カテゴリー: エッセイ

積雪はなかった

 今回は私の生活領域で差は積雪はなかった。昨夜、うっすらと地面を覆ったものの、雨に変わったためにほとんど消えてしまった。雪景色が見られなかったことに、かつは残念に思い、かつは安堵している。

 積雪予報は緊張感を喚起する。雪国とそうでない地域の両方で暮らした経験を持っているが普段とは違う状況になるのはどちらも覚悟がいる。雪国はそれなりの備えがあるが、それ以上の積雪があったときは困難に陥る。東京は雪に対してはまったく脆弱で、いろいろな差し障りが発生する。いずれにしても平穏を破るのが雪なのである。

 統計学的には日本は世界有数の降雪地域だそうだ。シベリアから寒気が、日本海から立ち上る水蒸気を次々に雪に変えて脊梁山脈にぶつけるからだという。日本はさまざまな天災の可能性を持っている。つくづく奇異な環境にあると言える。

降雪予報

 今日の降雪予報はかなり高いらしい。関東の雪予報は難しい。僅かな差で雨に変わり、そうでなければ積雪になる。

 積雪と言っても数cmに過ぎないのだが、この程度の雪でも東京を麻痺させるには十分なのだ。雪の備えのない街にとって降雪は脅威でしかない。雪国の人は呆れるというが、私のように両方の地域に長く暮らした者にとっては、どちらの言い分も分かってしまう。

 北陸に住んでいたとき、雷鳴とともに降りしきる雪に驚いた。みるみるうちに積雪が増え、すべてを埋めつくすかのように見えた雪を懐かしく思う。そんな経験を持っているのにもかかわらず、関東暮らしが長くなるとすっかり油断している。

 年に数回しかない降雪のときに、臆することなく乗り切れるのか。経験も大事だが、油断せず目の前の状況に対応することが必要だろう。

気温急降下

 このところ春を通り越して初夏のような日差しがあったが、今日から気温が急降下するらしい。三寒四温とは言うがかなり極端である。東京では多くの外国人観光客を見かけるが、今日の気温を体験した人には明日以降がかなり厳しいものに感じるかもしれない。暑さも寒さも雨も雪もある日本の自然を体感するにはいい機会かもしれないが。

 問題は体調の維持だ。今年は早くから対策薬を飲んでいたのに今日は花粉症の症状が出ている。さらに寒さで風邪など引いたら大変だ。インフルエンザもコロナも相変わらず流行っているらしい。これらを防ぐ大前提が免疫力の維持らしい。その免疫力を下げるのがストレスというから、とても厄介だ。ストレスに関してはもうほとんど配偶者のようなものでいつもそばにいるのだから。

 そのようないろいろ克服しなくてはならないことがあるのに、仕事は相変わらず山積している。しかも三月である。こうなったらもうドラマチックな展開を楽しむしかない。翻弄される自分を俯瞰して楽しもう。意外といい見世物になっているかもしれない。

アメリカの暴走

 アメリカ大統領トランプ氏とウクライナ大統領のゼレンスキー氏との交渉決裂のニュースは衝撃的なものだった。首脳の会談というのは大抵が出来レースであり、自身の感情なり本音は出さないものというのが一般の考え方だが今回は違った。報道によればトランプ氏はウクライナには貸しがある。そしていまお前にはカードがない。だからアメリカの言うべきことを聞いて取引に応じるべきだといったことに対して、ゼレンスキー氏が反発したのを米副大統領のバンス氏が追い打ちをかけるように刺激したのが決裂の決定打になったのだという。ウクライナの現状を考えれば平身低頭してアメリカに従うべきなのに反抗するとは何事かという論理なのだろう。この政権の基本である取引によって自国に有利な状況にする。弱い者には漬け込み、強いものには交渉で妥協させるという考え方が端的に表れた。

 この件に関して欧州諸国の大半はウクライナ側についた。NATO諸国にとってはロシアの脅威が最大の課題であり、アメリカ的な取引で解決するという余裕はない。ロシアよりのアメリカ外交は西側諸国としては最もしてはならない愚策と映ったのだろう。イタリアの首脳は西側の分断はロシアの利としかならないと警告しているらしいが、思うにトランプ氏の今回のふるまいには忸怩たるものがあるに違いない。

 ゼレンスキー氏にとっては自国のアイデンティティを何とか保たなくてはならない。いくら劣勢にあるとは言え、プーチンとつながったアメリカの言いなりになれなかったのだろう。トランプ氏の側近にはバランス感覚を持った人はいないようで、交渉に勝つことだけに関心を持ちすぎて最終的な利益を見通す力が欠けているようだ。アメリカのこのような振る舞いが続けば、国際情勢は一層殺伐としたものになる。大国が大国然とできず、自己利益のためには小国を無視するか潰しにかかる可能性が高いことが今回の事件で周知されたのである。

 これは日本にとっても同じであり、アメリカの同盟国のすべてにとって同様な問題といえる。アメリカに利するものであれば人材・資材をを与えるが、そうでなければ関与しない。そういわれれば有事の際にアメリカに依存するのは絶対の保障にはなりえないということだろう。

