月額定額

 いわゆるサブスクリプションに相当するサービスを無印良品が家具の分野で始めるという。商品を買い取るのではなく、定額料金を払って借りる方法である。消費者側からすれば低額で商品を導入できることや、一定期間の終了後に処分する費用を節約することができる。また企業側からすれば顧客とのつながりを保つことができることや、安定収入を得られるというメリットがある。

 実は福祉の分野などでは家具の定額レンタルは存在している。介護ベッドなどのレンタルは一般的だ。それが一般家財にも及ぶと生活の体系は変化していく可能性がある。かつては花嫁道具として箪笥や長持ちなどが使われ、生涯に渡って使い続ける財産として家具は考えられていた。それが借りたい時に定額で借りることができれば、モノへの執着はなくならざるを得ない。自分のものであっても所有権はないという感覚は当初は馴染みにくいだろう。

 しかし、現代人の多くは住居さえも定借制であり、サブスクはもはや完全に市民権を得ている。モノに執着し、モノとの関係性で築き上げて来た日本の文化が大きな転換点にあることは確かであろう。不景気で購買力が低下している日本人にとってこのビジネススタイルは案外早く定着していくかもしれない。

対応

 ウイルス感染対策の深刻化が進んでいる。ただ、昨年と違うのは心理的恐怖感が弱いということだ。何とかなると考えている人、所詮防疫は不可能だと諦めている人が多い。

 距離を離したり、ついたてを置いたりするのはそれなりに効果はあるというがこれも多くの人は納得していない。規制されないよう形を整えていると感じている。

 専門家の皆さんにはもっと積極的に発言をしていただきたい。何が有効で何が無駄なのかを少しでも分かれば新たな動きがあるかもしれない。

 今朝は昨日に比べると気温が高い。しかし、路面にはうっすらと白いものが見える。地面の方が顕著で霜がおりていることが分かる。

 昨日降った雨があさの放射冷却で氷点に達したのかもしれない。結局雪にはならなかったが景色は寒中の様を描いているのだ。

 少し寒さにも慣れてきた。だが油断はならない。相変わらず寒さとは無縁の脅威が続いているのだから。

感情的な描写を論理的に考える

 小説の読解の方法の基本は、登場人物の心理の変化を正確にたどることである。これができれば小説の世界を深く理解できる。現実の人間の世界はかなり複雑な構造をとる。人間の心理というのは数式に表せるほど単純ではない。いろいろなことを同時に考えており、局面においてその感情の一部分が顔を出してくる。だから人間というのは実に複雑である。

 小説の世界は作者によって一定の世界観を付与されており、その登場人物も設定上の制約の中で活動する。かわいい女の子はいつまでたっても無邪気なままだし、おんぼろの世界の中で何とか自己実現をしようとしている。現実とは似て非なる世界の中である。その造形の中で私たちは人間について考えることになる。

 小説は筆者の仕込んだ構図の中に一度没入し、さらにそこから浮き上がって俯瞰することで深い味わいを受け取ることができる。私が教室で教えたいのはその点であり、いつもそれを目指しては失敗している。

成人の日

 日本では今日が成人の日という祝日である。本来1月15日に行われていたが2000年から1月の第2月曜日となり、変動して連休を形成するようになった。この日はこの一年で成人となった人、というよりも成人の日の時点で20歳の人が行う行事である。

 2021年を新成人として迎える日本人の人口は約124万人で、昨年より微増したものの人口の1%に満たず、今後は急速に減少に進む。出生率が下がり続ける日本では人口問題は深刻だ。昨年のコロナ禍がもたらした影響も懸念される。国家の縮小化は避けられないのであれば、それに応じた変化をしていくしかない。今年成人を迎えたみなさんにはそれに対応していかねばならないだろう。

 成人だけではなく、国民として考えなくてはならないのは自らのいる社会なり共同体の共通利益を考えるという視点だ。自分だけよければいいという時代は終焉しつつある。自分だけ勝ち残るという発想自体が空論であることは、少し国際社会への知識を広げれば見えてくる。自分の幸福を追求するためには他者の利益をも考えなくてはならないという仕組みを皆で理解する必要があるのだろう。

 私のような世代にとっては引退を極力しないこと、そして健康年齢を保ち福祉面での社会負担をかけないようにすることが究極の努力目標だろう。そのためには心身の健全を保たねばならない。また第二、第三の仕事を考えていかなくてはなるまい。やるべきことがまだたくさんある。若者の成人を祝うことだけではなく、自らが別の意味での発展を意識してかなくてはならないと考えている。

