投稿者: Mitsuhiro

やってみせる

 やってみせることが大切をと感じさせられました。ある教育法の紹介です。

 その方は子どもに勉強しなさいとはあまり言わないそうです。ただ英検、数検、漢検にはこだわりがあってすべてを2級以上取得することを勧めているそうです。それだけならよくある話なのですが、この方の場合はご自分も検定に挑戦して子どもとともに勉強していらっしゃるところです。

 あと2点足りなくて合格できなかったと悔しそうに、そしてその割には楽しそうにお話していました。漢字検定の準1級に挑戦していらっしゃるのです。子どもに2級を勧めた以上、その上に挑戦する姿を見せたいというのが最初の目的だったとか。漢検準1級は普段あまり使わない漢字が多数使われ、マニアの域に入るなどといわれます。受検数も合格率も低い。そこに敢えて挑戦していらっしゃる訳です。

 率先垂範の精神に他なりませんが、ご本人自身もまるでゲームの攻略か一種のスポーツのように楽しみながら検定に挑戦されていることに感銘を受けました。やってみせることも大切だと実感したのです。

失敗

 大きな失敗をして思い切り落ち込んでいます。

 普段からいろいろと抜けていることは多いのですが、今回はかなり大きな失敗になってしまいました。自分の不注意が原因なので弁解のしようがありません。とにかく被害が少なくて済むことを祈るしかありません。

 何気なく過ごす日常の中にさまざまな落とし穴があることを忘れないようにしなければなりません。

みんなで作る

 個人の幸福が尊重され過ぎた代償として私たちは公共の福祉についての価値を下げてしまいました。社会が縮小化するいま、改めて共同体の幸福を考え直す必要があります。

 個々人が幸福を追求することは現代社会の常識であり、条件でもあります。個人の幸福が保証されているからこそ、私たちは安心でき、明日を生きる活力が得られます。ただ、さまざまな閉塞感が漂う昨今の情勢においては、個人の利益追求だけでは立ちゆかなくなっていることも事実です。一人ではできない段階に入っています。

 誰かが成功してもそのために多数が不幸になるという悲しい現実も情報化社会にあってはすぐに顕在化します。それが環境問題など地球規模で影響を与えるものとなると一層深刻です。誰か一人が幸せになるということが難しいのです。

 このような現況にあって必要なのは人間が集団の生物であるという再認識です。一人では生きられない人間は幸福の基準を個ではなく集団に置くべきなのです。そしてその集団が成り立つためにはより大きな環境が保全されなくてはならない。そうした基本に立ち帰ることが不可欠なのでしょう。

 人のために何かをする尊さを先人は語り続けてきました。この話はそれを別の表現で述べているのに過ぎません。まずは自分の近くにいる人を幸福にするために何ができるのかを考えていくべきなのです。未来はみんなで作るものなのです。

差異を越える何か

 細かな差異が気になる状況においては様々な先天的要因が顕在化します。

 いわゆる差別というものを忌避するように私たちは教育されています。これは社会生活を営む人間の叡智であり、大変尊いふるまいです。ただ、非常に細かいことが気になる状況においては、わずかな相違が気になることがあります。

 差別が発生しないための条件として、先に述べた社会的教育の成果は大きい。さらには、細かな差異が問題にならないような環境づくりも必要になります。色々な局面において余裕を作ることが重要なのです。

 これからの多様性の溢れる社会の在り方が、差異を越える何かを見つけ出していくのでしょう。

立志の作家

 田山花袋というと暴露型の文学のシンボルのように考えられがちです。私も深く研究した訳ではありません。ただ、間違いなく言えるのは花袋はかなり意図的にこの作品を上梓し、人生自体を小説化しようとしていたということです。

 花袋は上京後に知り合った柳田国男や国木田独歩のような人々に影響を受け、欧州の自然主義文学の作品化を考えるようになったらしい。故郷を離れて文士として身を立てるために必死であったようです。その中でたどりついたのが『蒲団』の世界だったのでしょう。人には言えない心の弱点を暴露することはそれまでの日本文学が題材とし得なかったものであり、開拓者としてのリスクもあったはずです。変人扱いで終わってしまう可能性もあり得ました。

 花袋を評価してくれたのはまずは上京後交友関係にあった仲間たちであり、さらにその影響下にあった人々だったのです。結果として日本の自然主義文学の方向性を決める作品という評価を得ることができました。自己の人生を世に晒すことになっても文士として生きていきたいという野望がこの作品にはあったことになります。

