投稿者: Mitsuhiro

冷え込み

 寒気が南下している関係でかなり冷え込んでいる。これまでとは体感が違う。どうもこれが原因で体調を崩した人も多いようで、電車に乗っていても咳をする人が多い。インフルエンザという人もいれば、陰性であるとの診断を受けた人もいる。しかし、そのいずれもが症状が重く、なかにはかつてこのような風邪をひいたことがないというほどつらかったという人もいる。おそらく、コロナ禍の続く中でさまざまな別の病に対する免疫力が失われてしまっているのだろう。適度にウイルスに晒されていることは大切なのかもしれない。

機械のアナウンサー

 NHKのテレビニュースをみているとAIによるニュースの読み上げの時間が入るようになった。滑らかな人間に近い発声とアクセントであり、違和感はない。ただ、なぜAIを使わなくてはならないのかが分からない。

 アナウンサーはかなりの訓練を積んでスクリーンの向こうに立っており、その技能は高い。もちろんミスは皆無ではないが、機械に代替させるほどの問題は感じない。災害時の対応も過去の実績をみる限り問題はなさそうだ。それなのになぜAIを登場させるのだろう。

 AIの活用によって、作業の省力化が果たせることは事実だ。ニュース原稿の作成から、構成して読みの確認、放送にたどり着くところまでの作業工程はかなりあり、そこで働く人々の労働軽減につながることは確かだ。恐らく放送時間の何倍もの時間をかけて準備がなされているはずだ。それを機械に代替させれば助かることもあるのだろう。

 ただ私たちがニュースから受け取っているのは音声や映像からの情報だけではない。伝え手の心情、身体的な行動、振る舞い、表情などを複合して感じ取っている。仕事は大変かもしれないがAIに頼りすぎないでいただきたい。機械音声で済むのならもうテレビでなくても良い気がする。

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黒字の金曜日

 この時期になるとブラックフライデーという言葉をよく耳にする。ブラックというとネガティブなイメージが先行するが、このブラックは黒字の意味で商売する人にはいい言葉らしい。

 アメリカで感謝祭の商品の売れ残りを値下げ販売する商業習慣が他国でも取り入れられたらしく、日本もその恩恵に預かろうという商魂のなせるわざである。ハロウィンとクリスマスの間を埋めようということだ。

 日本ではまだこの効果は限定的だ。ブラックフライデーの知名度は低いし、数々あるディスカウントセールとの差別化もついていない。感謝祭の習慣がないのだから、そのおこぼれと言っても説得力がないのだ。

 何でも和風にしてしまう国民性の力が発揮されるときが来れば、日の目を見る事態になることもあるかもしれない。そのときはやはりブラックの名は変わっているかもしれない。

寒の前の暖

 昨日の日中は上着を着た身体には汗ばむほどの暖かさだった。今日はさらに気温が上がるらしい。そして土曜は急降下する。寒の前の暖である。

 魚津に住んでいた頃、嵐の前は少し気温が高かった。気圧の関係か何かわからないが僧ヶ岳がやけに大きくせり出して見えたら、翌日は荒れることを覚悟しなくてはならなかった。雷鳴とともに風雪が来る。場合によっては相当の積雪になることもあった。

 その経験が関東にも応用できるか否かは分からない。低気圧の東進に伴って、吹き込む風が南から北に代わり、大気の大幅な交換があることは同じなのだろう。土曜日の予想最高気温は13℃、日曜日は11℃でこの時期の身体にはかなり低く感じるはずだ。

 手袋はコートのポケットに入っているが、マフラーはまだ出していない。そろそろ出番なのかもしれない。

誰に対して感謝しますか

 勤労感謝の日が新嘗祭に由来することは明らかだ。戦後の米軍の占領政策によって、神道色が消されて欧米の感謝祭的な要素を強調した勤労感謝の日となった。本来は神への感謝であったのが、勤労をする人間の方に謝意を捧げることになったのだ。

Thanks for everyone image

 ただ、基本的な考え方は同じであり、収穫の喜び、つまり労働の成果に対しての感謝の気持ちを表現する祝日ということになる。細かく見ると誰が誰に感謝するのかを考えなくてはならない。対象が神であったときは米穀の実りをつかさどる別次元の存在に対して行っており、宗教的論理によって祭祀が統一されていた。それが人に感謝するとなるとこの行事は個別化され存在意義が分かりにくくなってしまった。

 例えば、私の場合は職場の環境を整えていもらっているスタッフや、運営をしている管理職、協力してくれる同僚などが感謝の対象だ。よく考えてみると電力、水道といった社会的インフラを保持している人たち、交通機関従業者、医療関係者、そのほか社会制度を支えている人たちのすべてが感謝の対象になりうる。かつてエッセンシャルワーカーということばが世上にあがったが、エッセンシャルかいなかは判断基準の違いに過ぎない。勤労感謝ということは社会に対する感謝ということになる。

 人に感謝するということが素直に言えない時代であると思う。サービスは労賃に換算され、評価の対象になる。金を払えばそれで権利が買えると錯覚してしまう。これでは感謝の気持ちは沸きにくい。感謝すること、されることによって人々の生活は変わっていくのではないか。今日はそういうことを思い出す日なのかもしれない。

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日本の器

 日本文化を独自性だけで語ることは難しい。私たちの文化は有史以前から、複数の異質の要素を受容し、それを融合する形で発展してきた。その意味ではオリジナルはほとんどないが、融合したものは唯一無二なので、すべてがオリジナルともいえる。

