非国別対抗

 オリンピックで選手の活躍が報じられるとさすがに心躍るものがある。劣悪な環境の中、努力を重ねた成果を出せた選手は素晴らしい。また、たとえ勝負では負けても大きな試合に出られる事自体が称賛すべきだと考える。

 その上で、最近しばしば考えるのはオリンピックはもはや国別対抗にする必要はないのではないかということだ。メダルをいくつ獲ったかということに国力を重ね合わせる時代は終わっている。そうでなくても一部の恵まれた環境の国や地域の選手が勝利しても感動は半減する。

 ならば、もう国対抗はやめて別の枠組みを考えるべきではないか。クラブチームのような形態も考えるが、これも商業的な力関係に左右される。多くのプロスポーツで力の不均衡が起きてしまっているのはそのためだ。ならば、何がいいだろう。原則として個人の自由でチームを組めるといい。もしくは皆で金を出し合い、ほぼ同じ条件でチームを作って公平性を担保するのもいい。

 実際はそうかんたんには行かないだろう。それでは誰がスポンサーになるのだ。選手やチームにどのように思い入れを持つのか。帰属意識のないスポーツなどそもそも存在するのか。難問は色々あるが、非国別対抗の枠組みを考えてもいいのではないか。例えば7月生まれチームのようなものを考えている。笑うことなかれ。

ハンディファン

 手持ちの扇風機を持ち歩く人が増えている。我が家でもこれをサーキュレーターとして使っているが、電池が長持ちして意外にも使える。

 扇風機のようなものを持ち歩くことは以前から一部の人がやっていた。柔らかいビニール製の羽を使えば仮に皮膚に当てたとしてもめったに怪我はしない。ただ問題は電池の持ちであった。乾電池をその都度消費するのも面倒だしもったいない。だから広まることはなかった。

 ところがUSBポートなどから簡単に充電ができるようになり、稼働時間もそこそこ長く、質量も気にならないハンディファンは使い勝手がいい。ヒット商品になるのもうべなるかな。

 気になるのは風向きエチケットがどう守られていくか。大量の充電池の再利用のめどはあるのかといったところだ。傘がサブスクリプションで提供される時代だから、次はこれかもしれない。

台風

 オリンピック期間中の天候異変はある程度は仕方がない。天気は誰にも操作できない。とりわけ台風は全く人智を越えている。

 今回のオリンピックは日本のおもてなしはあまり発揮できていない。一年延びて経費がない中で、なおかつもてなしの本質である対面的サービスが禁じられているとあってはできることは限られている。コロナのせいで素直にゲストに接することもできない。だから、せめて試合をする環境だけはフェアでよいものにしてほしい。オリンピックはスポーツの祭典なのだから。

 高温多湿はどうしようもないが、台風だけは何とか軽く済ませてほしい。屋外のスポーツは天候に左右される。実力が発揮できるように、台風のない国からの選手が不利にならないように願うばかりだ。

俳句的積み重ね

 目の前にあるものを表現するのはかなり難しい。非定型だし、常に変化をしていてとらえどころがない。どこかに価値の物差しをおいて、そこに引っかかるものだけを描くしかない。たいていの場合それに絶望し、表現すること自体をあきらめてしまう。

 芸術家と呼ばれる人はこの点についてストイックであり楽天家でもある。自分のアンテナで捉えたものを表現することに躊躇しない。だから、多くの場合難解であり、その中のいくつかは多くの人の心を捉える。おそらく芸術作品というのものはそういうものなのだろう。

 私が持っている貧弱な概念と言葉でいうならば、俳句的な表現で世界を描くことを目指していくべきだと考えている。俳句の伝えられる情報量は少なく、自ら表現の方向性を閉じてしまっている部分がある。季語の扱いなどはその典型だ。実に窮屈であり、扱いにくい。これは人間の思考の仕方と同じだともいえる。限られたメモリの中で、かたよって狭い視野に、ゆがんだレンズを使って世界を見ている。それが人間の生理的な問題であり、歴史であり文化であり、様々な要因があることはなんとなくわかる。

