首相の発言には熱量が足りないと指摘した同僚議員がいたとのこと。それを指摘したことを他に語るその人の熱量は間違っていないのだろうか。
忠告や助言は勇気ある行動だと考える。それができないで停滞することは公共の福祉にも関わる。ただそれを他に誇る様では売名に過ぎないように感じる。詳細が分からないので検討違いをしている可能性もある。
混乱時きは清濁が意図的にも無意識にも併流する。見極めねばならない。
日々の思いを言葉にして
首相の発言には熱量が足りないと指摘した同僚議員がいたとのこと。それを指摘したことを他に語るその人の熱量は間違っていないのだろうか。
忠告や助言は勇気ある行動だと考える。それができないで停滞することは公共の福祉にも関わる。ただそれを他に誇る様では売名に過ぎないように感じる。詳細が分からないので検討違いをしている可能性もある。
混乱時きは清濁が意図的にも無意識にも併流する。見極めねばならない。
今読んでいる野口悠紀雄『リープフロッグ』は経済的な弱者がその条件ゆえに一気に先頭に立っていくという逆転の経済仮説を述べたもので興味深い。強者と弱者の格差が年々開いていくと考えるのが一般的であるが、実は条件さえそろえば一気に状況が変わるというのだ。
氏は中国を例えにしてこの現象を説明する。古代中国は様々な発明をし、強大な王国を作り上げたものの、その体制を保全するために保守化し、欧米や後進の日本にリープフロッグされたが、いま欧米日本が既得権益を維持するために新技術を開発する力を持ちながらその先に踏み出せないうちに、中国が再逆転したというものだ。これはある意味積極的な発展観であり興味深い。逆転されたら再逆転しようというモチベーションにもつながるものだ。
ただ、気になったのは現状に満足しているとそれが滅びの原因となっていくということだ。つねに次の段階を考察してあらゆる可能性を考えていかなくてはならないということになる。このレベルにも当てはまることだろう。
私の住まいでは久しぶりの雨になっている。いつもかばんに傘を入れているのは北陸に住んでいた頃からの習慣だ。3年前の今日は雪だった。今日も雪だるまのアイコンが出ているが今のところその気配はない。何故か雨が降るとほっとする。
子どものころは、そしてつい最近まで自分の名前が歴史に残ることを理想として考えていた。人生は短し、芸術は長しという格言も座右の銘としてあった。しかし、最近この考えはいかがなものかと考え始めている。
死後に名を残すということは結局は他人の行為なのだろう。自分が努力したところでそれは自己満足に過ぎない。自分の存在を記憶するのか忘却するのかは他人任せなのだ。だからそれを自分自身が企図することは実はおかしいのだ。私は最近はそう考えている。
もしかしたら、これは自分が何もできていないことの自己弁護なのかもしれない。名誉というのものは実に厄介だ。
コミュニティ・スクールという考え方がある。地域の住民、団体、企業が協同で学校と連携して子どもたちに有益な活動を提供するというものだ。基本的に賛成である。
学校だけに教育を任せることには限界がある。特に多忙を極める教員の効率が低下しているのは大問題だ。教育立国と言っても過言ではない日本の教育が、いくつもの任務を兼任し、片手間で授業をしている(そうせざるを得ない)教員に委ねられているのは早急に改善すべきだ。
教科以外の教育、例えば地域の産業や歴史に関する知識などは、訓練を受けた地域の非教員にまかせてもよい。心の悩みなどの相談相手、保護者対応なども場合によっては地域の応援で可能だ。学校を地域住民の語り合いの場にすればいろいろな問題が解決できるかもしれない。
ただ、学校という場の特殊性も考えなければなるまい。日常の秩序から距離をおいた学びの場であることは忘れてはいけないだろう。誰にも努力すれば機会が与えられる空間を学校は用意しなくてはならない。
