投稿者: Mitsuhiro

まるまり

 認知症という言葉はかなり強烈だが、人は多かれ少なかれ脳の衰退に向かっている。私は短期記憶の低下を自覚しているのでちょっとしたことでもメモするようになった。これでしばらくは凌げるが、そのうちメモしたのかどうかもわからなくなるだろう。

 脳の皺が知能に関係するというのは本当なのか私には分からない。もしそうならば比喩的な意味において、その皺がなくなっていくのが加齢ということなのかもしれない。皮膚とは反対である。

 四捨五入することを丸めるという人がいる。脳が退化すると無意識的のうちに世界を丸めだすのかも知れない。大雑把に捉えることは知的なレベルで行えば高次元の行為だが、この方面は寂しさ伴う。ただ、詳細にとらわれないことは大切なのかも知れない。世界のまるまりを楽しむような余裕が必要なのだろう。

早朝の清掃ボランティア

 早朝に出かけた日のことである。駅前にある地下通路を静かに清掃する人が二人いた。路面にこびりついたガムか何かを剥がし取って、手持ちのペットボトルに入れた水で流していた。根気のいる作業である。彼らは清掃をボランティアで行っている人たちらしい。

 こういう行為を見ると自分も何かできないかと思う。昔見た「ペイフォワード」(Pay It Forward)という映画を思い出す。子どもが考えた善意のリレーで世界を変えるという発想を体現化したものだった。もちろん映画としてのストーリー展開でできすぎた内容であるのは仕方がない。善意は無意識のうちにリレーするの可能性がある。ただ、それがすぐに起きるのか時間がたってからなのかは分からない。ボランティアの姿はそのきっかけになる可能性があることは確かだ。

 私自身は何かをしなければという思いはあってもそれがなかなか実行できないでいる。せめて、ごく小さな親切から始めてみたい。それを行う勇気として清掃ボランティアの姿を覚えておこうと思う。

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2歩下がる

 月初めは少し気分が変わる。正確には変えるように無意識に考えるようにしている。特に師走の始まりは意図的に何か区切れをつけようとする。

 私にとってはそれだけではなく、安住のルーティンから抜け出すための区切りとなりそうだ。いや、これも正確にはそうしようとしている。何も考えずに物事を行うのは楽でよいがいつまでもそうしてはいられないこともある。

 まずは初速度をつけなくてはならない。ここで大きな変更が生じる。精神的にも辛いことが起きるだろう。私の場合は過去の遺産を整理することから始めなければならない。価値を感じていたものを手放すのは勇気と一種の狂気がいる。でも、やらなくてはならない。

 ものを捨てれば心が落ち着くと説く人がいるがあまり当たってはいまい。落ち着くのではなく諦めるのであり、逃げであり消滅でもある。それを越えてでもことを行うのが今の私に求められている区切りなのだ。

 師走故にいろいろ考える。私にとってはまず3歩進むための2歩後退の月になるかもしれない。これも正確にはそうしようとしている。

似ている似ていない

 誰かに似ていると言われることが時々ある。最近は減ったが、芸能人に似ているとも言われた。残念ながら二の線ではない。言われて必ずしも嬉しくはない類のものだ。顔の類形というのは怪しいもので、人によっても年齢によってもかなり異なる。どう見ても似てない人をそっくりだという人がいる。逆に私にとっては瓜二つだと思うのに同意が得られないこともある。

 似ているかどうかの判定基準が人によって違うということだ。物差しになるものが違う。輪郭と背丈が同じなら同一人物としてしまう人がいる。髪型とか眼鏡の一致で区別する人もいれば、ほとんど見分けのつかない姉妹を見分けられる人もいる。似ているいないはその判断に個人差が大きい。

