
昨日は雨にみぞれが混じった。凍える寒さだったといえる。だが、今朝近隣のソメイヨシノが開花していることに気づいた。すでに二分咲きといったところか。まったく感覚的なものだから正確には分からない。
開き出すとすぐ満開まで一直線になるのがこの花の特徴だ。今年も今月中に満開を迎えてしまうのだろう。せめて入学式の日まではもってほしいと願うばかりだ。
今年も紀友則の思いを共有することになる。
日々の思いを言葉にして

暑さ寒さも彼岸までというが、中日も過ぎたのに今日は寒さが戻ってきた。最高気温が10℃に達するか否かということらしい。最近、温かい日が続いていただけに体感気温はもっと低い。
東京電力によると今日の電力供給には不安があるという。先の東北地方の地震で停止している発電所があるのが要因だという。電気がなくては成り立たないデジタル時代のまさにアキレス腱だ。
原子力発電に傾注できない国情ゆえに、自然エネルギーの技術開発が急務だ。さらに省電力装置の普及もやるべきだろう。我が家でできることは待機電力のカットくらいしかない。微かというよりほとんど無に等しいが使わない家電のコンセントを外すことから始めよう。

春分の日である。日本にとっての春分点通過が3月21日0時33分だったので、21日になったということだ。昼夜の時間がほぼ等しくなり、これからは昼の方が長くなっていく。この天体現象に古人はさまざまな思いを託してきたようだ。
彼岸の中日としても知られている。彼岸は仏教的には悟りを得た後にたどり着く境地のようなものを指すらしく、いわゆる涅槃のことを指すと考えられる。このあたり諸説あるらしく、様々な説明がなされている。
日本ではこの彼岸の考えを春分や秋分に太陽が真西に沈むことと重ね合わせる伝統があった。太陽信仰は古事記における天岩戸伝説にもほの見えるし、様々な古代の伝承に太陽神の伝統が見えるという(洪聖牧「太陽神論」)。さらにはこの時期には祖先との精神的連携が可能になるなるとして墓参りの習慣などがある。彼岸が祖先とのつながりを持つ過程にも様々な考察がある。(「中村牧子「祖先崇拝と天皇信仰」)。
太陽が真西に沈むとことが西方浄土の信仰とつながったことが彼岸信仰の始めといわれる。もしかしたら仏教伝来以前から素朴に持ち続けてきた日の出、日の入りの場所が年間を通して周期的に移動する不思議さがその下地にあったのではないか。
さて私たちは太陽や月、星をどれほど見ているのだろうか。天文学や気象関係者が周期的にメディアに発信する記号、数字としてしか知覚していないのではないだろうか。春分の意味を考えることは、人と自然とのつながりの希薄化を見直すことにつながる気がする。

古典文学の入門者への教え方を模索している。結果として伝統的な方法がよいのではないかということに至った。
まずは古典文学を身近に感じることができることが肝要である。文語調の文章や漢文訓読に接する機会が激減している中で、まずは多くの文章に触れる必要がある。
角川文庫のビギナーズ・クラシックスなどを読ませるのが手っ取り早い。だが、読書自体があまり行われていない中で、読んでおけは読まないというのと同じだ。そこで、15分程度で読みと解説を完結する年間を通してのの取り組みが必要だろう。文法事項はこの時間帯には最小限に止める。やることはひたすら音読もしくは筆写である。意味は後回し。耳と手で覚える。
とにかく古典に親しむという戦略だ。この時代にいまさら古典などということなかれ。日本文化や中韓の文化を知っていることがこの先いかに役立つかはすぐに答えがでるはずだ。

世間には一見正義に見えながら、実は多大な損害をもたらすことはいくらでもある。そもそも幸福の追求を善として発展してきた近代社会がさまざまな問題を発生している。環境問題はそのもっとも顕在化したものだ。それだけではない。私たちは「正しいけれど間違っている」という事実を見つけ、再考する必要がある。
ただその逆もあるのではないか。一見間違っているかのように見えて、実は多くの利益をもたらし、人々を幸福に導くというものもあるかもしれない。これまでの考えでは不正解とされてきたものが、実は改善策であったということもあるはずなのだ。こうした現状の打開には、多くの失敗がつきものだが、それを許容する考え方が必要なのだろう。間違いだ、非効率だ、生産性が低いなどと即断せずに、可能性のあるものは追求するという余裕がいる。結果としてやはりだめということも想定しつつも、やってみることに意味があるのではないか。
教員としてこの件に寄与できるとしたら、生徒の失敗を失敗と決めつけないことだろう。教えるのは現今の多数派の意見に過ぎない。最適解は実は別のところにあり、まだ発見されていないだけなのかもしれないという考え方を持ち続けることが必要であると感じている。
それをどのように現場で実現するのか。それを考えていきたい。限られた時間内で情報伝達をし、それが確実に行われたのかをテストによって確認するというシステムの中ではなかなか難しい。それを止めることは間違いだろう。知識伝達は最低限の責務だ。その上をいく方法を模索していく必要を感じている。いつの発達段階から可能なのかは考察する必要があるが、現状の知識の伝達と、未来の可能性という局面の違いを生徒にも明確に意識させ、個別の評価方法を考える必要がある。

