古典教育に演劇を

古典劇ではありません

 漠然と考えていることを文字にしてみる。今日は(も)自分のための記事になる。

 古典文学を教えるとき、なぜ教える方は面白いと考えるのに習う方はつまらないと思うのだろうか。その一つの原因は作品の背景に関する知識の差にある。知識というと古典常識なるまた学習者を小馬鹿にしたような言い方が思い浮かぶ。常識と言い張る人ほど非常識なものだ。言いたいのは作品からイメージできる情報、情趣の差だ。これは古文を味わう上で大きく影響する。

 古典を読む際に単なる暗号解読にならないようにしなくてはならない。作品をわがこととして読めるように考えるべきだ。それには演劇的な手法も有効だ。推量の助動詞の使い分けをどれだけ実感を伴って行えるのか。それは古語を使って役を演じる中で獲得できる可能性がある。

 私はショートコントで古典を指導する方法を模索したい。できてきたらご紹介していこう。

別の道

行き方はいろいろ生き方もさまざま

 不景気になりつつあるだろうか。世情に寛容さが失われつつあるのを感じる。こんなことを書くと印象で判断するべきではない証拠を示せと言われそうだ。なんでも証拠がないと動かないのも今の風潮だと言える。

 山の登り方には何通りもあるように、何も最短ルートを行くのがよいとは限らない。危険だから全員迂回するようにというのも何か間違っている。極端な例だが、このように選択肢をある程度絞って、その中から選ばなくてはならないというのが現代の日常だ。

 それに息苦しさを感じると洒落ではないが生き苦しくなる。その人なりのやり方があっていい。それが一見非効率であったとしても。

 他人に迷惑をかけるのは論外だが、そうでないならば様々なやり方を認めてもよい。それが自分の特権としてあるだけではわがままに過ぎない。他人のやり方を寛容することに世の中を変える鍵があるのだろう。

後半戦の決意

かっこよく走る

 まず、定時退社を目指す。これは逃げではなく切り詰めである。少し前までは、頑張れば得られるものもあった。残念ながら最近は無理が効かない。だから何事も短期決戦だ。やれることを先にやり、それ以上は望まない。これが最近の最適解だ。悔しいが、粘りは効かない。

 年度の後半という意味において何をすべきか、そして何を止めるかを明らかにしたい。これはかなり切実な切り詰めでもあるが身のほどを考えた決断でもある。表現の方法は様々なあるものの要するに何をすればいいのかを納得するための自己啓発である。

 次に結果に関心を持つことだ。短時間勝負ならばその成果が問われる。この評価には耐えなくてはならない。何をやったのか、それが全体の何に寄与するのかは說明する必要がある。このあたりはシビアでありたい。

 長くやって得られることは多い。これまでのやり方はこれだ。失敗しながらも仕事を覚えていく方法だ。しかし、いまはその余裕が持てない。だから、今できる最大のパフォーマンスを目指すがそれ以上は求めない。そういうやり方を目指そうということだ。

 私にはコペルニクス的転回であるがこの歳になって貢献できることはやるべきことを余裕をもってこなすこと以外にない。

ハードな時代に備えて

岩間の花

 残念ながら日本の将来を悲観的に考える人は多い。これまで得意分野とされていた分野がふるわなくなり、結果として競争力が落ち込んでいる。高齢化や自然災害リスクなど不可避の負の要因が多数存在することも悲観論に拍車をかける。ハードな時代が来ることは避けられそうもない。

 不安な時代には想定外のことが起きやすい。犯罪の数が増えたり凶悪化する可能性がある。犯罪とまではいかなくても精神的な闇にとらわれる人が増えてくるのだろう。現在すでにその傾向を感じるが、より顕著になっていくはずだ。

 そのような時代を改善する方法はないのか。政治や経済に関する分野には叡智を期待したい。危機的状況にあるというコンセンサスは共有されつつある。立場がある人が決断を下しても非難されることは少ないだろう。非難されても国のためになると思うことは提案してほしいのだが。

 もう一つは心の安定をもたらす文化的な側面の発展だ。優しさや思いやりをテーマにしたものも、破れても立ち直るという打たれ強さを示すことも求められるかもしれない。押し付けでは意味がない。そういうものが必要となる時代を見据えて創作するアーティストが現れてほしい。

 難局を乗り越えられるかどうかは共同体の総合力が関係する。そういう時代に生きていることを自覚して自分のやれることを少しずつやっていくしかあるまい。

進化の不思議

 動物の進化という現象は実に不思議だ。環境に適合するために少しずつ身体の形を変えてゆくというのだが何ともしがたい。偶然形を変えたものが生き残って子孫を残したということなのだろう。

 人間が進化の最終形態のように考えるのは科学的ではない。わたしたちもまた日々形を変えており、未来の人類がいまと同じ姿をしている可能性は低い。それかどのようなものなのかは分からない。