 私自身も出会う人をかなり単純化して認識している気がする。どこかであったことがあるなどと勝手に考える。曖昧な人物認識の中で日常生活は成り立っていることになる。

 スマートグラスなどができて人物の認識が厳密になされるようになったら私たちの生活はどんなふうに変わるのだろうか。曖昧な方がいい気がする。

眼鏡屋のこだわり

 ものに対するこだわりはほとんどなく、ブランド品に固執する発想自体に疑問を感じてしまう私だが、眼鏡に関しては妙なこだわりがある。町には安価ですぐにできる眼鏡の量販店がある。たいていは海外製のフレームとレンズだが品質的には悪くはない。しかし、ものを見る目の補助道具としてはやはり日本の製品を使いたいなどとなぜかナショナリズムが発動してしまうのだ。

眼鏡

 私の眼鏡のフレームにはいちいち日本製、鯖江生産を示す文字が入っている。私のような頭の固い人間には訴求力がある印字だ。ただ、こうしたことがちょっとした安心感と根拠のない矜持を生み出しているのだから、量販店の倍以上の価格を払っても買ってしまうのだ。ものを買うというのはこういうことかもしれない。ただ、裕福ではない私は買ったものを極力丁寧に扱って出費を抑えることに努めなくてはならない。

 ひいきの眼鏡屋には時々、フレームのゆがみを直してもらいにいく。いまのフレームにしてからはほどんど曲がらなくなったので実はあまり意味がない。次の眼鏡を探すということを建前として眼鏡店のにぎやかしを引き受けている

勝てばいいというわけではなく

 日本大学のアメリカンフットボール部が廃部するという。幾多のスキャンダルや薬物疑惑が続出したからには仕方がない。残念なのは日大を目指してフットボールを日々練習している選手諸君である。

 内部事情は分からないから、的を射た指摘になっていないかもしれないが、彼らはあまりにも勝負にこだわりすぎたのかもしれない。勝てばいい。勝利こそ正義と刷り込まれてきたのではないだろうか。勝って得られる報酬が大きすぎるあまりに、肝心なモラルとかマナーとかをあとに回してしまった可能性がある。

 私たちがスポーツに求めるのはもちろん勝率は欠かせないものの、それ以上に生き様を端的に見せてくれることにある。そして、何度でもやり直せると思わせる夢の提供が魅力だ。

 それが一部の優秀なタレントにフィールドを独占され、勝てば何をやっても許されるような雰囲気の中で戦うことになれば、次第に選手の心根も変わってくる。ボールを追いかける純粋な気持ちは勝敗なり、パスの成功率という数字に変換されてしまう。そこにはもう個人はない。

 最近、いろいろな日本代表チームが好成績を残しているので誇らしい限りだが、勝つために個人や社会の何かを壊しているのなら評価はできない。それなら負けた方がいい。勝利至上主義ではなく、そこに選手の生き様を見ることが私たちの求めていることだと信じる。

心内語の能力

 心の中で思うことを言葉にするのが心内語である。この能力は当たり前に備わっているもののように思えるがそうではあるまい。例えば本を声を出さず読む黙読という読み方が我が国に定着したのは明治時代の後半であるという。江戸時代から貸本などの個人的読書の機会があったのにも関わらず、黙って読むことはできなかったようだ。

 黙読するためには読んだ言葉を自分の言葉に変えて、それを解釈しなくてはならない。かなり高次元の脳内活動がなされていることになる。語彙力や文法に関する知識などは別に獲得しておく必要がある。だから、予想以上に高度な技能である。

 発達障害で黙読ができない人もいる。難読症といわれる人は一定数おり、彼らの知的レベルは必ずしも低くはない。ただ、文字を見るだけでは理解ができないので音読が不可欠になる。

 心内語の未発達は独り言の多さにも表れる。独り言をいうのは誰にでもあることだが、度を過ごしている場合は何らかの障害が疑われる。よく電車に乗っているとやたらに独り言を言う人がいる。恐らくその人にとっては自然に過ごしているはずだ。独り言を話している意識もない可能性が高い。周りにいる人はその人の心の中の声が聞こえてしまっているのだ。

