自立のために

 主体的な行動をするためには自立が欠かせない。常に誰かにサポートされていると自分で歩くことができなくなる。自分の筋骨を使って歩くことは苦痛を伴うこともある。しかし、それが大切なのかもしれない。

 私たちは効率化ということに執心しすぎている。生産性と表現することもある。これらは確かにとても大切だが、それだけではない。効率性を築くにはたくさんの無駄が経験される必要がある。その中で飛躍が生まれることがある。始めから最短距離を走ることばかりを考えるようではうまくいかない。

 教育現場にいる私にとっては失敗をさせず、好成績を取らせることが評価基準になっている。果たしてそうなのだろうか。もしかしたら、これは間違っているのかもしれない。安全網を用意しながら、生徒諸君にいろいろな失敗体験をさせることが、本当の教育なのではないか。最近はそのように考えている。

雲の展覧会

 8月もまもなく終わる。今朝はさまざまな形の雲が流れている。雨雲も、はるか上空の雲も同居している。季節の変わり目を感じる。まだ暑い日は続くのだろうが季節が確実に進んでいるのは確かだ。雲の展覧会と考えることにしたい。

テレワーク

 コロナウィルス感染予防のために普及したテレワークを、恒常的に実施することを決定した企業が出てきた。営業部門のみならず、生産管理部門にも導入するのだという。

 これによって感染による営業停止のリスクは低減される。交通費、光熱費などのコスト削減も期待できるのかもしれない。運用の仕方次第だが、営業時間の拘束も緩和される。

 一方で非常時への対応や、通信障害などのリスクもある。回線が止まればすべて終わりとなってはもともこもない。さらに社員の連帯感の確保は大きな課題だ。かつてはこれが原動力で難局を乗り切ってきた。その奥の手が封じられることにもなりかねない。

 リモートワークは今の騒動が発声する以前からいずれは実施されると考えられていたことだ。結果的に見切り発車をさせられている状況にあるといえる。走りながら考えるしかない。果たして距離をおいたチームワークは成り立つのかと。

立て直し

 最近、個人的にさまざまな困難にあって消耗している。おそらく数年後に振り返ることがあればさほどでもないのかもしれない。ただ、現在の自分の器量にとっては辛い局面にあることは事実だ。

 下降局面は何もかもが恐ろしく見えるものだ。ただ、下降したままの状態が続くはずはない。すべては波のように繰り返すのだ。だから、落下しても目を閉じてはいけない。次の段落のストーリーを考えよう。

 何か新しいことを始める機会でもある。まだ見えていない風景を楽しみにしよう。周りの人が幸せになることをしよう。それがおそらく今できることなのだろう。

自分の姿をみる自分

 なんでこんなに悲しいんだろうと思うことがある。そういう考え方をしているときは自分を客観視できているのかもしれない。自分の境遇の辛さを感じられることはもしかしたらそれだけ余裕があるのかもしてない。自分の姿を自分で見られることは一種の能力と言える。

忘れ物

 私はいろいろなことをすぐに忘れる方ではないかと自覚する。何十年も忘れずにいて、宿願を果たしたというような人の話を聞くにつれ、自分には無理だと感じるのだ。

 忘れることは知識の損失だ。悲しいほど辛い思いを伴うこともあるが、大抵のものは自然に抜け落ちている。気がついたら背負っていた荷物が減っていたという感じだ。ただ、この比喩で言うならば身軽になるための手段ということもできる。飽和する前に予め内容を減らしておくということになる。

 忘れ物を繰り返すことは辛い。しかし、忘れることで救われることもあるはずだ。

猛暑の峠

 連日、かなり暑い。マスクをつけたままこの季節を迎えたことは初めての経験であったが一向に慣れない。苦しさが湧きあがって体内にとどまる感覚がある。

 予報によればそれでも来週からは少しずつこの暑さも終息に向かうらしい。やらねばならないことの多くがそのままになっていることを思い出す必要がある。そして体調を整えてまた挑戦を始めるのだ。

 猛暑で衰弱した身体は、必ず環境の好転とともに復活する。いまは耐えるべきときなのだ。

自虐と自尊

 日本人は自分について語るのが好きだ。その特殊性、異質性に触れる言説は特に反応してしまう。これは定期的な日本人論ブームという形で現れている。

 特殊性がプラス方面にふれるときには、その優秀性や道徳心の強さなどが強調される。動画サイトをみると日本人はこんなに優れているとか、海外で絶賛されているといった情報を並べるものがいくらでもある。そしてその多くが根拠が薄く、印象批評の域を出ない。

 ネガティブな内容の記事も好んで読まれる。こんなところがおかしい。間違っているというネットニュース記事のコメントをみると、反論とともに同意の意見のリアクションが多数集まる。ネガティブかポジティブかは無関係で日本人という括りで話題がなされること自体が好きなのだ。

 自分のことを気にする風土はこの国の歴史と関係があるという。他者からどう見られているのかが行動の規範となることは随所で見られることだ。これが悪い訳ではないが、ややもすれば本質を見失う原因になるかもしれない。他者からの視点ではなく自らの判断でことを運ばなくてはならないのだ。

 かくいう私も私はというべきところを我々はしばしば言ってしまう。日本人の平均像を勝手に作り出し、勝手に理想化する。それを他国からどうみられているのかという基準で一元化してしまう。この考え方はかなり根強いものだ。多様化する日本のあり方に考え方わシフトして、より自主的な言動を選ぶことをしなければならないのではないだろうか。

 

対話型をどうするのか

 新しい学力観の目標を達成するためには自主的な表現力の養成が欠かせない。自主性を育てることは難しいが、表現力はある程度ならば短期的な教育でも伸びる。大切なのは表現する機会を与えることだ。

 授業の中で主体的な表現をさせる機会に対話や討論がある。それが今できない状況にあることは深刻だ。工夫がいる。よく考えるとこれまでやってきた話し合いは効果もあったが無駄も多かった。この機会にそれを考え直すのもいい。対面して話し合えないのなら、離れてやるか、いっそのことマイムにしてしまうのもいい。言葉がいかに大切なのかを実感させる契機にはなる。

 対話することの意味を今ほど考えさせられる日々はない。イノベーションを起こすならばいまだ。