7月4日に行われる都議会議員選挙に向けての街頭演説が盛んになっている。私の住む地域では都知事の関係する政党の立候補者はいない。東京の選挙は国政にも通じるというが実はちょっと特殊だ。多党分裂で何が政策なのかも把握が難しい。そもそも志ある人なのか、単なる売名行為なのかも怪しい人もいる。
コロナとオリンピックの特殊な事情がある今回の選挙だが、それほど盛り上がらない。都民の期待はあまり高くない。しかし、いい加減に見過ごしておいて後でひどい目に会うものも嫌だ。やることはやっておかなくてはなるまい。
日々の思いを言葉にして
7月4日に行われる都議会議員選挙に向けての街頭演説が盛んになっている。私の住む地域では都知事の関係する政党の立候補者はいない。東京の選挙は国政にも通じるというが実はちょっと特殊だ。多党分裂で何が政策なのかも把握が難しい。そもそも志ある人なのか、単なる売名行為なのかも怪しい人もいる。
コロナとオリンピックの特殊な事情がある今回の選挙だが、それほど盛り上がらない。都民の期待はあまり高くない。しかし、いい加減に見過ごしておいて後でひどい目に会うものも嫌だ。やることはやっておかなくてはなるまい。
感染者が職場で出たということで一時混乱した。結果的に測定の間違いであることが分かりなんでもなかったのだが、簡易検査の段階では黄信号が灯ったのである。
最終的には笑い話になったのだが、これで業務が止まったことは確かだ。私としては余裕のある一日を過ごすことができたのでむしろ感謝している。思うに一人の健康がここまで集団を動かすという事態は現在特有の問題である。変だが個人の存在が大きく感じられていることになる。
こうした騒動はこれからも何度もありそうだ。恐らく数年後には本当の笑い話になるだろう。いや、そうしなければならない。
吉川英治記念館を10年ぶりに再訪した。青梅市に移管され運営されていた。雨が降ったあとで、かえって庭園の緑が映えていた。
大衆小説の大家として成功したこの作家は幼少期から青年期にかけては恵まれておらず、最初の結婚も破綻するなど前半生は苦難の連続だったようだ。加えて関東大震災に第二次世界大戦終結までの混乱があった。
その中で、たたき上げの文筆活動が成功し流行作家になった。後半生は交友関係にも恵まれていたらしく、様々な人々との交流があったようだ。展示されていた吉川英治に宛てた様々な人々の書簡の多くは親しみの伺える内容であり、そこに人柄が浮かび上がる。
吉川英治の作品の多くが分かりやすく人間味に溢れているのも、そのような人柄によるものかも知れないと察したのである。
台風が接近するという予報が出た。まだ正確な予報ではないようだがら予報円の中に我が生活圏が入っていた。梅雨の後半は大雨の被害が出やすい。何事もないことを祈りたい。
通勤途中の道端に椿の実がなっているのを見つけた。小さな林檎のような色をしている。ただもっと球形の可愛らしいのものであった。
中にある種子からは椿油が取れるらしい。子どものころ伊豆大島に行った。土産物屋で母が買ったのは椿油だったことからその存在を知るようになった。もっとも子どもたちにとっては椿の種を何かでコーティングして作ったキーホルダーの方が気になったものだった。
椿など庭木としてはありきたりのもので、花はいつも注目してきた。それなのに実の存在を知り、まじまじと見入ったのは初めてだ。見逃していることのなんと多いことか。恐らく他にも目の前にありながら見えていないものはたくさんあるのだろう。
同じものでも色が異なるだけで気分が変わることがある。図案や造形が加わればもっと効果が大きい。私は結構見た目で左右されている。
ならば身の回りにあるものにデザインを施してみよう。といっても画才はないので既成のものを貼り付けるだけである。シールもいいが色紙を貼るだけでも変わる。毎日使っているノートに千代紙を貼れば親しみが湧いて手に取る回数が増える。それだけで効率が上がるとは言えないが何かに変化が起きることは確かだ。
散財しなくてもデザインの魔法はかけられそうだ。いろいろ試してみたい。
抽象的な絵画は苦手だった。単なる色の羅列のように見える絵はよく分からないし、題名をみても無題とあったりするとお手上げだ。笑ってしまったり、時にはイライラすることもあった。
ところが先日、件の絵画に対したとき不思議な思いになった。脳の何かに作用したのかめまいのようなものを感じたのだ。そこにいろいろな幻影が浮かんだものもある。
抽象的絵画の中には意図的に描かれたものが多いようだが、中には画家が実際にそのように見えたものを具現化したものもあるということだ。ならばこれは脳の深い層にあるものの見え方と関係を持っているのかもしれない。そう思うからそう見えるだけかもしれないが。
美術館に行くことが脳の深部に触れることに繋がることは以前から気づいていたが、それを痛感するようになっている。
美術館の大半は財団の運営によるものだ。財を成した経営者が社会還元という名目で美術品を買い、それを美術館という形で一般に開放する。それはそれでありがたい。もし芸術が一部の権力者や財産家に独占されていたとしたならば、世の中は面白くないものになるだろう。
財産の使い道はいろいろあるが社会還元という視点は欠かせないと思う。私には分けるべき財はないので、せめてささやかなボランティア活動でもしてみようと思う。もう少しで退職の時が来るだろうが、大切なのはその後だ。世の中のために何ができるのかを考えてみたい。
もし私に財産があるとしたら、そういう思いになれることくらいだろう。
本を処分するときに様々な痛みを感じることはなかなか理解されなくなっている気がする。たまにしか読まないものに容積を譲り渡すのは愚かだとさえいう人もいる。そして反論がどんどんしにくくなる。
書籍もデータベース化されると物体としての本の価値は消滅するかのように思える。しかし本当にそうだろうか。書棚の前に立ち背表紙のタイトルに関心を惹かれることには意味がないのだろうか。いつか読まれることを待っている本に私は大きな意義を感じている。
おかしいのだろうか。
実家の垣根の剪定を少しだけやってきた。椿やみかん、笹などが伸びすぎている中には棘のある蔓草もあって厄介だった。ほとんど手つかずになったのが寂しい。家は主とともに姿を変えてしまう。