条件変更

 私たちの身の回りのものはすべて人間の平均的なサイズに合わせて設計されている。だから平均から遠ざかるととても不便だ。その範囲内で生活しているとなかなかこの事実に気づかない。

 ところがその意味に突然気づかされることがある。私はここ数年老眼が進んで小さな文字がよく読めない。説明書の類はほぼ難しい。この障害はゆっくり始まって、漸増していく。私は通勤電車のなかでスマートフォンでこのブログを書くことが多い。細かいデジタルキーをタップできるのもいつまでだろうか。

 急性のものもある。最近、左膝に水がたまり歩行に痛みを覚えるようになった。幸い医師の力を借りてかなり回復したが、それまでは大変だった。時に階段の昇降は辛く、あまり使わない駅のエレベーターのお世話になり続けた。こうなるとちょっとの段差が越えられなくなる。

 ものごとを考える際、思いやりの気持ちが大切だとはよく言うことだが、こうした身体的な条件の違いを考えるべきだろう。実際に起きてしまうと厄介だから、せめて想像の力を発揮して自分とは別の条件の存在を考えるべきだ。

田園風景

 田園の風景を描く作品には魅力がある。ただ、それが画家によって選ばれた空間であることには注意するべきだろう。絵画は偶然の産物ではない。写真だってそれが芸術として撮影されたとき、映像の選択はなされている。

 仮に私が画才を身につけ、田園風景を描くとしたなら何を対象とするだろうか。そびえ立つ高山や、小川のせせらぎ、田中の道を歩く人々などいろいろ思い浮かぶ。ただ、そのどれもがすでにどこかで見たことがある。絵になる風景というものは確かにあり、それ以外を描くことは難しい。

 コンクリートとアスファルトに囲まれた毎日を過ごしている私にとっては田園は憧れの場所だ。だが、もし生まれたときからその地に暮らし、かつ都会の喧騒を知らずに育ったとしたらここまでの感情を抱くだろうか。田園風景が描かれる心的要因はいろいろありそうだ。

大雨の被害

 熱海市で土砂災害が発生し大きな被害がでた。犠牲者に哀悼の意を捧げる。毎年、梅雨の後半にはこのような大規模な水害が発生する。傾斜地の多い森林国である日本の宿命だが、被害は何とか防がなくてはならない。

 土砂災害が起きたとき、たいていの場合、自然破壊を伴う開発が原因だと言われることが多い。今回もそのような指摘がされている。ならばそれをどのように規制し、管理するのかということにもっと議論が向かうべきではないか。

 我が国の常として天災は数多く繰り返されるが、その都度忘却され、同様の被害が繰り返される傾向にある。詳細な記録が残せるようになった現代では過去の災害を克明に保存する手段もあるはずだ。また災害の仕組みを研究する分野も進んできている。この辺りの技術者には大いに活躍してほしい。民間レベルでの口碑のようなものも機能させるべきではないか。

想像力

 ありもしないこと、常識を破ることを考えるのは無意味だと考える向きもある。それよりは実効性があるもの、効率性の高いものを目指すべきだというのが時代の流れだ。なにしろ無駄なく近道をすることばかりを求めすぎる。

 確かにそれは大切なことだろう。無駄なことを繰り返すより、意味のあることを集中的にやった方がいいのは当たり前だ。ただ、それだけではない。無駄、無意味は実はそうではないこともあることを思い至らなくてはなるまい。既定の仕事に関しては人工知能の発達により自動化されていくはずだ。ならば、これからは想像力のほうに注力した方がいい。

 大切なのは想像力だと思う。その意味で文学や芸術といった領域は復権すべきではないか。作り話ができるのが人間の特権ならばそれを使うことが必要なのではないか。

ボタンクサギの季節

ボタンクサギ

 この季節になるとボタンクサギの花が咲き始める。ボタンクサギは牡丹に似た臭い木という意味らしく、見た目はなかなかだが近寄ると独特の悪臭が漂う。ただこの臭いは昆虫類には芳香らしく多くの虫が集まってくる。