授業ノートを書かせる方法をいろいろと考えてきたが、最近思うのは受け取ったことを言語化する過程が重要だということだ。数年前からは「復習コラム」を書くことを指示してきたが、あまり効果に自信がなかったため控えめに行ってきた。最近様々な知見に接してどうも効果はありそうだと考えるに至り、新年度からはもっと積極的に打ち出していこうと考えた。
授業のノートをとらせると板書したことをただ写すだけで、そこにはつながりがない。短文の羅列であり、単語しかないこともある。それでは理解は深まらない。ノートの意味はほとんどない。
大切なのはノートを思考の後を残すものとして活用させることだろう。どのように問題点を見つけ、どのように考え、結論を出すに至ったのかを可視化することがその役割なのだ。国語の授業はそれを行うことを中心にするべきだという考えに至った。特に中等教育ではやるべきだ。
そのためには授業の最後に振り返りの時間を設け、今日の授業の要点を短文でまとめさせるのがいい。いろいろな話題があったが、その中で一番大切なのはなんであったのかをまとめるのだ。国語の場合はそれを2、3行の文でまとめさせたい。さらに余裕があれば、感想を付け足すことを求める。それは、疑問点や批判的な内容であればなおさら良い。自分で考えたことの足跡を残すのだ。書いた部分の周囲を囲み、「復習コラム」と私は名づけることにした。
これを国語だけではなくすべての教科でできれば、確実に理解度は上がるに違いない。多くのビジネス書のノート術と称するものを読むと、このまとめにあたる部分、つまり講師の話を受け身でとらえた部分以外の、より自発的なものを書く行為が成功の要因であるという。これを中高生時代からやらせれば、将来の有望人材を育成できるのではないだろうか。

これまでも何度か話題にしてきたが、読解力の低下にいかに対処するのかは大きな課題の一つである。かくいう私もこの力が漸減しているのを感じている。社会的要因があると考える。
私個人の問題としてはもちろん老化といった身体的要因がまずある。残念なことだが短期長期の記憶力の低下は大きな影響がある。それよりも実は深刻なのが真剣にテキストに向き合う機会が減っていることではないだろうか。
日々の生活の中で読解力の有無が致命的な影響を及ぼす機会は減っている。これを読まなかったために大きな損失を被ったという実感を得る機会が少ない。もちろん本当はかなり死活的問題をもたらしているはずだ。それに気づかない。
現代社会は説明過剰である。効率的なやり方が予め示される。だから自分で状況判断して最適解を模索するという機会が少ない。なくても十分なのだ。これは便利で一見優しい仕組みだが、読解力の養成には向いていない。
真剣に文章を読む機会がないのなら、意図的に作るしかあるまい。それが現代国語教育の役割の一つだ。こういうと契約書の読み方を教えるといった実用文を扱えはいいという話になる。しかし、実用文はもともと分かりやすく書かれており、最終目標にすべきものではない。
様々な話題、筆者の評論文や、文学作品、古典文学などを学ぶのは死活的な状況で読む読解力の養成に相応しい。内容から学ぶ叡智はさることながら、難解な文に向き合い読み通すことが大切なのだ。

まったく下手なのだが絵を描くことには興味がある。人の顔を描いていて思うのが僅かな違いで印象が激変するということだ。
顔を描いているとき、ほんの少しの線の有無で雰囲気がかなり変わってしまうことに気づく。だから絵を描くときこれがどのような効果をもたらすのかを常に考えている。
絵ではなく実際の顔認識ではどうなのだろう。誰かを誰かに似ているという話を聞くとき、納得するときと疑問を感じるときとがある。顔の印象を決定づける要素が人によって異なるのではないか。先の絵の話で言えばどの線を描いてその人らしさを捉えるのかが人によって違う可能性がある。
写真から似顔絵風のイメージを生成するアプリがある。やってみると同意できないことが多い。我々の視覚はかなり主観的なもののようだ。