかつ細かな使い分けがなされる。それを完全に習得することは難しい。

 国語の教員であれば助動詞についてある程度は説明できなくてはならない。でも、文法のテストに答える程度であればあまり難しく考えすぎない方がいい。また、古文の読解のときにも助動詞の用法を厳密に言い分ける必要はない。多くの場合、いくつかの用法の境界にあり、よりどの要素が強いかというくらいの違いである。

 今回は多義をもち、使用頻度の高い「る」「らる」について考える。

 「る」と「らる」は同じで、いずれも動詞の未然形に接続する。「る」「らる」の直前に「a」の音があれば「る」を使い、なければ「ら」を加えて「らる」とする。だから、「走る」に「る」「らる」をつけるときは「走ら(未然形)」に「る」をつけるし、「起きる」につけるときは「起き(未然形」には「ら」を挟んで「る」をつけて「起き・ら・る」となっている。「ら・る」を一語として考えたのが「らる」という助動詞だ。ちなみに、これは現代語の「れる」と「られる」にも共通するが、現代語では「られる」の「ら」を落としてしまう「ら抜き言葉」が普通に使われており、「見れる」「食べれる」に違和感を覚えない人の方が多くなっている。

 この「る」「らる」には4つの用法(これを文法の時間では「意味」ともいう)がある。思い出していただきたい。①自発、②可能、③受身、④尊敬の4つだ。受験生には「自可受尊(じかじゅそん)」とおぼえさせる。なんとなく語呂がいい。印象的な感想で根拠はないがこの順番で使用頻度が高いとも思うからこの暗記法は無意味ではないかもしれない。

 「自発」は<自然と~れる>と訳す用法で、例えば昔のアルバムを開いて、過去のおのれの姿を見たとき、思わず「なつかしいなあ、あの頃はよかったなあ」などと勝手に感情が湧き出すときのことをいう。文法用語ではこれをそっけなく「自発」という。意図しなくてもやってしまうことである。性格上、感情を表す動詞に付属して使われる。「思ふ」「しのぶ」「泣く」「笑ふ」などと組み合わされる。識別するときにもこれが指標となる。

 「可能」は<できる>の意味になる場合だ。ただし、平安時代までの用例のほとんどは打消しの言葉とともに使われるから、実際には「~れ(られ)・ず」の形で出ることが多い。打消「ず」は非常に不規則な活用をするし、打消の意味を持つ後には「じ」「まじ」などの助動詞や「で」という接続助詞もあるので戸惑うこともあるかもしれない。これは打消しとセットになって、自分ではどうしようもできない状況をいうときに使われていたのだろう。自発の逆に当たる。ただし、鎌倉時代以降は肯定文の例もある。

 「受身」は<される>と訳すもので、この助動詞の大切な役割の一つである。訳すときに「~に」という動作主が想定される場合に使われる。「起こさる」は「~に、起こされる」ということであり、この「~に」の意味が必要な場合が受身ということになる。古典ではこの動作主はたいてい生物であり、現代のように抽象的な語が主語になるもの、たとえば「ストレスに苦しめられる」のような例は少ない。動作主がほかでもない自分自身の感情にあるときには「自発」となるのだ。

 「尊敬」は<なさる>と訳すもので、主語が貴人である場合に使われる。おそらく自分とは距離を置いた存在が、自分の意志とは無関係にものごとをするという意味から自発的な意味合いもあり、その動作を直接的な作用を受けなくても影響があるという点で受身的な意味もあるといえる。

 4つの用法はつながっていて実は自分の意志や目的とは無関係に物事が進行するときに起きる感情を表現するときに使用されていたのではないか。実際の用法の中で様々な変化形が生まれ、多様に使われるようになっているのだ。最初にもふれたが文法的意味(つまり用法)はあくまで便宜的な分節に過ぎない。生徒諸君にもこの点を知っておいてもらった方が本当の古典が理解できるようになるのかもしれない。

口のある風景

 

歯を見せて笑いたい

 出勤途上、見慣れない風景に気づいた。マスクをしていない人が増えた気がするのだ。もっとも比較的空いた路上のことであり、電車内は相変わらずだ。顔の全面を見ること、とりわけ街の風景とともに見ることが稀になってしまったため、新鮮な感動を覚えた。

 無知を覚悟で言えば、マスク生活は目元への関心を高めたのではないかと思う。アイメイクの技術は格段に飛躍した。結果としてあまり大差のない美人が大量に生まれたように感じる。

