小異を捨てて

 最近の世界の情勢は分断の連続だという人がいる。アメリカの政治的な不安定さが象徴的だが、民族やイデオロギーの対立によって人の心が分かれていく傾向は世界の各地でみられる。己の属する集団を守ろうとするのは生物としての宿命ではあるが、人類にはそれを超える叡智を得ることができる可能性が与えられている。

 コロナウイルスが世界中を満遍なく襲っていることは、強烈なアイロニーのようにも感じる。いくら分裂しても人類はそれほど変わらない。種としては同じであり、運命共同体なのであると。共通の敵を仕立てて融和を図るというのは古来からの権力者が使う常套手段だ。歴史の中にはこの方法で大きく変わった局面がいくつかある。今回の場合はウイルスが相手なのだから、共闘することは一向に遠慮はいらない。

 それなのに世界の分断は一向に収束には向かわない。小異をすてて大同につくという古人の教えを実行に移せないのはなぜなのだろう。自分も含めて、私たちは考えていてもできないことが多い。実行することは別次元なのだろう。どうすれば実現できるのか。面倒だがまずこれを考えるという方法から始めなくてはならない。段階が必要なのだろう。

人材の活用

 人材の活用をどのようにするのか。それは少子高齢社会ではもっとも大切な問題だ。私自身がすでに若者と同じ仕事量がこなせないことを自覚しているので、こういう話をするのは気が乗らない。しかし、避けて通れない話なのだろう。

 日本には人を大切にするという伝統がある。少なくともそういう建前がある。だから、年功序列が成り立つしそれでうまくいくことも多い。ただ、能力のある若者が活躍できる機会を阻害しているとも言える。能力の高い若者は新機軸を生み出すことができる。足りないのは経験だ。だから、これからは上司に若者を、補助に年配を配すのがよいのだろう。ケース・バイ・ケースではあるが。

 完全な能力主義を良しとする時代もあったが、日本でそれをやるとうまく行かないようだ。あまり成功例を聞かない。むしろ従来の経験蓄積型に裏打ちされたタレント尊重主義をやっていくのが良いと思う。

節分

 今日が節分であることはどうしても豆や恵方巻を売りたい商店の広告で知らされた。なんでもかなり久しぶりだそうだ。立春が日付を一時的に越えたのだ。

 冬来たりなば春遠からじとは故人の教えであるが、ある意味昨年から一向に春にならない。炎天下でもマスクをつけ続けて冬将軍に忠誠を尽くした。そろそろ本当の春を迎えたい。

 日本の大都市の緊急事態宣言は一月延長されるようだ。ロックダウンされている訳ではないが気が重いのには変わりない。産業界への影響も深刻だが、人心が冷え込むこと、特に若い世代が夢を見られなくなるのが懸念される。見えない悪鬼に豆を巻き、そろそろ退散していただかねばなるまい。

節目となるか

 今日から2月が始まる。短いこの月が様々な節目になる可能性が高い。

 コロナウイルス対策ではこの月をどう過ごすかで今後の展開が変化する。緊急事態宣言の延長がほぼ確定的だが、その期限を今月末と考える人は多い。状況によって早期打ち切りもあるという。まさに毎日テストされる感がある。

 経済的にも今月の動向は注目されている。株価の乱高下が話題になっている。個人投資家の影響力が社会を動かすまでになれば経済の仕組みそのものが変わっていく可能性がある。制限を受けているサービス業などの保護はどこまで行うべきか。その他の業界もどこまで持ちこたえ、どのような対策を施していくのか。

 政治的にはバイデン大統領の真価が問われ始める。前任者が大きく変えた路線をどのように自分の方向に変えるのか。中国の国際進出はどうなるのか。出遅れ感の高い日本はどのように存在感を主張していくのか。

 あらゆる方面で注目される如月が始まる。

延長

 日本の大都市で出されている緊急事態宣言はまだ延長されそうだ。海外からこのブログをご覧になっている方もいらっしゃるので、一住民の感想としてお読みいただきたいが、日本人のこの事態に対する感覚はかなり緩い。たしかに感染者数や重症者数は増えているが身近な問題として捉えている人は少ない。

