カテゴリー: エッセイ

今日から5月

 今日から5月だ。新年度の始まりはいろいろあったが何とか切り抜けられた。反省点が多数あるので、その修正から始めたい。

 少し余裕ができたのでその時間を活かすことにする。まずは時短のために様々な策を練ることだ。雑用は切り捨て、やるべきことに集中しよう。また、時間が来たら途中でも止める勇気を持つことにする。

 今更だがいわゆるリスキリングも試みたい。取りあえずは英語とネット関連の学習は細々と続ける。資格を取得するわけではないのだが、一定の成果が出るように時々自己評価する。このブログにも書くことがあるだろうが、老の足掻きと見逃していただきたい。

 5月は昔から精神が不安定になりやすい季節だと言われている。そのためにも少し多めの目標を立てて悩む暇を消していくことにしよう。

思っています

 最近少し気になっているのが「思っています」という表現の拡張である。この言葉自体には新規性はなく、むしろありふれている。自分がある考えを継続的に持ち続けているということで、「と思う」に比べてある種の立場なり主張を言うときに使われる。

 気になっているのは「(私は)〜と思っているので」のように話の前提として思っている現状を提示する用法である。私の日頃の思考形式はこうなのでということであろう。つまり自分の立場を相手に先に伝えて、自分の主張を理解してほしいという先回りの手段だ。実際の文脈で聞く限り、私はかくかくしかじかの立ち位置にいるから、これから私の言うことはそのつもりでお聞きいただきたいということが言いたいらしい。

 この用法は用語としても文法としても間違いではない。私が覚える違和感は「思い」の表明が相手への説得の前提になっていることにあるのかもしれない。私の立場はあなたとは違うかもしれない。でも、私はこのように「思っている」のでそこは譲れない。どうかこのことはお察しいただきたい。そういう手続きが感じられるのだ。

 説得の戦略としては一応成立している。ただ、相手は当然自分の立場を理解してくれるという楽天的な前提があることは確かだ。これは日本人の日常の会話形式と親和性が高い。ただかつてはこういうことは言葉には出さず、当然の前提として話が展開することが多かった。そのためうっかりすると相手の真意を掴みかねることもあるのが日本型コミュニケーションの難点であったといえる。その意味では「私は〜と思っていますので」という表現はその常識が共通概念であるのかの確認であるということもできる。

 少し前に「それはあなたの感想でしょう」という自己撞着した相手への批判があった。これはそのまま発言者に跳ね返せる。感想ではない発言がどこにあるのかといいたい。でも、言われた当座はかなりインパクトが強く、なるべくならそう言われたり思われたりはしたくない。おそらく先入観とか誤解というのを朧化しているのだろう。この「と思っている」はこのような批判への防御線として頻用されているのかもしれない。

概念の更新

 自分の考えていたことと現実が大きく異なるという事実に時々出会う。自分の中でかってに作っていた想像の姿が現実には全く別のものであるという発見だ。これは知識の不足からくることもあるが、むしろ自分ではそう思っていたのに現実は違っていたということの方が多い。

 なにかの対象についての概念は日々の経験や、他者から受けた情報などで少しずつ形成される。しかし、どういうわけかどんなにたくさん情報があっても自分が作った骨組みにそって取捨選択がなされ、結局は現実とは遠い概念が生まれてしまうことになる。そして、一度ある程度それが出来上がると修正することが困難になる。思い込みというものが形成されるのだ。

 日常生活において自分の身近で常に繰り返されるものは、それに対する概念が更新されていくが、少々縁遠いものだと誤った概念が修正されることなく残ってしまうことがある。それがあるときなにかのきっかけで急に真実に接することになると、最初に述べた衝撃が発生することになるのだ。齢を重ねていくとそういう機会は減っていくがそれでも必ずある。長年考えていたことが実は間違いであったことを知るのは驚きと羞恥とそして喜びを含んだ感動をもたらしてくれる。

 大切なのはそういう概念の更新を怠らないことなのだろう。もうなんでも知っている。なにも学ぶことはないといった学習停止をどうやったら避けられるのか。それが私にとっての大きな課題なのである。

思い込みはどこにでもある

 先入観を持って物事を見るのはよくないことである。それは確かだ。でも、まったく先入観のない状態などありえない。私たちは物事を見るときになにがしかのフレームを持っていなくては安心できない。何もない状態で世界を見ることはあまりにもワイルドだ。過酷な状態に身をさらし続けると、披露困憊して十分な行動ができない。

 これはこういうものだという把握を思い込みとみなすのか、掌握のための手段とみなすのかで評価は大きく変わる。思い込みは良くない、でもある程度の固定概念は日常を切り抜けるためには欠かせない。この区別を上手くできないと話は極論になってしまう。思い込みは良くないとだけ言う人はこの点を考えなくてはならない。