 これも語弊を恐れず言えば、どんなに顔の上半分を飾っても不完全なままだ。やはり、鼻や口があって顔は完結するのだ。そして口のある。顔はやはり美しい。これは万人に向けていっている。モデルや俳優はもちろんだが、街を歩く普通の人でも同じだ。

 顔を隠す生活はいつまで続くのだろうか。防疫上不可欠なのは分かっている。ただ、精神衛生上の問題を考えるとこの異常事態からは早く脱する必要がある。

31日

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 8月31日は小学生にとっては特別な日だった。いまはどうかは知らない。宿題提出を明日に控えてまだやっていないものを親に叱られ、泣きべそをかく間もなくなんとか仕上げるように言われる。

 困るのは天気の記録をつける日記のたぐいだ。今はネットで調べれば天気や最高最低気温などの情報が即座に手に入る。余計なおせっかいとして新聞に夏休み期間の天気と温度のような「神」広告を出した企業があった。私はその時点で小学生ではなかったのでうらやましく思ったものだ。

 夏休みの宿題の山は自由課題だ。私の場合は工作をすることが多かった。低学年の時は水族館というおもちゃを作った。お菓子の紙箱のふたを切ってセロファンを貼り、なかに紙で作った魚や海藻を飾る。一回目は褒められたが、次の年も同じものを出したらこれ以外にしなさいと言われた覚えがある。高学年になると木工をやった。ところが31日の午後になってもできない。ある年、どういうわけが父が休みでそれなら手伝うと助け舟を出してくれた。父は比較的器用であり、凝り性なところもあった。

 虫かごやマガジンラックを作るのに明らかに小学生の能力以上のものを作ってしまう。それだけならばいいのに、なぜか金のラッカースプレーを吹き付けて完成とした。個人的にはなぜ金なのかは分からなかったし、やりすぎな気がした。それでもその父の作品を提出したことで叱られずに済んだ。その作品がどのような評価を受けたのかはなぜか記憶にない。

 8月31日になるとなぜか思い出すのだ。

進路予想

台風はどこから来るの?

 台風11号は西に向かっているが日本本土に接近した後の進路予想が難しいようだ。いろいろな予報が出ている。どうも予想しにくいようだ。

 数年前、日本の南海上を西進した台風が、ほぼ折返して東に戻ってきたことがある。こうした迷走が近年多いように感じる。おそらく、海水温の上昇などの影響があるのではないだろうか。

 この台風の関係か数日は涼しくなり、その後また残暑が戻るということだ。今朝は肌寒さを感じるほどだがしばらくは熱中症対策が要りそうだ。

思い込み

 

歴史上の人物の印象はある程度固定化されている。この人はこういう人物だというラベリングがなされている。その方が理解しやすいからだろう。真実とは違っていても。

 人生は多様で複雑であり、とても一言では言い表せない。でも複雑なものをそのまま把握することは難しいので、どうしても角を取る作業がいることになる。取られた部分は決して不要なものではない。あくまで単純化の過程で切り落とされるものなのだ。

 彼はこういう人物だったというとき、それはごく一部の側面を捉え拡大して述べているのだ。もし自分の獲得した人物評を熟慮する時間と能力とがあれば、思い込みに過ぎないのだと気づくはずなのだ。

 歴史上の人物だけではない。周囲の人への人物像もまた、多分に思い込みの産物であることをときに思いださなくてはならない。

秋の気配

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 残暑が厳しいのは変わらないが、それでも日暮れの街を歩くと、方々から虫の音が聞こえてくるのが秋を感じさせる。気が付けば8月も最後の日曜となり、来週からは新学期にもなる。

 時間の区切れというものはしょせん人為的なものであり、実際は不断の流れの一場面に過ぎない。それだと実感ができないので、いまは何時、季節はいつと命名しているだけだろう。いかなる分節をほどこすのか、そこにどのような意味づけをしていくのは文化による。極端に言えば個人の感性によるものともいえる。だから秋を悲愁の季節と考えるか豊穣の歓喜による季節とするのかは人間側の問題だ。

