投稿者: Mitsuhiro

形から変えてみる

 形から変えてみることも大事です。膠着状態を破るきっかけの一つにはなります。

 現状の打破がなかなかできないときには内容よりも外見を変えてみるという手もあるのではないでしょうか。外見が変わればそれに伴う環境に多少の変化をもたらすことができます。付け焼き刃でもしばらくは効果があります。そのうちに中身が追いついてくるかもしれない。それを待てばいいのでしょう。

 長らく使った衣装を着替えることは勇気が要ります。これまで培ったイメージを捨てることになるかもしれない。それでも次の段階を目指すためには、場合によっては評価を一変させる手段が必要になるのです。

出力しやすく

 素晴らしいアイディアは天災によって偶然生まれる。確かにそうかもしれません。歴史的がそれを証明するという人もいます。ただ、それだけではないのではないでしょうか。

 何かが生み出されるとき、結局残らなかった失敗作が大量に作られています。その中でとびぬけた何かが含まれるものが画期的な作品になるのです。ということはブレークスルーを生み出すには作品を生み出しやすい環境を作り、多くの駄作を生み出す環境が必要だということになります。たくさんの失敗を許す寛容性が与えられなければ革新的な何かは生まれないのです。

 私たちができることは何か。まずは失敗を恐れずになにかを作り続けることです。もちろん素晴らしい成果を期待して作るのですが、結果的に失敗しても仕方がないと割り切れる気持ちが必要です。次に作品を作ってみようという環境をつくることです。成功しか許さないという雰囲気の中では挑戦者は減ってしまう。厳しすぎる環境下では完全に委縮してしまって何もできなくなります。また、作品そのものへの評価も大切ですが、それに至るまでの行動や方法論などへの評価もなされるべきです。結果だけがすべてではないと考える風潮も大切です。

 失敗の中から素晴らしい成功作品が生まれるためにはたくさんの出力があり、それを支える環境が必要だと考えます。

文化

 文化の日が単なる祝日になってしまっているのは文化が何であるのかが分からなくっているのに原因があります。文化という言葉自体に多義性があり、懐の深い概念であるからかもしれません。

 昨日終わったラグビーワールドカップ日本大会ではラグビーというスポーツ種目を通して文化を考えることができました。スポーツとして勝敗を決するためのテクニックやスキル、さらには戦術にもチームごとの文化のようなものがあるようです。そのチームごとに培われてきた伝統のようなものが動きのなかに反映されています。

 国別の対抗と言いながら選手は多国籍であり、同じチームの中でさまざまな背景をもった選手がいます。今年の日本代表にもニュージーランドや南アフリカ、サモア、韓国などに国籍があったり、ルーツをもっている選手がいました。文化は国境を越えて形成されることがある。グローバル文化のようなものの可能性を見ることができました。

 伝統的な地縁による文化と、現在進行中の同じ目的をもつ者が形成する新しい文化のありかたとをどのように扱っていくのかは今後の大きな問題になります。理想的には両者のいいところを取るべきだと思うのですが、そう簡単にはいかない。昨今の政治的な自国自民族優先主義の流れの中で、文化の扱いはますます深刻な問題になると感じるのです。

ビデオ授業の幻想

 教え方がうまい講師の授業を聴くと能力が上がるといわれます。果たしてそうなのでしょうか。何かおかしくないでしょうか。

 いわゆるカリスマ教師の授業をネットを通じて動画で受講するというスタイルは今日一般的になっています。ネットにつながったディスプレイのある個室を用意して各々視聴させるというスタイルの学習塾もあります。また、家庭でもみることができる授業サイトが有料無料の色々なスタイルで提供されています。

 視聴した生徒は学校の先生より分かりやすいなどという感想を持ちます。恐らく教えることに専念できる動画先生の授業の質は高いのでしょう。私もいくつかの動画を見ましたが、確かに分かりやすい。

 ただ、それが成績に結びつくのかというとそうでもなさそうです。ビデオ授業の効果が実証されているならばもっと劇的な変化が起きてもよさそうなのにそれはありません。数ある教育手段の一つの選択肢なのです。

 恐らくいかなるカリスマ教師が授業を行おうとも一方的なメッセージに過ぎないことが問題なのでしょう。そしてさらなる問題は授業空間に一人の人間しか存在しないことがあると考えます。私たちの学習意欲は集団の中で発動するのではないでしょうか。

 ビデオでいい授業をみれば学校は要らないという極論はごく一部の人だけに当てはまるのです。

英語の外部検定

 萩生田文科相の不適切発言が決め手になったのか大学入試における外部委託制度の適用が延期になりそうです。

英検やTOEFL、GTECなどの英語能力の民間検定試験を入試に組み込もうという動きは、来年度から始まる新しい入学試験の改革の目玉でした。話す、聞くといった要素の測定が従来の試験では不十分だという反省に基づいています。

 ただ、企業としての民間検定試験機関に大学入試の一端を任せるのには大きな問題があります。決して安くはない検定料の問題、試験会場が大都市にしかないというもっと大きな問題があります。試験を受けるために会場のある都市まで移動し、場合によっては宿泊して、試験料を払う。それだけの余裕がなければ成らないことになります。

 東大を始めとする多くの国立大学がこの試験に求める水準は実はそれほど高くはありません。決め手にならない外部委託試験に高い費用をかけることも大きな問題でした。英語の4技能を高めるという理想と運用に関する問題が埋められていないのです。