少子化の中で人々が次世代の教育に関心を持つことは大切だ。地域で互助の環境が具現化すれば、子育ての不安が軽減して出生率が上がるかもしれない。地域の安全性、治安も向上するだろう。
学校と地域の連携システムは管理監督をどうするのかといった問題を克服してぜひ実現するべきである。
曖昧なことを書く。私たちの意識はどうしてかくも動揺するのだろう。常に揺れていてとどまることがない。身近なことで心を悩ませるときと、大きなことを考えてやや落ち着いているときとでは随分違う。
幽体離脱して己を見返せばおそらく決まった範囲でうごめく小さな生物に過ぎない。その都度起きる感情は小さなエピソードに過ぎないのだろう。その姿を自分で見ることができたらどれほど気が楽になるか。
私はせめて山に登らなくてはならないと考えている。そこに己はいなくても、生活圏を俯瞰することで何かが分かるかも知れない。
最近、ここ数年がどのような一年になるのかを予測する文章を読む機会が増えた。いろいろな内容がある。
楽観的な意見ではコロナウイルス克服後の景気回復を強調する。仮に完全な収束はなくても、昨年進んだ諸方面の対策で社会システムが進化したことが恩恵をもたらすというものだ。
悲観的な予想は多い。パンデミックは収束せず、低迷を続ける社会に人々が疲弊していくというものだ。株式市場などの景況も実態に近づいていくという悲観論である。
どちらが正しいのかはまったく分からない。ただ、危機的状況にあることと。それが次のチャンスをもたらすということだけは確かだ。どの局面を強調するかで未来予想は変わっていく。
ウイルス感染の話が身近なレベルになってきた。近隣のクラスタ発生のニュースや家族の近くにも該当者が出ている。
もう自分だけが例外だとは考えてはいない。いつ罹患してもいいように準備をした方が賢明なようである。
ここまで、自身の関係者に罹患の知らせがなかったことを喜ぶとともに、今後の幸運を祈りたい。
無形の現象になんと名前をつけるか。それが新しい考え方を生み出す原点のようだ。社会現象などの連続的な出来事は実は全てが異なり、同じものなどない。しかし、似たようなことは何度も起こることも事実である。それにどのような名前をつけるかが物事を把握する出発点になるということだ。
名前がつけられるまでは経験しても記憶されない。正確に言えば記憶しようと思っても手がかりがない。思い止めようとしても手ですくった水が滴り落ちるようにいつかは消えてしまう。それが一旦名前がつくと掌握できるようになる。小異は気にならなくなり、共通する要素を見出していく。それだけに名付けは大切だ。
でも名前をつけるのは簡単ではない。パターンとして把握するにはそれなりの経験と大胆な推論が必要だ。多くの人はそれを持ち合わせない。だから、ある人が適切なネーミングをすることで初めて見えてくることがあるのだ。私達はそれを学習として把握している。いろいろな本を読むとき、人の話を聞くとき、その名付けられた概念を組み合わせで考えをまとめているのだ。
では、名付けることは専門家に任せればいいのか。そうではないと思う。私のような一般人でも積極的に名付けを行っていくことが、世界の把握には欠かせない。少なくとも名付けをする意欲だけはいつまでも失ってはいけないと思う。
新型コロナウイルスの感染拡大が止まらない。もう知らない誰かが罹ったいうレベルを超えてすぐ近くまで病魔が迫っている感がある。感染拡大を行政の失敗と非難する人も出てきた。当たっているが間違ってもいる。
政治家ができるのは外出規制や補助に過ぎない。人々の動きを拘束できない以上、判断は各自に任されている。また、そういう社会を望んでいるのは私たちだ。
指導者たる人がとるべきは各自が適切な判断をくだせるようにその都度情報を提示し続けることだろう。それが不十分なまま勧告しても従う人は増えない。
制御することは不可能かもしれないが、とるべき方法はまだある。低下する関心の中で増加する犠牲者がいる。私たちは今一度冷静に状況把握をするべきなのだ。