 それでは先入観を極力なくし、なおかつ日常生活を成立させるのにはどうすればいいのだろう。まずは自分が無力であることを自覚することが必要なのだろう。自分の価値観が世界の価値観と近いと考えてはならない。自分は世の中の常識と言われている広い分布範囲の周辺部分にいる一つの点に過ぎないことを考えるべきだ。そして、それは私だけではなく、ほとんどの個人は同じ立場なのだ。

 常識とか多数派とかそういう幻想は捨てなくてはならない。私たちは個々人のできる範囲のことしかできない。それを他人から見た粗密の尺度に照らし合わせても得られることは少ない、自分の行動はあくまでも多くある事例の一つであり、それが集団の真ん中にあるのか周辺部にあるのかなどだれにも分からない。

 思い込みをなくし、消化できていないことを冷静に考察し始めることが大切だ。これはこれからの人生観に直結する。人生を豊かにするためにはある程度知らないことは多いほうがいい、

連休

 今年の大型連休は前後に分断されてしまった。中には間を休める方もいらっしゃるのだろうが。私のような職種は暦通りしか休めない。

 でも、いまの自分にとっては長すぎる休みは調子を崩す要因にしかならない。適当に休んでまた仕事をする生活の方がいい。変化よりも安定の方がいいとは我ながら残念である。

 恐らく退職したあとも私は何らかの仕事をするはずだ。収入があるかどうかは分からないが。そういうふうに生きてきてしまった。

手書き入力

 スマートフォンで手書き入力をためしてみた。意外と正確に反映出来ることに驚いた。画数の多い漢字は片手持ちの親指書きではさすがに難しいが、それ以外はむしろ思ったよりいい。

 タブレット端末等を机上で使うときは手書き入力にしようと考えた。その方が思考のスピードに合う気がする。文字を忘れないようにするためにもいい。

 音声入力もかなり精度が上がっている。ただこれは周りに人がいるとき、図書館などの静粛が求められる空間では使えない。手書き入力の可能性をもう少し追求してみようと考えている。

転じて夏日

 今日は昨日比で最高気温が10℃前後上昇するらしい。夏日となるのは確実で、それ以上の記録になるかもしれないという。明日はさらに上がるという。

 連休は今年は前後に分断されるが、休むときにはしっかり休まねばと思う。身体の急速はもちろんだが、それよりも大切なのは精神面のリフレッシュだろう。閉塞感が横溢する中で、実はいくつもの出口があるはずであることに気づかなくてはならない。そのためには一度日常から離れることも大切だ。

 今日明日の暑さで身体の馴化を行い、連休を楽しめるようにしたい。

雨の一日

 一日中雨が続く日だった。しとしとと長く続く雨だ。お陰で新緑はきれいに洗われた。

 予報によると明日はきれいに晴れて金曜日までは気温もかなり上がるという。初夏いうより夏そのものの陽気になるらしい。ジェットコースターのような天気だ。

 振り回されることへの耐性が年々弱くなっている気がするので、ここは慎重に構えることにする。無理はしない。限られた時間で最高のパフォーマンスをすることを目指そう。

万緑

 電車から見える坂道の桜の街路樹の花はすっかり終わってしまったが、若葉が次々に芽生えてくる様は、また美しいものがある。桜だけではなく、いろいろな緑が輝く季節となった。

万緑は往古の詩人や歌人によって表現されてきた。強い生命力を感じるからだろう。命の力は万物の根源だ。かつては意識することがなかったがいまはいちいち気になる。生きることにはエネルギーがいる。

虚構を味わう意味

 小説や詩といった創作を私たちが行うのはなぜか。また人の作品をときには対価を払ってまで読んだり見たりするのはなぜだろうか。演劇やドラマ、映画といったものも程度の差こそあれ人為的な虚構の世界だ。こういったものにも思えばかなり高価な代金を払っても厭わない。むしろそこから得るものに大きな期待を持っている。

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 作り話が物質的にはなにももたらさないことは事実である。小説を読んでも栄養は摂取できない。定量的な利益を測定することはできないはずだ。場合によっては生活を困難にすることすらあるかもしれない。それなのに虚構を喜んで受容するのは意味がある。

 おそらくその効用はたくさんある。しかし、私がもっとも大事だと思うことは創作を作ったり、享受したりすることを通して結局現実を考え直しているということではないだろうか。どんなにファンタジーであっても、その基本にあるのは現実世界の姿である。それを誇張したり、逆にしたり、不可能なことを可能にしたりして虚構の世界は出来上がっている。虚構を読むことをとおして実は現実を見直しているのだろう。それが直接的でない分、気づきにくい。

 現実とは乖離している作品を堪能したあと、ふと、では実際はどうなのだろうと思う瞬間がある。わざとらしくなく、ごく自然にそのような振り返りがなされる。場合によってはそれによっていままで気が付かなかった何かを発見できることもある。昔から読書は心を豊かにすると言われるが、その一つがこうした現実を見る視点を得るという効用ではないだろうか。