 身の丈に併せて進路を選べと解釈される大臣の発言は教育界ではもっともなされてはならないものです。

カボチャたちの素顔

 ハロウィーンは日本ではその意味も理解されることなく、商業利用や個人的な遊興として受容されています。ただその奥には切なる願いがあるのかもしれません。

 仮装を行う年中行事は京都の節分お化けが知られています。地域では悪鬼の厄を逃れるために敢えて普段とは異なる姿になると伝えているようです。祭の時に晴れの衣装を着用し日常とは異なる振る舞いをするのも広く考えれば一種の仮装行事といえます。異装には厄除けの意味があるといえます。

 現代人にとってはさらに意味があるように感じます。いわゆる変身願望の代償行為です。自由平等の建前の現代社会の内実には格差と分断が進行しています。越えられない何かが巧妙に姿を隠しながら確かに私たちに影響を与えている。それに抵抗するのが外見上の意図的変更なのではないでしょうか。

 もちろんハレの日は常に祭とともに去ってしまう。翌日には厳然たるケの日の秩序が現れます。その中を生きぬくためのささやかな抵抗が仮装という形で表現されるのです。この仮説が正しいならばおどけたカボチャたちの内側には切実な思いがあることになります。

気力は体力?

 気力は体力なのかと思うことがあります。何ごともやる気が大切だとはよくいわれることです。でもどうしても内側からわき出すものが出てこないという場合もあります。

 心と体というふうに二元論で考えると身体的疲労と精神活動は別物であり、独立して動くものとなります。どんなに身体がくたびれていても、心は研ぎ澄まされているといった話はあるし、それに近い経験をしたこともあります。

 ただ、疲労感が強すぎると何かを始めるのが億劫となり、動けなくなってしまう。身体と心は一続きであり、別の機関で身体を制御しているのではないと感じるのです。気力は体力の裏付けがあって機能するのです。

 やる気を損失している人には、まずはフィジカルの回復を優先させ、しかるべきのちにメンタルケアに入るべきなのです。

相次ぐ閉店

近隣に大型ショッピングモールがまもなく開業します。人口の割には買い物が不便な地域であったのが一挙に解消される予定です。一方でこのことろある種の店舗の相次ぐ閉店という現象が起きています。

 閉店しているのはコンビニエンスストア、ガソリンスタンド、ビデオレンタル店、それにデパートなどです。ここ数か月の間に急になくなってしまいました。この先に閉店することを告知している店もあります。その中には次のオーナーが決まって別店舗として再開することが決まっている所もありますが、放置されていたり、取り壊されて更地になったことろもあります。

 今後の経済を象徴するかのような縮小現象を目の当たりにすると、大型ショッピングモール開業に浮かれることができないのです。生活の細部を支えてくれた近所の店は消え、少し遠い大型資本の企業が総取りする。どこかで読んだような事態が身近で起きているのです。

 最終的にはあるもので間に合わせるしかありません。消えていくものを惜しむことはできても止めることは難しい。ただ、本当に必要なもの、いい仕事をしているものについては支援をしなければなりません。売っている商品がコモディティ化しても店の立地や雰囲気などは置換できないのです。

 本当に必要なものを必要な店から買うことが私たちにとっては最終的な利益につながることを考えなくてはなりません。

カラーマスク

色つきのマスクはすっかり市民権を得たようです。薄いピンクや水色だけでなく黒や茶色、なかには水玉などの模様がついたものも見かけるようになりました。

 花粉症対策で急速に広まったマスクは、子どもの頃は重傷の風邪でなければつけることはありませんでした。マスクをつけるという行為自体が深刻な感染症を想起させるものだったのです。それが予防対策として推奨されたのをきっかけとして健康な人でもつけるようになりました。春先は先述した花粉症への配慮で街中にあふれる光景が見られます。

 白いマスクの持つ病気のイメージを軽減するのが色つきのデザインでした。確かに女性のつけるピンク色のマスクは優しさも演出できます。服の色と合わせるようになるともはやファッションアイテムとなっています。記憶では黒いマスクを普及させたのはファッションデザイナーでした。

 マスクには自分の存在を隠したいという願望が内包されることがあります。自信がないときにマスクを着けて自分の状態の発信源である顔の面積を減らすのです。また、マスクをつけると多くの人はマスクの印象を中心にするため個人への注目が薄れるという現象があります。派手なマスクを着けるのは、人々の注目をマスクへの注視によって減少させることを狙っているのかもしれません。

 恐らく10年前には見られなかった色とりどりのマスクです。この先またどのようなものが生まれてくるのかと考えると楽しみでもあります。いやマスクなどつけなくてもいい環境を作ることの方が大切なのですが。

建物の寿命

 まもなく開業する南町田グランベリーパークの前進グランベリーモールは20年に満たない期間で取り壊されました。耐用年数は建て方によって異なるとはいえ、意外にも短い建物の寿命を感じさせます。

 かつて人類が急に消滅したらどうなるのかというSF映画がありました。荒唐無稽の設定ながら環境破壊に対する問題提起がなぜか印象的でした。この作品に関連して人類消滅後の地球の変化のシナリオを特集する番組がいくつか作られました。それによると人間が造り出したものの多くは意外にも早く地上からなくなってしまうらしいです。

 コンクリート製の建造物の多くはメンテナンスがなされなくなると崩壊してしまう。ビルや橋脚などはある日突然瓦解してしまうそうなのです。私たちが永遠と幻想しているものの大半が、実は弛まぬ努力によってようやく存在している訳です。

 鳥や虫の作るすみかをみて感じる脆さ儚さは実は人類にもそのまま当てはまります。私たちは自分の人生の長さを基準にして時間の長さを感じているのに過ぎないのです。ものやことの寿命を考える時に、それを測るものさしが何なのかを今一度考える必要があります。