 ハイブリッドはこの国の特長であり、それがこの国を成り立たせていた。今日本は均一化、閉鎖性の弊害に見舞われている。自己満足が国としての活力を奪い、得るべき収穫を逃している。謙虚になる時期である。

 ネット上にはナショナリズムが溢れている。自信を持つのはいいが限度を越えれば害にしかならない。我以外皆我師の考えに立ち返るべきだ。一見、消極的に見えるが実はこれが最も強いあり方なのだ。

 日本の器に何を盛り、どういう料理を作るのか。その考え方を忘れない限り安泰であろう。

内戦の国、シリア

 FIFAワールドカップ予選で日本はシリアに勝利した。この試合の中継は日本のメディアによってはなされなかった。法外な放映権を要求されたことが原因という。ネット上ではこの事態に関して日本のサッカー協会の判断をおおむね支持しているようだ。相手の言いなりにはならないということをピッチの外で示せたという評価だ。

シリア

 この放映権料がもし支払われたとしたら、何に使われたのだろう。想像に過ぎないが、シリアで今起きているのは内戦である。それも多極化したまさに戦国時代のような様相だ。追い打ちをかけるようにトルコ地震の被害もあった。放映権料はインフラ整備よりも軍事費に充てられたに違いない。その意味においても今回中継を断念したのは好判断だったといえるのかもしれない。

 シリアの国情は調べるほど複雑で、宗教、宗派、民族、外国政府、隣国の状況、歴史的ないきさつなどが複雑に絡み合っている。もつれた糸をほどくのはかなり困難で、むしろ米露仏などの介入で被害を拡大しているともいえる。パレスチナ問題もしかりだが、中東地域はさまざまな問題が多い。これをどのように治めるのかは世界の課題といえそうだ。

 サッカーは圧勝したが、相手の国情を知ると素直に喜べない。平和な状況で対戦すれば、そして自国で開催できたならもっと強かったのではないか。いろいろあるが日本がスポーツに専念できる人を持てていることには感謝しなければならない。そして、世界平和に貢献できる人材を輩出しなくてはならないとも思った。

アジアプロ野球チャンピオンシップ

 日本の優勝を素直に喜べばいいのだろうが、このところ日本代表が勝ち続けていることを考えると、アジアの実力低下やそもそも野球の人気の減退を危惧してしまう。

野球はおもしろいですよ

 アジア大会と言いながら、参加しているのは日本、韓国、台湾、オーストラリアの4国だけである。プロ野球が興行として成り立つためには様々なハードルがあり、たまたま日本はそれに恵まれているというのに過ぎない。野球先進国としては海外にそのノウハウを提供して、スポーツとしての存在価値を高める必要がある。

 今回は年齢制限制の大会であり、若手に活躍の機会を与えたのはよいことだ。彼らがそれぞれの国のリーグで今後活躍してくれること、あるいは別の国のチームに渡って成績を残すことを期待したい。

メリハリ

 感情の高ぶりを大声で示すことは分かりやすい。自然な感じがする。でもよく考えると実際はそうとも限らない。本当に感動したときには声が出ないこともある。

 舞台で大きな感動を表現するのでも絶叫だけが手段ではない。むしろ声や音響、照明の効果を使わなくても感動を表すことはできるはずだ。ただ、それには演技力がいる。立姿だけで感動を表すことは容易ではない。

 絶叫は何度か繰り返されると見る方に用意ができてしまう。不意打ちと変化こそが効果的なのだ。そのためには構成にメリハリをもたせることが不可欠だ。

多様性が大切ということは

 国連で活躍されていた方のお話を伺う機会があった。いろいろな話題の中で、多様性こそが大切であり、異質であることへの寛容な考え方が求められているというご意見が印象的だった。

 紛争当事国や貧困で苦しむ民族に、自分たちの成功体験に基づいた助言をしてもうまくいかない。例えば民主主義や男女平等の理想をすぐに実現させようとしても、旧来の社会制度や生活習慣との乖離が大きすぎればかえって混乱を招き、さらに悪い状況に陥るという。国や地域に応じたやり方があり、それを間違えれば良薬も毒薬と化すのは考えてみれば当たり前だ。

 世界には、身の回りには、様々な価値観があり、そのどれが優れているのかを判断するのは難しい。ある状況では絶対の真理と思えても、別の局面ではそうならないことも多い。物理学の世界でさえ、万事に通用する方法はないという。まして形而下の不規則な世界の中でこれこそが真実、正義と言えることは実際はない。その都度この場面では何が最適解なのかを考えるしかない。

 この多様な世界は厄介なだけかといえばそうでもないらしい。多様性の中で、次なる策を見つけることが新しい価値観を生み出し、現状を打開する方策を生み出す。生物学の世界で、ある環境に特化した種が絶滅しやすいことは証明されている。常に新種と接触することが次世代へと繋ぐことができる条件なのだ。

 多様性を推奨するのは容易い。ただそれには異質なものへの寛容さが裏打ちされていなくてはならない。自分の周囲に習慣も価値観も異なる存在がいたとき、それをどのくらい許せるだろうか。私自身のことを推し量ればかなり覚束ない。排除まではいかなくても、距離を置いたり無視したりしないか。その反省から始めなくてはならない問題なのだろう。