 命というのが可変のものということはあらためて覚えておかねばならない。

かわいいは美しい

雀の子のねず鳴きするにをどり来る

 古典を教えてきて気づくことはいくらでもある。誰でも知っていることに「うつくし」という語の意味の変化がある。高校で学んだことを思い出していただきたい。

 『枕草子』に「うつくしきもの」という段がある。清少納言が自身の価値観でうつくしきものを列挙した章段である。そこにあるのは瓜に描いた子どもの顔、鳴き真似すると寄ってくる雀、這い這いしながら近づいてくる幼児が途中でゴミを見つけて大人に見せた姿、など子どもや小さなものへの愛情を示すものである。現代語ではかわいいというべきことばだ。

 古典語の美しいは「きよらなり」や「うるはし」が担当する。前者は清純のイメージがあるのに対し、後者は秀麗の感が強い。そしてどうも清らかさのほうが評価は上であったようだ。

これもよく言われることだが日本人は完成された美よりも未熟、未完成の状態の方を好むという。例えば日本でアイドルと呼ばれるジャンルで成功するためには理知的だと思われてはいけない。たとえ世情に通じていても、初心なふりを通す必要がある。海外の同様の立ち位置の存在には完成された歌唱やダンス、語学力が要求されているのと対照的だ。日本人ももっと歌やダンスを鍛えなくてはという人は多いがそのとおりにすれば少なくともアイドルではなくなる。場合によっては売れなくなってしまうかもしれない。

 かわいいは国際語になっているという人もいる。どこか子どものようなデザインはかえってユニークなのであり、そこに価値が生じている。もしかしたら「うつくしきもの」を嘉する考えが隠れているのかもしれない。

 高校野球がこれほど注目されるのも、宝塚歌劇団はプロの演劇集団なのに、俳優たちは生徒の意識があり卒業があるのも、こうした価値観に関係があるのかもしれない。

言い訳

 最近、このブログで誤字や脱字が増えている。今回はその言い訳をする。我ながらずうずうしい企画だ。

 誤字が増えた第一の原因は私の視力の低下にある。老眼が進んでしまったようでスマートフォンの文字がよく見えない。通勤電車の中で手短に入力する関係で見えなくても勘で決めてしまうことが多い。それが誤字の生まれる要因だ。

 まだある。いわゆる予測変換という便利な方法は時間短縮のためには役に立つ。ところが私のようなひねくれたことを書く者はコンピューター氏の予想を外れる語を使いがちだ。それをよく見ずに確定すると見事に変な日本語になる。

 まだある。私の注意力低下という如何ともし難い現象だ。これが根源にありそうだ。残念だが認めざるを得ない。

 私のできることは、気がついたときに直すことだけだ。時々過去の記事を読み直し、誤字や文意不通の箇所を書き直している。だから私のブログは過去記事が平気で変わっている。その方が誠実だろうから。というのが私の言い訳である。

森英恵さん逝く

 日本の代表的なファッションデザイナーの森英恵さんが逝去されたというニュースがながれた。ファッションにはあまり興味はないがそれでもハナエモリブランドは知っている。蝶のデザインの模様は印象的だった。偉大な先人の功績を讃えたい。

 実はわたしにとって森英恵のブランドは、表参道にショップができたことが縁の始まりだった。といっても小学生にとってはやたらと入りにくい服屋で値段が高すぎるのでいつも外からみるばかりだった。もっとも当時の表参道には海外のブランドショップが並んでいていたために、その中では親しみを持てるものであったと記憶している。

 新聞記事によれば、森英恵氏がデザイナーになったきっかけは海外で日本の衣服が安価な量販品として扱われていたのをみて心を痛めたことにあるという。すこし前の我が国が中国や東南アジアの製品を見下していたのと同じだ。日本製品に付加価値をもたらしたのはデザインであったという。

 印象的な蝶の模様もオペラの蝶々夫人に代表される可憐だが運命に逆らえない弱い存在からの脱却を秘めるものであったかもしれない。日本の伝統美が現代にも通用することを示してくれた。後進のデザイナーの目標にもなっていたと考える。

 価値を創出する人がこれからの時代にはとても大切になってくる。服飾品デザインはその象徴であるが、それ以外でもさまざま場面でデザインは大切になってくるのだろう。

暑さ続き

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もう何日か分からなくなってしまったが暑い日々が続いている。このような夏休みはかってあっただろうか、子どもの頃は真夏日が非常事態のようなあつかいだったように記憶している。

 こういう記憶というのは時間とともに誇張されていくものだからあてにはならないが少なくとも32℃はこの世の異変と感じていた。それが最近は普通になっている。

 猛暑の冬は大雪になるなどと言われるが果たして最近も通用する話なのだろうか。気象の常識は通用しないように思えてくる。