 言えることはマスクをせずに外出する人はほとんどいないこと、店の外に設置された消毒液を使う人が圧倒的多数であることだ。同調性の強い日本人は法的な規制がなくても一度風潮が生まれてしまうと多くが従う。それが今回の事態を深刻にしてこなかった原因だろう。

 ただ、新たな局面が見られるのも確かだ。政治的な強制力が少しずつ検討されつつある。緩い防衛ラインを保てるのかどうかは今後の状況次第であると感じている。規制はされているものの不自由さはまだない。国民からの反対運動も表面化していない。ただ、それを維持できるかどうかは分からない。

さらなる変化

 緊急事態宣言継続が濃厚になった。社会情勢がさらに変わっていく可能性を感じる。私達は日々の変化にうまく対応してきているがさらなる対応が必要になってくるだろう。

 最近の私達はいろいろなことを諦めている。しかし、その一方でしたたかな気持ちも忘れてはいない。隙きあらば新しい方法で何らかの利益を得たいという願望だ。それが経済的な方面に向かう人もいれば、もっと精神的な幸福感の追求に向かう人もいる。もちろんそれらは連動している。

 さらなる変化にそって人生も変わっていくのだろう。思わぬ側溝に落ちないよう、他人を巻きこまないよう進んでいきたい。

楽しみ不足

 いまの時勢では仕方がないのかもしれない。ただ、心の潤いという面において著しく低下しているのは紛れもない事実だ。

 文化的な催しが制限され、中止されるものも多数ある現状では、精神的な充実感を得る機会が少ない。もちろん、自ら創作し活動することはできる。しかし、そこにはおのずと限界がある。他者から受ける感動がこの方面ではもっとも大切な要素だと考える。しかし、それができない。

 非接触、遠距離の文化交流の試みはいくつもある。ただ、そこから得られるものは限定的だ。その枠で何ができるのかをいま一度考え直すべきだ。

制約の中で

 日本文化を語る際に制約を前提とするという思考の枠組みがあることを思いだす。自由に表現するというより、型に当てはめてその中で創作するということが伝統になっている。

 文学で言えば短歌や俳句のような定型詩、絵画で言えば構図や配色などの型がそれに当たる。無形のものにもそれはある。芸事や武道などにも型があり、まずそこから教えられる。

 こうした制約下の創作という方法は昨今の生活体系にも活用されるのかもしれない。できることを組み合わせて何とかしてしまう。そこに価値観を見い出し、新たな価値を創出するのである。私たちはこの国の伝統に学ぶべきではないか。 

いろんな先生に

 小学校の高学年に教科担当制を導入することが検討されているようだ。人材確保などがうまく行くのかという疑問はあるが基本的には賛成である。

 担任との相性で多くが決まる小学校だが、この制度はいろいろな大人と接することができるのがよい。教える方も授業内容に集中することができるはずだ。

 ただ発達段階を考えれば、児童の気質や能力、家庭環境などの情報共有が一層大切になる。また学習内容や負担に対しても統一感が求められるはずだ。そういうコーディネーターがいた方がよい。

 教え方の質が問われる時代になったことを踏まえて様々な試みはなされるべきだと考える。

夜行廃止

 東海道線の夜行快速が廃止になるらしい。かつては普通という名で走っていた。学生時代私も乗ったことがある。廃止は残念だが今の情勢では仕方がない。

 格安切符と組み合わせるとかつては1万円で特急券なしでかなり遠くまで行くことができた。予約なしでふらりと乗れるのもよかった。しかし、いまはより安い夜行バスが走り、ネット予約で確実に席が確保できる。座席の座り心地や居眠りしたあとの安心感などバスの方が勝っていると考える人が多い。

 夜行列車はコロナウイルスの影響前から衰退の要因ばかりだった。よほどの改革がなければ復活は難しい。残念だが、思い出話の種になってしまうのだろう。