 この件に関して日本もアメリカ依存から脱却すべきだという意見がある。中には核兵器を持ち他国に対抗できる軍事力を持つべきだというものまである。おそらく、日本以外の国も同じようなことを考えた人が増えたのだろう。トランプ氏が挙げた第3次世界大戦のきっかけは実は彼自身が齎している。

3月に思う国語教育の未来

 3月になった。私の仕事にとってはまとめの月である。いろいろなことを省みながら次年度の計画を立てる大切な期間ということになる。学校は同じことを繰り返しているから楽だという人もいるが、そんな状況ではない。生徒の気質は個々人で異なる。また世代ごとの傾向も変わってきている。加えて子供たちを取り巻く世界が急速に変化していることもある。

 このブログでも繰り返し書いているが、いわゆるZ世代の国語力はある方面では危機的だ。自分で文章を組み立てることをしないから、論理の立て方が甘い。検索して得た知識(もどき)は多彩だが、その背景にある要素についてはあまり知らない。ネガティブなイメージを持つ言葉をふさわしくない場面で使っても気が付かないことが多いのはその一例だ。

 3月に考える来年度の計画としてこの国語力の教育の見直しを考えている。語彙力、文法力、論理構成力などはしっかり固めるのにはどうすればいいのか。言葉の裏側にある歴史、背景、エピソードを教えるのにはどうすればいいのか。自分で考える前に生成AIに頼ってしまう子どもをどう指導すればいいのだろうか。それを一つずつ考えている。

 実は私もしばしば生成AIに相談することがある。その回答が即答され、中には明らかな間違いがあるが、役に立つこともある。おそらくこれからの世代にとってはこのようなAIとの会話も必要になってくるのだろう。そのためには何をどのように相談するのか、返答の内容をどのように評価するのかが大事になってくる。やはりここで必要なのは国語力だ。既存の事実や現象を検索することは確かに早いが、それを総合して未知の問題を考察するためにはやはり自身の言語運用力が必要になる。それを開発するのがこれからの国語教員の仕事になるのだろう。

 もうこの仕事ができるのもわずかだが、後生のために最後の知恵を振り絞りたい。教員人生の締めくくりとしてはやりがいがあることだ。

知識を詰め込む学校は不要なのか

 知識を詰め込んで何になるという話は昔からあった。社会に出てから使うことがない知識で人間を秤にかけるのはおかしいというものだ。いま、ネットでなんでも検索できる(ような気がする)時代となり、学校で学ぶ知識は意味があるのかという問いが立て直されている。

 この疑問には考えるべきことがいくつかある。まずは知識の多さがその人の価値と当価値になっていたことは今までもなかったといえる。博覧強記は一種のあこがれであるが、それが人間の価値かといえばそれは違うといえるだろう。知識の量ではなく、それを生活にどれだけ使うことができるのかという運用力の方が実は大切だ。

 人間の記憶力には限界があり、何かに記録しなければどんどんなくなってしまう。それをとどめたのが文字であり、その集まりの文章である。紙面が発明された後は、記憶の蓄積量が飛躍的に増えた。巻子本から冊子へと変化し、印刷技術が発達すると小さな紙面に大量の情報が載せられるようになり、しかも大量のコピーができた。それがデジタル化したことでさらに飛躍的な情報量が蓄積され、高速の検索技術によって情報を取り出すことははるかに容易になった。だから、今となっては単に情報を記憶するだけならば機械に任せればいいということになる。好きな時に好きな場所で情報を取り出すことができる。そんな錯覚を持てるのが現代の情報環境だ。

 最初の話題に戻る。このような情報化社会においていちいち学校で学ぶ価値はあるのかということだ。過激な意見を持つ人は学校に行く価値などないという人もいる。知識や情報はインターネットから取り出せばいいというのだ。おそらく人の気を惹くためのレトリックだろうが、本当にそう信じているのならその人の将来が不安になる。

 情報をインターネットから引き出すための基準はどこにあるのだろう。おそらくばらばらのパズルのピースを個別で取り出しても組み合わせることは難しい。どんな絵が描かれているのかが予め分かっているか、その類型的なものを知っていればかなりのヒントになる。猫の写真のパズルだとすれば、猫がどのようなものなのか、どんな特徴があるのかを知っていることがピースを取り上げるのに大いに役立つ。学校で学ぶのはそうしたヒントになり得る前例を知ることにあるのだろう。

 人間の思考が言葉によって成り立っている以上、言葉の技能を高めることはその人の思考を向上することにつながる。言葉は他人と共有するものであり、個人の専有物ではない。インターネット上に広がる様々な情報も言葉によって表現される。その言葉の力を磨くのも学校の役割だ。ネットを活用するのには機械のスイッチの入れ方やソフトの立ち上げ方を知るだけではなく、情報を読み取る力が欠かせない。

