投稿者: Mitsuhiro

減らして増やす

 労働時間の短縮に関しては行政の指導もあるため、強制的に進められています。ただ、単純に仕事量を減らすのでは全体的な利益が減ってしまう。それでは現状維持ができなくなるのが問題です。

 私たちが目標にするのは決して現状維持ではありません。むしろ発展の方法を模索し続けなくてはならない。エントロピーの法則に抗うためには常に生産の方法を考えなくてはなりません。短時間で効率をあげるためには、仕事の内容を厳選するか、働き手の技能を上げるか、もしくは機械の補助を活用するかでしょう。おそらく、そのすべてをやらなければ達成できない。

 とりあえずは退勤時刻の30分後にすべての業務を終えることを目標にします。私の仕事の場合、これはかなり困難ですが少なくとも自ら制御できる項目については強制終了の時間を考えていきます。

 働くことに生きがいを感じる人にとってはこのやり方はかなりの苦痛も伴います。しかし、パラダイムシフトがなされなくては時代に対応できません。

人に頼らず楽しめるもの

 最近読んだ本の中で楽しみは一人でできるものを持っていた方がよいというのがありました。一つの真理ではあります。

 誰かのために何かをするというのが人間の究極の喜びであるとの考えにも接したことがあります。集団で生きる人類にとって他人への奉仕はいわば生物の遺伝的な幸福感の一つと言えるのかもしれない。そう考えさせられる言説でした。しかし、自己の幸福感を他者との関係に求めすぎるとたいていはうまくいかない。自分の思い通りに他者が動いてくれることは稀ですし、そう願うこと自体が他者にとっては迷惑になるときもあります。すると自己の幸福追求が他者にとっての不幸の始まりになってしまう。

 だから自己の幸福を追求する際に他人の反応を求めなくてもいいものを持っているべきだということになります。他人がどうであろうと自分が幸せを感じ、楽しみとなるものがあるのがよいというわけです。他人に迷惑を掛けず、結果的に他人にも幸せを感じさせるものであればなおよい。芸術活動の多くはこの枠に収まることですし、一部のボランティア活動もそれに含まれるかもしれない。いちいち他者の反応を気にしなくてもよい趣味的な活動があるといいというのでしょう。

 私にとってそれは何だろう。幸せを感じるほどのなにかを見つけなくてはと考えています。実はもうあるのかもしれませんが、具体的に意識していることはないのです。

やはり役に立つ

 シンギュラリティはいつかという話題の中で、果たして今のような教育は必要なのかという議論は必ず出ます。そして誰もそれに答えられません。まだ、起きていないことを前提に議論はできないからです。

 英語を勉強してどうするんだ。英語は自動翻訳機がやってくれるからもう必要はないんだ。英単語を必死に覚えなくてもいいだろう。意味のない勉強はやめよう。そんな話が出てくることがあります。これが暴論だと思う人は多いでしょう。では、古典文学はどうでしょうか。例えば漢文の分野などに話を移すと旗色は変わります。今さら漢文になんてやってどうなる。返り点を習っても中国語はできない。そもそも論語や孟子は紀元前の思想であって現代に通用しない。ほとんどの中国人は読んだことさえないはずだ。だから、漢文は不要だ。これが正論だと考える人はきっと多いはずです。

 英語も漢文もその学習が不要だという人の根拠は、実生活で有益か否かの基準で話していることなります。そしてその際の利益とは表面的なものであって、私たちの思考の方法に基づいていません。私たちが物事を考える際には、考えたことをまず言語化し、それを組み合わせて論理を形成します。さらに複雑な文法に当てはめて初めて言葉になります。機械ができるのは最後の段階であり、自分の思考や感情を言葉にするという段階は機械にはどうしてもできません。思考や感情を形成するのは言葉の学習を繰り返した末にできます。国語はもちろん、様々な外国語学習によってそれは鍛えられていくのです。

 だから中等教育程度の学習はやはり必要です。必要でないという人はとにかく自分の意志は放棄して効率よく機械の勧める何かに従って生きようという方針でいくしかなくなります。つまり、自分も機械の一部になることを目指す人は無駄な学習はしない方がよい。私はそうはなりたくありません。

初外套

 冷え込みが激しくなりました。今朝は今季初めてコートを着て出勤しています。1月並みの寒さだとか。

 気温が低いのは結構耐えられるのですが、問題は乾燥です。喉の渇きはすぐに風邪を導きます。インフルエンザも流行り始めているらしい。いろいろ用心がいります。

 コートを着ると服の重さを感じます。これだけのものを着て歩かなくてはならないのかと少し憂鬱になっています。でも慣れてしまうのも早いはず、毎年の繰り返しですから。

その人にしか見えないもの

 その人にしか見えないものがあることを私たちはなかなか気がつきません。何かのきっかけでそれが分かったときに深い感動を覚えることがあります。

 例えば絵画や写真を見ることはそのきっかけになります。同じ場所を見ても見えているものがまったく違うということを画家の創り出す作品は端的に教えてくれます。色合いや大きさ、中心にあるものなど、こういう風に見ていたのかと感じさせられます。写真は客観的な現実の切り取りのような体を装いながら、実はカメラマンの視点が強く反映されています。どの瞬間を現像するかの選択は撮影者の創意が形になったものなのです。さらに加工が加わればより複雑なオリジナリティの表現になります。

 対象がどう見えているのかを確かめることを一つの目的とすれば、芸術鑑賞の楽しみが増えます。そして、芸術作品に関わらずすべての現象が同様にいろいろな方法で捉えられているということを意識しておかなくてはならないのでしょう。

人のスペック?