 食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋、芸術の秋、月見、紅葉狩りなどさまざまな秋の捉え方があるが、どれもいかに意味づけするかということになる。ならば、私は私なりに季節を捉えなおしてみようではないか。秋は衰退ではなく復活の季節ということにしたい。陽光は減り、気温は下がるのでマイナスのイメージを持ちやすいが、暑さの支配から逃れ、自分の行動が解放される季節として位置付けてみようと思う。

 こう考えると虫の音が頼もしく聞こえてくる。要するに気の持ちようなのだろう。

考え方を教える

これが理想ですが

 最近、教育の世界で繰り返されるは知識の単なる伝達では意味がない、教えるべきことは個々の情報ではなく、その扱い方だと。つまり、考えることそれ自体の方法を教えるべきだということだ。

 メタ学習の方法を教えることは実は簡単ではない。教員にとって最適な学習方法だと思っても、それがすべての人に適合するとは限らないからだ。できれば生徒一人ひとりの気質やコンピテンシーにあった方法を提案するのがいい。それがいまの教育システムでは難しい。

 難しいからやらないというといつまでも進まない。あえて完全な理想型は求めず、できることから始めたい。考えられるのは小テストなどで誤答の傾向を知り、それに応じたやり方を提案することだ。幸い答案の分析などはコンピューター解析ができようになりつつある。

 国語の教員なので古典の学習を例に取る。文法の問題を間違えることが多い生徒は、基本的な約束が曖昧な可能性がある。主語を判別できない生徒は、述語との対応を軽く見ている可能性がある。それをある程度指摘してそれに対処するための方法を示すことが大切だ。

 そこで私のような世代はプリント課題を与えて補講をしてと考えるのだが、そんな余裕は教員にはない。手持ちの問題集のどの部分を学べばいいのかを示し、それができたかを確認するだけでも効果があるのではないか。やり方は示すが、何をやるかは生徒に任せた方がいい。その方がお互い幸せだろう。

 この方法で大切なのは繰り返し行うことだ。それを行うことで次第に学習習慣はできていくのだろう。もちろん何を言っても無視されることもあるだろうが。

 そして、この方法の大前提として学ぶことは一本道ではないということを強調しておく必要はある。すぐに理解してしまうこともあれば、なかなかうまくいかないこともある。それは個性であり、持ち味でもある。速く点数が取れればいいというわけでもない。短期記憶の処理で終わってしまったり、その分野だけの知識として応用ができないのなら将来的な学習の意味は薄い。ゆっくりしっかり学んでいこうと繰り返したい。

 学び方を教えることは中等教育の教員の責務ではないか。新学期はこれをもう一度思い出したい。

さるすべり

百日紅

最近、よくサルスベリの花を見る。猿も滑ってしまうほどの幹の様子がその名の由来だという。夏から秋にかけて赤や紫の花が咲く。小さな小花が群生し、次々に開花することから百日紅とも呼ばれる。

サルスベリのことを意識するようになったのはここ数年のことだ。それまでは名前は知っていたし、図鑑の映像は見たことがあった。気づいてみるとあちこちに植えられていた。

赤や紫のあざやかないろあいは異国を感じさせる。

好きではないが

I don’t like it, but…

 好きではないがやらなくてはならないことがある。生きているからにはそんなことの連続だ。組織の一員の場合は、特にそういう機会が増える。やらねばならないことが、自らの価値観から遠いとき、いかに振る舞えばいいのだろう。

 倫理的な問題になる場合は、思い切って止めることを選択肢に入れるべきだ。組織から離れることも必要になる。生活がかかっている場合は容易ではないが。

 それほどはない場合、これが大半の事例だろう。その場合は調整するしかない。その手段としては相手を変えるか、自分を変えるか、その両方かだ。指示するものにそのやり方は間違っていると指摘して、納得してもらえばやらなくてもよくなるかもしれない。少なくとも何らかの改良がなされる可能性がある。だが、残念ながら相手が動かない場合は自分の方を変えるしかない。これは仕事だからとか、報酬を得ることが目的だからとか、こんなやり方は続くはずはないから、とりあえず乗ってみるとか、そういう言い訳を作るのだ。嬉しくないがこれがとりあえず取れる手だろう。

 理想的なのは相手の改良案を引き出し、それに自己参加の意識を持つことかもしれない。それであまり好きではないやり方でも自分の意見が反映されたと思える。モチベーションを保つにもよい。

 大切なのは大きな目的に反しないか吟味することだ。喫緊の課題には妥協してもその先の何かは譲らないという考え方が肝要ということになる。