 言葉の深い運用力、概念構成の在り方、様々な知識の基本的な型のようなもの、過去の歴史、研究史の把握などがあって知識は自分のものになる。学校に行くことは意味があると私は確信する。そこで習得する知識の量や質に関しては見直さなくてならないのも事実である。ただ、学校に行かなくても情報検索すればすべて理解できるというのは大きな錯覚であることは確認しておかなくてはならない。最近、いわゆるインフルエンサーと呼ばれる人たちが学校教育不要論を言う人が多い。そういう人の多くは高学歴で自らは学校教育の恩恵を受けているのに、若者にネットさえできればいいといっているのは無責任であり、無教養人を制御しようとする陰謀ではないかと思えるほどだ。そこまでの目的もない脳だろうが。現在の学校教育にはさまざまな問題はあるが、学校自体が無意味なのではなく、運用の仕方を改善すべきものなのだ。

鶏口牛後

 鶏口牛後の故事は歴史的にはうまくいかなかったのだが、その心意気は知るべきだろう。今朝読んだ記事に自分の実力以上の学校に滑り込み合格をした場合、そのまま進んでその学校の劣等生として過ごすのと、一つ下のランクの学校に進学してトップ層に入るのとどちらがいいかというのがあった。その記事の結論は後者を選ぶべきというものだった。

 この話は単純ではない。記事では統計調査の結果も挙げていたが、あくまで確率の問題だ。学習のきっかけが周囲の雰囲気によるか、他者との関係性において自尊心を保てるのかという問題になるだろう。これは個人の気質も関係するから一律に語れない。

 ただ、大樹の陰に寄り添う気持ちしかなければ進歩は望めないのは確かだ。結局は自分の目的意識を保てるかどうかで、環境要因以外の何かに基づく向上心を持つことが大事なのだろう。その際、口になれという気持ちは持っていなくてはなるまい。

 私自身はいつも滑り込みの人生を送ってきたので、劣等生として始める耐性はそれなりにはあったのだろう。途中でやりたいことが見つかれば浮上することはできる。後輩諸君に言えることがあるとすれば、鶏でも牛でもいいからしたたかに過ごして自分の目標を探すべきだということだ。

強者の論理

 アメリカの最近の政策を見るに強者の論理がまかり通っているように思えてならない。アメリカが世界の中で政治的経済的に抜群の位置にあるのは周知のとおりである。しかし、昨今の情勢をみるにその威力にはかなり陰りが見えている。それを知るアメリカの上層部は必至で対面を保とうとしている。それでも止まらないのは強者の理論である。

 強いものは弱いものを統治すべきであるという基本的な論理はアメリカの歴史そのものである。アメリカ国内でそれが伝説となるのはよいが、それを他国にも無理に当てはめると様々な問題が生じる。結局は価値観の押し付けだ。相手が中国のときはそうした声が出やすいのだが、アメリカになると黙してしまう人が多い。

 例えばアラブ地域の歴史をみるに、古代から他地域の干渉を受け、そのたびに歪みが生じている。ローマが衰退すると中世のヨーロッパ諸国が介入し、モンゴル帝国の影響も受け、近代になると英仏に支配される。冷戦注文も、東西の影響を受け続け、その後アメリカがイスラエル支援や対イラクなどで関与した。

 ヨーロッパに近く、民族や宗教は違う。なおかつ、統一的な権力を持ち得なかった地域の運命と言えばそれまでだ。しかし、それを他の地域の大国が自分の利益のために恣にしてきたことは間違いない。

 その大国がいまはアメリカである。自国の利益を最優先し、自らの利権のために振る舞うことが正義のように自認する大国が、自らの論理を振りかざす現実に強い危惧を禁じ得ない。同盟国であっても意見すべきときはするべきではないか。

 

見た目レトロな

 最新の技術を使いながらも外見上はレトロな雰囲気を持つものに魅力を感じている。昭和のレトロ感を持ちながら実は高性能な家電類があると、何となく憧れてしまう。

 何年か前のニュースに、中古車のエンジンを最新のもの、もしくは電動モーターに換装する業者があると報じていた。日本にもあるらしい。テスラや日産などの電気自動車のモーターを取り出してクラシックカーに載せるというのだから、2台分の料金と改造費用もかかる。マニアの贅沢品以外に言いようがない。

 ただ、旧車に装着するためのモーターだけを販売することが普及すれば、見た目と性能のギャップが大きな機械がもっと現れるのかもしれない。松本零士の漫画のような、アナクロニズムは以外に実現可能かもしれないと思うのだ。

暖かくなると

 強烈な寒波が過ぎて今度はかなり暖かくなるという予報がでている。次の日曜日には20℃近くまで気温が上昇する。梅の花も一気に開くはずだ。

 開くのは風流な花だけではない。杉や檜の花粉飛散も始まる。対策薬をすでに服用し始めているが、今年は量が多いとのニュースもあり、戦々恐々としている。あるときまでは何ともないが限度を越えると急に症状が出るのが厄介だ。

 気温の急激な変化は体調にも影響を及ぼす。極寒の時期よりかえって風邪をひきやすくなるのは油断のためだろうか。春の到来は喜ぶべきだが、私にとっては克服しなくてはならないことがいくつもある。