 それを前提にしながらあきらめずに表現するしかないのだろう。目に見えること、感じられることを愚直に表現しつづけられること。それが芸術につながると考える。

夜の野生動物

 かなりの人口を抱える街でも意外な動物を見かけることがある。今年は蛇の脱走が話題になったが本来いないはずの動物が繁殖してしまう例は多いようだ。

 先日、近隣の街角で犬でも猫でもない動物が道路を渡るのを見た。ハクビシンではないかと思ったがよくはわからなかった。住宅地の中を平然と歩いていた。

 おそらく誰かに連れてこられた動物がこの列島で命をつないでいる。招かれざる客と思うなかれ。我々人類も同類も知れないのだ。

未来のイベント

 今日から連休だ。オリンピックのための国家的な取り組みだが、ウイルス対策のため盛り上がらない。こんなことはめったにないことだろうから、ある意味貴重な時代を生きているといえるのかもしれない。

 考え方を変えるとスポーツやイベントのあり方の変節点であるともいえる。もしかしたら今後もイベントのあり方は変わってしまうのかもしれない。多数の人が一か所に集まり観衆としてイベントを支えるということ自体が珍しい現象になってしまうかもしれないと考えるのだ。

 もちろん私はこうしたイベントに意義を感じていないわけではない。むしろ、様々な立場の人が同じ空間を共有し、感動を共にすることには大きな意味があると思う。それがなければ世界はますます分断に向かい技術的にはつながっていても心が通じ合わない社会になるような気がしてならない。

 その上で、さらなる変化を想像する。人が同じ場所にいなくても心を通じ合わせることができる能力を身につける段階に至るのでないだろうか。もちろん例えば3次元映像のようなテクノロジーの支援もあるはずだが、私が問題にしたいのは空間的な乖離を超越する心の交流ができる能力を人間が獲得することがあるのではないかということだ。

 この夢想が現実となればイベントに人が密集しなくてもいい。巨大なスタジアムもいらなくなる。人の付き合い方もビジネスも大きく変わる。それがどんな風になるのかは分からない。そういう可能性もあるのではないかと考えるのだ。

雑木林

 毎朝通過する車窓からの風景の大半は住宅街だ。しかもかなり密集していてこの方面の開発が成功したことを意味する。

 子供の頃もこの辺りに住んでいたがもっと緑が多かった。雑木林が点々と残り、そこにはいろいろな動植物がいたと思う。今残るのは緑地であり、管理下にある非住宅、非商業地帯である。散歩できるように頻繁に手入れが入るため、かつての禁足地的な雰囲気はない。

 安全性や周囲との関係性を考えると雑木林は都合が悪いのだろう。便利とともに多くのものを失った。ビルや住宅の群れをブナやらシイやら、さまざまな雑木の幻影としてみると不思議な感慨に包まれてしまう。

暑さとの戦い

 東京オリンピックの開催期間に関してはパンデミック以前から疑問に思ってきた。なぜ高温多湿の日々を選ぶのかまったく理解できない。

 ほぼ無観客開催となり、観客の熱中症の危険性はかなり減った。それ以上深刻なのが選手の体調だ。東京が年中熱帯なら仕方ないが、なぜわざわざこの時期にやるのだろう。

 台風などの害の起きる可能性が少ないのは確かだが、何かもっと商業的要因があるに違いない。天気だけはどうしようもならないのだから、スポーツに向いた時期を選ぶべきだった。選手の皆さんには小さなコロナと巨大なコロナの両方に打ち克っていい記録を出してほしい。

線路沿いの植物

 通勤電車からいつも見る風景にいわゆる雑草が線路沿いに生えているものがある。あまりに当たり前の光景なので大半は視界に入っても意識には上がらない。

 過酷な条件と思われる線路際にも結構いろいろな植物がある。過酷と書いたがたまに保線の際に草刈りが入ること以外は、人の出入りが禁じられており、むしろ植物にとってはサンクチュアリのようなものなのだろう。

 あらゆる場所で適合し、命を伝えていく動植物の力には改めて感動せざるを得ない。

心を描く

 心情は形のないものであり、それをどのように表現するのかは芸術家の力量に関わる問題である。

 絵画において人の感情は描かれる人物の表情や所作で表現される。歓喜も苦悩も描かれた人の姿に投影される。さらに人を描かなくても心情描写はなされる風景や静物の描写でも心理は描かれる。

 さらに、色彩や線の形状だけでも感情が分かることもある。こうなると根本的な脳の機能に訴えるものなのだろう。

 小説や詩歌などでも同じことがいえる。言葉の方が伝える幅は広いかもしれない。しかし、形なきものを描く難しさは変わらない。心の描写は永遠のテーマだといえる。