楽しみ不足

 いまの時勢では仕方がないのかもしれない。ただ、心の潤いという面において著しく低下しているのは紛れもない事実だ。

 文化的な催しが制限され、中止されるものも多数ある現状では、精神的な充実感を得る機会が少ない。もちろん、自ら創作し活動することはできる。しかし、そこにはおのずと限界がある。他者から受ける感動がこの方面ではもっとも大切な要素だと考える。しかし、それができない。

 非接触、遠距離の文化交流の試みはいくつもある。ただ、そこから得られるものは限定的だ。その枠で何ができるのかをいま一度考え直すべきだ。

制約の中で

 日本文化を語る際に制約を前提とするという思考の枠組みがあることを思いだす。自由に表現するというより、型に当てはめてその中で創作するということが伝統になっている。

 文学で言えば短歌や俳句のような定型詩、絵画で言えば構図や配色などの型がそれに当たる。無形のものにもそれはある。芸事や武道などにも型があり、まずそこから教えられる。

 こうした制約下の創作という方法は昨今の生活体系にも活用されるのかもしれない。できることを組み合わせて何とかしてしまう。そこに価値観を見い出し、新たな価値を創出するのである。私たちはこの国の伝統に学ぶべきではないか。 

いろんな先生に

 小学校の高学年に教科担当制を導入することが検討されているようだ。人材確保などがうまく行くのかという疑問はあるが基本的には賛成である。

 担任との相性で多くが決まる小学校だが、この制度はいろいろな大人と接することができるのがよい。教える方も授業内容に集中することができるはずだ。

 ただ発達段階を考えれば、児童の気質や能力、家庭環境などの情報共有が一層大切になる。また学習内容や負担に対しても統一感が求められるはずだ。そういうコーディネーターがいた方がよい。

 教え方の質が問われる時代になったことを踏まえて様々な試みはなされるべきだと考える。

夜行廃止

 東海道線の夜行快速が廃止になるらしい。かつては普通という名で走っていた。学生時代私も乗ったことがある。廃止は残念だが今の情勢では仕方がない。

 格安切符と組み合わせるとかつては1万円で特急券なしでかなり遠くまで行くことができた。予約なしでふらりと乗れるのもよかった。しかし、いまはより安い夜行バスが走り、ネット予約で確実に席が確保できる。座席の座り心地や居眠りしたあとの安心感などバスの方が勝っていると考える人が多い。

 夜行列車はコロナウイルスの影響前から衰退の要因ばかりだった。よほどの改革がなければ復活は難しい。残念だが、思い出話の種になってしまうのだろう。

熱量

 首相の発言には熱量が足りないと指摘した同僚議員がいたとのこと。それを指摘したことを他に語るその人の熱量は間違っていないのだろうか。

 忠告や助言は勇気ある行動だと考える。それができないで停滞することは公共の福祉にも関わる。ただそれを他に誇る様では売名に過ぎないように感じる。詳細が分からないので検討違いをしている可能性もある。

 混乱時きは清濁が意図的にも無意識にも併流する。見極めねばならない。

成功は失敗のもと

 今読んでいる野口悠紀雄『リープフロッグ』は経済的な弱者がその条件ゆえに一気に先頭に立っていくという逆転の経済仮説を述べたもので興味深い。強者と弱者の格差が年々開いていくと考えるのが一般的であるが、実は条件さえそろえば一気に状況が変わるというのだ。

 氏は中国を例えにしてこの現象を説明する。古代中国は様々な発明をし、強大な王国を作り上げたものの、その体制を保全するために保守化し、欧米や後進の日本にリープフロッグされたが、いま欧米日本が既得権益を維持するために新技術を開発する力を持ちながらその先に踏み出せないうちに、中国が再逆転したというものだ。これはある意味積極的な発展観であり興味深い。逆転されたら再逆転しようというモチベーションにもつながるものだ。

 ただ、気になったのは現状に満足しているとそれが滅びの原因となっていくということだ。つねに次の段階を考察してあらゆる可能性を考えていかなくてはならないということになる。このレベルにも当てはまることだろう。

雨

 私の住まいでは久しぶりの雨になっている。いつもかばんに傘を入れているのは北陸に住んでいた頃からの習慣だ。3年前の今日は雪だった。今日も雪だるまのアイコンが出ているが今のところその気配はない。何故か雨が降るとほっとする。

名を残す

 子どものころは、そしてつい最近まで自分の名前が歴史に残ることを理想として考えていた。人生は短し、芸術は長しという格言も座右の銘としてあった。しかし、最近この考えはいかがなものかと考え始めている。

 死後に名を残すということは結局は他人の行為なのだろう。自分が努力したところでそれは自己満足に過ぎない。自分の存在を記憶するのか忘却するのかは他人任せなのだ。だからそれを自分自身が企図することは実はおかしいのだ。私は最近はそう考えている。

 もしかしたら、これは自分が何もできていないことの自己弁護なのかもしれない。名誉というのものは実に厄介だ。

地域力

 コミュニティ・スクールという考え方がある。地域の住民、団体、企業が協同で学校と連携して子どもたちに有益な活動を提供するというものだ。基本的に賛成である。

 学校だけに教育を任せることには限界がある。特に多忙を極める教員の効率が低下しているのは大問題だ。教育立国と言っても過言ではない日本の教育が、いくつもの任務を兼任し、片手間で授業をしている(そうせざるを得ない)教員に委ねられているのは早急に改善すべきだ。

 教科以外の教育、例えば地域の産業や歴史に関する知識などは、訓練を受けた地域の非教員にまかせてもよい。心の悩みなどの相談相手、保護者対応なども場合によっては地域の応援で可能だ。学校を地域住民の語り合いの場にすればいろいろな問題が解決できるかもしれない。

 ただ、学校という場の特殊性も考えなければなるまい。日常の秩序から距離をおいた学びの場であることは忘れてはいけないだろう。誰にも努力すれば機会が与えられる空間を学校は用意しなくてはならない。

 少子化の中で人々が次世代の教育に関心を持つことは大切だ。地域で互助の環境が具現化すれば、子育ての不安が軽減して出生率が上がるかもしれない。地域の安全性、治安も向上するだろう。

 学校と地域の連携システムは管理監督をどうするのかといった問題を克服してぜひ実現するべきである。

浮遊

 曖昧なことを書く。私たちの意識はどうしてかくも動揺するのだろう。常に揺れていてとどまることがない。身近なことで心を悩ませるときと、大きなことを考えてやや落ち着いているときとでは随分違う。

 幽体離脱して己を見返せばおそらく決まった範囲でうごめく小さな生物に過ぎない。その都度起きる感情は小さなエピソードに過ぎないのだろう。その姿を自分で見ることができたらどれほど気が楽になるか。

 私はせめて山に登らなくてはならないと考えている。そこに己はいなくても、生活圏を俯瞰することで何かが分かるかも知れない。