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自分が属するのは

  エマニュエル・トッド『大分断』というインタビューを文章化した書籍を読んでみた。一学者の意見ながらヨーロッパの分断の様がうかがえるものであった。筆者の意見はかなり手厳しい。フランス人が国家に対する尊敬の念を忘れつつあるという意見は印象に残った。市民レベルを上げるために行われるはずの教育が、自己利益を守るためのスキルのようなものに成り下がっているという指摘はなにも彼の国だけのものではない。

 自国ファーストの考え方にも抵抗があるが、自国なり自分の共同体を全く考えないことも困りものだ。そのバランを考えることがこれからの社会には必要になる。人間は社会的な生き物であり、他と連携することで生きることができる。その連携先はリアルなものでなくてはならない。ネットでつながっている「ともだち」が単なる購読者にすぎないことを思い出さなくてはならない。自分が何に属していてどのような運命共同体にあるのかを考えなくてはならないのだ。

 自分の属する集団を知り、その利となるもの求め、害となるものを退けること。それがこれから必要な生き方になるのだろう。

実態

 手持ちの米国株式がすべて前日より上がった。少額であるが社会勉強のために続けているものだ。もとから儲けは期待していない。言いたいのはアメリカ議会に歴史的な乱入事件が起きたのにも関わらず、株価が上昇を続けているのには驚いている。目先より将来の可能性で決まるというが。なんとも不思議な世界だ。

思いやり

 ソーシャルディスタンスをどのように考えるのか。揺れてきているかもしれない。そもそも感染予防は誰のためなのかという問いを再考してみる。

 未曾有のパンデミックが人々を不安に陥れた昨年の状況においてソーシャルディスタンス(Social distancing)は日本では密閉・密集・密接をさけるとして「さんみつ」として人々の共通理解となっている。それは自らの感染を防ぐという意味でまずは認知されたはずである。日本のように社会性の強い国ではこれはそのまま社会の安定という発想につながった。自分が感染しないことは周囲に感染させないということであり、それが自らをふくむ家族・組織・共同体の利益になるという考えである。だから他国と比較して手指消毒・マスク着用がいち早く行われ、さらに普及率も高い。

 ところが、長く続けているうちにさまざまな解釈が行われ、この行動が変容してきている。初期にはアジア人は感染しにくいという根拠なき判断であり、最近は重篤化するのは高齢者か既往症を持つ人だけであり、若年層は感染しても軽症で済むというものである。いずれも科学的に証明はされていないようだが、ここまでの経験ではある程度あたっているかもしれない。そこで当初生まれた社会的な防疫という観点が薄れ、自分が感染しない、もしくは重篤化しなければいいという考え方が台頭してきているのだ。これは経済活動の維持論とも連動して強いものになっている。

 真実は分からない。ただ言えることは同じウイルスで死ぬ人がいてそれを防ぐために悪戦苦闘している人がおり、同じように働いていても日々労働の機会が奪われている人がいるということだ。その裏で自らは発症することなくキャリアーとなり、自らは現場に立つことなく利益を増やしている人々がいるにもかかわらず。

 自戒を含めて言うならば、人間は社会的な生き物として進化したことを忘れてはならないのではないか。自分が良ければいいという考えが結果的に破綻することを私たちはすべての学問、教育、経験で獲得していたのではなかったのか。あるいはもっと奥にある遺伝情報に組み込まれているのではないか。

 思いやりを持ちましょうというのは感情レベルで話されることが多い。しかし実はもっと切実なものなのかもしれない。私たちが生きていくうえで不可欠なスキルが実はこの日常語の中にあるのかもしれない。

人日

 気がつけば新年も一週間が過ぎた。気分一新で始まりたかった年始も、いきなりウイルス対策に迫られている。1月7日は古代の宮廷では節日とされ、現代は七草という民間行事がある。厄祓いや生命力復活の願いが込められた日と考えられる。自然のパワーを味方にして前を向いて行こう。

時短

 明日にでも緊急事態宣言が出されようとしている。状況からして回避はまず無理だろう。すると勤務時間も短縮される可能性が出てくる。以前は経験がなかったが今回はそれに備えることも可能だ。

 まずは仕事の選択と効率化を目指すしかない。総量は下がらざるを得ない。優先順位を決めて諦めるものはやめる。優先順位の高いものをやり残さないようにするべきだ。

 私の仕事はリモートワークにはならないはずだ。時間と空間の拘束もある。ただそれを自らの生活のリズムとし、メリハリをつけなくてはなるまい。デメリットはメリットでもある。

 新しい生活様式などと悠長にかまえていられない。やるべきことを少しずつやっていくだけだ。