 自己肯定感が低いのが日本の学生の特徴であるとは、昨今の世論調査の示す事実のようです。どうせ私はと考える人が多いのは商品同様に人材もコモディティ化しているかのような錯覚を与える社会になっているからかもしれません。

 コンピュータの性能を表すスペックという数値があります。CPUの演算能力やディスプレイの解像度など、パソコンを選ぶ時の基準となる数値です。最近、これを人間にも当てはまる表現をしばしば目にします。身体的なデータに加えて、就職先、年収、結婚歴などが数値化されてスペックと表現されているのです。ある種の企業にとってはこれが選抜の基準になるのかもしれませんが、実はこれも自己肯定感損失の大きな要因になっていると考えます。

 他人と比較する数値において特別に目立つ存在になることはかなり困難です。そして自分よりも数値が上の存在を知ることで得られるのは失望が大半とあれば、何もいいことはありません。私も含めて多くの人は凡庸であり、それゆえに社会が成り立っているといっても過言ではありません。

 問題なのは凡庸な数値を持つ私たちが等閑視されてしまうことです。実は個々人が別々の背景を持ち、積んだ経験も少しずつ違うのにも関わらず、あたかも同じような人、その他大勢のような扱いを受けてしまうのです。それでは自己肯定しようもなく、むしろ無力感に覆われるばかりです。

 私たちは個々人の個性を認められる環境を作らなくてはならないし、その意味で人材を生かさなくてはならない。ダメな人たちではなく、ダメだと思われている人たちの本当の輝きを見つけなくてはならない。自信を失った人たちに役割を与えなくてはならないのです。

 あまりにも単純な人間の扱いが現在の危機を招いているというのが私の考えです。私たちは自らの持てるものをもっと活用することを考えなくてはならない。それが生き残るための最低条件です。

読み込む

 来年度から始まる大学共通テストへの批判が続出しています。英語の外部委託試験は延期されましたが、国語の記述式問題のアルバイトによる採点もやり玉に挙げられています。

 学習塾や予備校の実施する模試や、通信添削などはすでにたくさんのアルバイトが使われており、人選についても簡単な操作しかなされていません。これまでに示されているモデル問題では、記述式といってもかなりの程度形が誘導されており、多様な解が出ないように工夫されています。もはや記述とは言えない域なのかもしれません。

 問題文や資料、設問数も時間に対して多すぎであり、読解力というよりは情報処理の手際よさを試すものになっているのも残念です。これはAIなどにもっとも代替されやすい能力であり、優先順位は下位にあるといえます。

 作品を深く読み込み、自己の経験と照らし合わせて解答する問題の作成は確かに難しい。ですが、問題数を削ってもその方面を追求すべきです。社会の要請に見合った試験方式への変革はさらに続ける必要があるのではないでしょうか。

投資

 昨今のソフトバンクの活動を見ていると、投資会社の存在感が今後ますます注目されることが予感されます。ソフトバンクは通信分野の会社としては後発であり、シェアも小さく、決して満足度も高くはありません。にもかかわらず世間の耳目を集め、存在感を日ごとに高めているのは孫氏を中心とする徹底的な投資実績にあります。

 これからの時代は働かされるものと働かす者、そして働かす者に出資して分け前をもらう者になるという話を読んだことがあります。投資家はあくどいという先入観を捨て社会の現実を知るべきだと。そんな言説に触れたのは一度や二度ではありません。

 投資は新興企業の応援につながり、イノベーションを支援するというのも事実でしょう。私も非常に少額ですが、クラウドファンドに関わったことがあります。子どもの小遣い程度ですが。

 ただ、投資が単なる金儲けの手段と考えられたとき、労働の意味が変質してしまいます。まずは生業を持ち誰かのために働くことが基本になければならない。投資家に求めたいのは働く人の応援者であるという立場を忘れてほしくないことです。

視点を変えれば

 スポーツの試合結果を知りたいときに、見出しだけを見ると同じ結果でも全く違ったものに感じることはよくあります。快勝なのか、苦戦なのか。接戦だったのか、消化試合だったのか。同じ試合でも見方が変われば全く印象が変わるのです。

 結果だけを見ると大差がついている試合は、一方的にどちらかが試合を優位に進めていたかのように感じます。ところが、実際に観戦した人に聞くと、点数には表れていないけれども実力差はそれほどなかったという感想があることもあります。得点と試合経過とは異なり、また見る人の印象がどこに重きを置くかによって印象は大きく変わるのです。

 スポーツだけではなく様々な場面でこのことは言えます。結果を数値で表すことはその現象の一面を表現しているのに過ぎないのであって、それがすべてではないということです。私たちは結果ではなく経過を出来事として認識します。そして経過の印象は視点によって異なります。同じものを見ても別のものを感じるのが私たちの本質であることを思い出さねばなりません。

出る杭は

 閉塞的な雰囲気の漂う我が国の社会、経済にとって必要なのは発想の転換だと言われます。また、それを成し遂げることができる人材を発掘することも急務です。

 最近読む教員に関する書籍の多くに、既存の価値観を変更しなければ新しい考え方は生まれないという言説が展開されています。出る杭は打たれる式の均質なエリート育成を目指すのではなく、個々人の持てるものを活かして型にはまらない才能を発見し、支援するのがよいというのです。出る杭を伸ばす、という方法です。

 理想としてはよく分かります。多くの論者の教育に対する見通しはそれぞれ論の通った慧眼であり、敬服しています。ただ、現場に立つものとしては具体的な方策が難しい。出る杭は誰なのか。どのように伸ばすのか。杭が他の杭の上に被さっているときはどうするのかなど、考えなくてはならないことが山積しています。

 教員人生の末期に入ったいま、これを考えたいと考えています。