 高校生の頃に読んで何がいいのかさっぱり分からなかった小説ですが、もう一度読み直したくなっています。

秋になると

 朝晩の冷え込みが強く感じられるようになりました。あの暑く長かった夏が嘘のように感じます。秋になると感傷的になるという人がいます。もののあはれは秋こそまされ。伝統的な考え方なのかもしれません。

 日照時間の減少が体内物質の変化をもたらすという意見もあります。そうなるとすべての人に共通する現象となるはずですが、どうもそうではなさそうでもあり、難しいところです。

底堅く

 効率化や省力化が社会的な風潮であることは否めません。少子高齢化が進行する中でますますこの傾向は高まります。

 いままでと同じ方法は使えないということは明らかです。場合によってはかなりやり方を変えなくてはならない。それを模索しているのが現状です。できることは機械にやらせる。できないことは切り詰めるというのは不可避なのかもしれません。

 そのような時代を生きるには基礎となる知識をしっかり身につけていることでしょう。自分の考えを相手に伝えられること、文章が理解できること、論理的思考で判断できること。形を変えた読み書き算盤が必要になっていると感じます。

 知識、知恵の底固めをすることが私たちにとって欠かせない課題であると考えます。教育の現場で何ができるかを模索していきます。

朝日の影

 朝日の影が伸びて見えることに気づきました。冬が近いことを実感します。

 職場に向かう道は東に進むために、朝日を正面に受けます。恐らく夏はすでに上った太陽の下を歩くので気にならなかったのでしょう。日の出の方向も変わったせいなのか最近はかなり眩しく目が開けていられないほどです。

 さらに前を歩く人の影が長く後方に伸びていることに気づきました。夕陽を見る時に見た風景が朝にもあったのです。当たり前ですが季節ならではの発見です。

つるべ落とし

 日没の時間がどんどん早くなっているのを感じます。この歳になっても季節ごとの日照時間に関する感覚がつかめないのはなぜでしょうか。

 午後5時になるとかなり暗くなり、町の灯りが煌々と輝きます。夏至の前後は7時を過ぎても明るいことを考えればかなり大きな違いがあるといえます。これだけの変化を私はなぜ日々実感できないである時急に気づくのか。それは私が天体の運行による自然現象に向き合って生きていないからに違いありません。

 私たちは毎日の生活を時間という人工的に作り出した物差しを基準にして過ごしています。地球の公転と自転運動に基づいた目盛りであるのは確かですが、そこにある意味を付託し、独特の感覚を見ようとするのは人為的な営みです。時計がなければ太陽の位置を基準に生活が組み立てられるはずですし、日没後は平板で底の知れない、しかし必ず終わる夜があるはずです。

 私たちはそういう感覚を忘れたために秋の日短さを感じるのではないでしょうか。

ノートの誘惑

 このブログも含めて最近はキーボードやスマートフォンのスクリーンを使って字を書くことが大半になっています。でも、定期的に手書きノートの魅力に誘われることもあります。

 私は仕事では万年筆を使うことが多いのですが、それも採点や添削など一部の業務に限られています。普通の文章を書く場合はどうしてもデジタルで行ってしまいます。書き直せることと、保存、検索が可能であるという魅力はどうしても捨てがたい。

 ただ直感的に字が書けることや、レイアウト、図などの自由性からやはり手書きの利点は大きい。いわゆるバレットノートの方法を知ってからは、日々の記録と思い付きノートは一冊にして時系列順にどんどん書きこむというスタイルにしてます。あまり整理しようと考えないことで、かえって思い付きの蓄積が保てるようになりました。何よりもパソコンで仕事をしているといろいろな業務がマルチで同時多発的に襲い掛かってきて、さらにいろいろな誘惑も一画面上で行えるため分裂的な精神状態になってしまう。紙面だと書くことに集中できるという利点があります。

 デジタルとアナログと用途によって使い分けることが大切なのは分かっています。しかし、私の場合はしばらくするとエントロピーの増大が現れ、やり方がごっちゃになり始めます。自分で決めた方針がなかなか守られない。それこそが問題なのです。時に現れる手書きノートの誘惑は、記録と思考という原点回帰を促すものとして私なり貴重なものだと勝手に考えています。