 心の中で言葉をもつことは実はかなり高度な行為なのだった。それは後天的に習得しなくてはならないものなのかもしれない。その力は小学校や中等教育で身につく。この時期に黙読力を身に付けなくては生涯の損失になる。読書を阻害するデジタルデバイスはその意味でもほどほどにしなくてはならない。

賃上げ幻想

 岸田首相の支持率が低迷している。言語は明朗なのに真意が伝わらない。この首相の残念な点はこれに尽きる。

 賃上げをしたうえで経済を回し、その結果として、社会福祉なり防衛費なりを増加する。この理想はあながち間違いとは言えない。

 ただ、どうすれば賃上げが達成できるのか一向に示されない。経営者の努力目標ならば賃上げの必要性はない。不透明な時代に内部保留を減らす必要がどこにあるだろうか。

 経営者の心を動かすとしたら、賃上げを達成した企業の法人税を思い切って減額するとか、何らかの形で評価しなければなるまい。損して得取れが体現できれば金持ちの気持ちは動く。

 自民党のやり方にはそういう臨機応変の方法が欠けている。野党も理想ばかりで実現可能な対案を示せていない。一流の国家なのに政治家は進歩しないのがこの国の悲劇だ。

 若い世代には期待している。私は与党であろうが野党であろうが具体的に進むべき道を示せるリーダーを求めている。いまとは違う枠組みでも構わない。

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自分を追い込めるか

 必要がないものを学ぶことはない。学んでも効率が落ちる。逆に知らなければ死活的な困難に陥るとなれば、必死に学ぶ。学びとは基本的にそのようなものであろう。

 日本人がいつまで経っても英語力の国際的順位が低いのは、英語を使わなくても高水準の生活が送れるからだ。仮に英語ができれば給料が倍になるとか、話せないと全く昇給しないということになれば話は変わる。日本語なまりなど気にせずに英語を使うことになる。

 学習にはこうした必要に迫られるという局面が欠かせない。英語だけではない。数学にしても、ファイナンスの知識にしても切羽詰まれば飛躍的な学びが期待できる。ただ、他人からそのような境遇を強要されることはよろしくない。自らを背水の陣に追い込むような心の持ち方ができるのか。それが学習者としての資質になる。

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余裕を求める時代に

 いろいろなことがコンピューターで制御され、無駄を極力防ぐ技術が開発されている。その成果は人工知能の発達とともにより高度化され、効率化という大義名分を達成するために活用されている。それはそれで意味がある。人手不足で停滞気味の産業を支援するのには機械の補助が欲しい。農業などの高齢化が進む産業では、コンピューターのアシストで労働力不足が補えるし、若い世代の参入の可能性をもたらす。このようなことはほかにもいくらでもあるだろう。

 機械に仕事が奪われるという恐怖は積年の懸念材料だが、これは避けられそうもない。私のような教員は機械化から最も遠い職業といわれていたが、最近の教育テクノロジーをみるに従来型の教員は比較的早い時期に機械化できるかもしれない。目的と手段がはっきりしていて、一定の効果を期待する産業においては機械化と親和性が高い。いうまでもないが、既存の産業の大半はこれである。

 すると、決まりきったことを無駄なく遂行することに関しては機械に代替される時代は比較的早く来そうだ。残念ながらこの潮流は決定的であり、もう変わりそうもない。だから次を考える必要がある。ある程度の仕事は機械がこなす。かなりの水準でやり遂げるので、その意味では生活の水準は上がるのかもしれない。でも、いろいろなことがコモディティとなり、特別なものが見当たらなくなる。そこで重宝されるのは、効率化ではなくむしろ個性を生かした特殊性であろう。アートの領域が尊重されるようになると推測できる。

 個人の創意が評価されるには、その創意を形にしたり音にしたりして何らかの表現をすることが必要である。そうした作品を作り出すには心の余裕がいる。数多くの駄作とともに、その中にかすかに生まれる傑作を待たなくではならないのだ。余裕のある生活を送るためにはどうすればいいのだろう。