手仕事

 人工知能が何でも代替するようになればますます貴重になるのが一回限りの仕事の成果だろう。一点物の価値が重要になる。

 かつてはブランド信仰があった。有名ブランドさえプリントされていれば価値があると考えられていた。しかし、ものが出回り消費者の目が肥えると、結局大量生産されたブランド品を持つことに価値があるのか疑問視する人がでてきた。ブランドの魔法が解けた人には何が残るのか。それが手仕事による一点物の価値だ。

 生産者の腕がいままで以上に要求されるとともに消費者の目利きの力も大切になるはずだ。これはいい傾向ではないだろうか。

勤勉は日本人の基本なのか

 虎尾達哉『古代日本の官僚』はとても面白かった。日本人の基本的な気性は勤勉であるというのはどうも間違っているらしい。あるいはそのように思いたいという理想がそのように語らせるのかもしれない。本書によれば、古代の官僚は平気で宮廷の儀礼を欠席し、あろうことか出欠を取る際の代返システムまで用意していたという。組織的に怠惰を容認する体制が出来上がっていたことになる。

 日本人は勤勉という前提は考え直した方がいいのかもしれない。もっと柔軟で臨機応変の気質があったと言うべきなのだろう。

同音異義語

 音韻の種類が少ない日本語には数多くの同音異義語がある。漢字で書き分けることで書き言葉の体裁は保たれている。漢字廃止や制限に関する議論はいつでもあるが、この性質上安易な処置は言語の質を損なうことに繋がる。

 この不自由さはときに文芸の利点となることもある。和歌に見られる掛詞や序詞には同音異義語を意図的に活用したものだ。表現の幅を広げることにつながっている。

 同音異義語の言葉が関係する物語を書こうと思っている。文才はないがあくまで楽しみとして。多義語を絡めてもいい。言葉は使いようで可能性が広がる。

異郷を描くこと

 私にはそんな経験はないが遠い異郷のことを絵画なり文学作品なりにすることは意外に難しいかもしれないと思う。描く手がかりとなる表現が見つからないかもしれないからである。

 もちろん、それまでに獲得した語彙や表現方法で、他郷を描くとこはできるはずだ。でもそれは結局は経験をそのまま表現していないのではないだろうか。比喩比況の手法で近似値を語っているに過ぎない。

 都から地方官となった貴族の文学をみると大抵は都の文學そのままである。地名が詠み込まれることでようやく地方性を保っている感がある。生活圏を離れて創作することは意外にも難しい。

雷雨

 このところいわゆるゲリラ豪雨が続いている。雷鳴を伴うことも多い。梅雨の終わりの天候なのか。週末には暑い日々が始まるかもしれないという予報もある。

 オリンピックはせめて猛暑ではない日にやってほしい。そもそも期間の設定がおかしかったのだ。

見たままに

 絵画の話である。見たままに描く、写真のように描くのは分かりやすいリアリズムだろう。遠近法や陰影の表現などを駆使すればこの方面に近づく。写真も厳密には絵画の延長であり、機械の力を借りた平面化だ。

 一方で、写真のように描かないリアリズムもある。感情というベクトルを加えた視界は写真とはかなり違う。そして実際に私たちが目にして感じているのはこちらの方だ。対象に何を感じているのかは絵画でないと表せないのかもしれない。

 絵画のみならず表現されたものには、表層に感知されるものと深層に潜むものがある。深層を楽しむことこそ芸術の真骨頂だと考える。

来ないバス

 こんなことを考えたことがある。どこか遠くの地方都市に迷い込み、知らない場所を訪ねたのはよいが、帰り方が分からなくなる。とりあえず歩き続けてようやくバス停を見つける。次の便はあと2時間後らしい。かなりあるがないよりはいい。何よりも今いる場所から抜け出せる。それだけでもいいと。

 2時間経ってもバスは来ない。3時間、4時間過ぎてもまだ来ない。このバス停は偽のものか。あるいは今日は来ないのか。

 そんな妄想が脳裏に巡る。こんな経験はしたことはないはずなのに。リアルなイメージで浮かび上がる。何かの暗示なのか。疲労の果ての幻か。よくわからない。

梅雨末期

 来週には梅雨明けもあるかもしれないという予報が出た。オリンピックに合わせて真夏が来るようだが今回はなんともむなしい。その前に警戒しなくてはならないのがこの時期の大雨だ。

 詳しく調べてはいないが7月中旬は大雨の被害発生の例が多い印象がある。ここまでの長雨に、まとまった降水が重なり害を広げるのだろう。

 ウイルスの不安も消えない中でやらなくてはならないことがいくつもありそうだ。

花の名前

 植物にちなむ日本人の人名は多い。特に女性の名前には多いと考える。名字だけでも「木」「草」「花」「藤」「桂」などが使われるし、名前の方には「菜」や「葉」「葵」「百合」などの漢字が使われ、「みのり」「もえ」などの関連語がつかわれることも多い。植物はこの国の人にとって自分の名としてもいい程の身近なものなのだろう。

 植物の豊富さもこの国の特徴だ。四季折々に花開く植物が生活に潤いを与えてくれる。だから、生活の一部に花の暦が取り込まれていることにもなる。自然に生える植物にも園芸の品種にも私たちは囲まれている。

 時に都会を離れると当たり前のことを思い出すことがある。逆に言えば私の日常は極めて不自然で窮屈なものであるということになる。10数インチの画面に映し出される情報が世界のすべてであるかのように考えてしまっているが、実はそれは何でもない。ただの光の点滅だ。本当の風景を、植物たちのありようを見ることを怠ってはいけない。その名を負う人の尊さもそこから分かってくるはずだ。

Photo by Nestor Varela on Pexels.com

無人スポーツ

 東京にオリンピック期間、緊急事態宣言を出し続けることが決定された。海外でのワクチン接種は進み、大谷選手が活躍するボールパークにはマスクをつけていない人が多い。それはいまの日本ではなし得ない。

 国際的格差が見せつけられることはしばしばあるが、ここまでの差は衝撃的だ。それは医療科学の差であり、それを後援する組織、政府の差でもある。

 無観客でスポーツを行うことは大きな意味損失になるだろう。選手と観客が同じ場所にいることに身体の祭典の意味はある。もし、完全に無人の競技が始まるとしたらeスポーツのような仮想空間に限りなく近づいてしまうだろう。フェイク技術が発達しつつある今、スローにしても分からないほどの偽物も生まれるだろう。

 ウイルス克服はいろいろな意味で急務だといえる。命と心を救わなくてはならない。