 臭覚上の難点はあるものの、花のおもしろさから園芸品種として売られてもいるようだ。病害虫にも強くかなりの繁殖力があるようだ。隣家の庭で数年前に一輪見つけたものが、いつの間にかこの季節は一画を占拠するほどになっている。調べてみると地下茎で増えていく種類らしい。育てるのは簡単だが、絶やすのは骨が折れるとか。

 見た目の美しさと、それを打ち消す悪習、たくましい増殖力、植物にも様々な個性があることを改めて痛感する。

危険な作業

 たとえば放射線が多くて生命に差し支えるような場所にAIを搭載したロボットを送り込んて作業させることは容易に想像可能だ。人的被害がでないのだから理想的な解決策のように考えられる。

 外部からは観測し得ない状況にあり、通信もままならないとしたなら、現場のAIは自律的なプログラムによって任務を継続することになる。それが致命的な爆発に至る可能性があるとしたとき、私たちは人工知能に命運を委ねることができるのだろうか。

 これはSFの話ではない。人生の重要な選択をどれだけ機械に任せられるのかはあらゆる場面で問われることになるはずだ。人間よりはるかに精度が高い判断をする人工知能だが、それに究極の選択を任せられるのかは哲学的問題に属するだろう。

七月

 今日から7月だ。今年も半分が終わり、後半に入ったことになる。新しいことを始めるきっかけを作った前半だが、実はまだ何も成果は出ていない。

 焦りは禁物だが、いつまでものんびりできるわけでもない。最近はいろいろな場面で身体的な限界を感じている。まだできると思えることができないことも多い。油断せぬようにこうした節目は必要なのだろう。

 下半期は何らかの形を残すことが求められる。誰にも求められてはいないが、自らの課題として人に言える成果を残したい。

風景画

 きれいな風景を描いた作品はそれだけで価値があるように思える。そこがどこであろうと作品の評価には関係ないはずだ。実際はそうではない。どこの風景で何を描いているのかは作品の鑑賞にかなり影響を与える。

 富嶽百景は相手が富士山であるから、東海道名所図会は名所を描くから価値が上がる。絵画となったから名所となる例もあるが、その前に画家は名所を描こうとしたのだ。地名の価値はその意味で大きい。

 私たちが何かを見るとき、そこに審美的な行動が伴うときには、どうも対象そのもの以外の情報も関与する。風景画も地名があることで価値が上がる。極端なことを言えば、名もなきものを取り上げるのは難しく、名のあるものだけを見ているともいえる。

学問とは楽しむもの

 高名な科学者の話を伺う機会を得た。後世まで称えられるべき発見をした方である。その方のお話は身近なところから疑問点を見つけ、それを追究することの重要性を説くものだった。大変参考になった。

 詳細な話はいろいろあったが、専門的なことになると分からない。ただ、その大学者が論語などの古典を引いて学問とは楽しむものであり、そこに至らないうちは本物ではないとおっしゃっていたのが印象的だった。綿密な科学の研究をしている人は、逆に人間的な感性というものを身につけるらしい。学びの基本を思い出すきっかけを与えていただいた。

 宿題を出し、試験を課し、点数の悪いものを注意する。そういう教育の仕方は一般的だ。試験に合格しなければ意味がないとでもいうような教育の仕方を私自身もいつの間にか毎日の仕事としてしまっている。でも、思えば私が学生だった頃、何かの役に立つこと目指して学習していただろうか。褒められたり、賞金が出るから学問をしていたのではない。単純に学ぶことが面白く、知ることで新しい世界が見えるような感覚になることが楽しかったのではないか。そういう大切な感動というものを最近は失っている気がする。

 ならば、学ぶことの楽しさをどのように伝えればいいだろう。今はそれを考えるべきだ。

傘レンタル

 駅で傘を貸すサービスが始まっている。サブスクリプションの方式で借りっぱなしでもいいようだ。安いビニール傘が雨のたびにうち捨てられているのを見ると心が痛むがこれはその解決策の一つにはなるだろう。ランニングコストがどうなのかなど気になることが多い。注目しておきたい。