敬意

 相手に敬意を払うということは自尊心がなければなかなかできないことなのだろう。相手を罵倒したり、自分の優位ばかりを主張する人が増えているような気がするが、どうもその背後には自分の存在に対する自信のなさや他と比較されることへの恐れがあるように感じられる。

 いわゆるヘイト的行為を繰り返す人に共通するのは自尊心のなさだ。何らかの集団に帰属していることをみずから確信している。つまり、自分は一人ではない、もしくは自分と同じような考えを持つ人が多数いて当たり前だと考えているようだ。

 敬意を持てというがそれはまずは自分の今の位置を顧みることから始めなくてはならない。自分の置かれている環境が分かれば、他者を無根拠に軽蔑することはできないだろう。

開催国の誇り

 東京オリンピックは無観客が前提となっているため、テレビやネットを通してしか見ることができない。これならば他所の都市、他の国の開催と変わることはない。海外の方々が東京オリンピックにどれくらい関心を持っているのか分からないが、東京にいても大会が見られないことの悔しさだけはお伝えしておきたいと思う。

 開催国として日本の選手が好成績を挙げていることは喜ばしいが、他の日の記事に書いたように私はこの大会にナショナリズムを持ち込みたくはないという立場である。同じ言葉を話す選手が活躍するのはうれしいが、あくまでそれは個人の努力によるものであることは忘れてはならない。

 開催国としての誇りを持てるとしたら、様々な記録を東京大会で更新することができるということにある。世界新記録が生まれると、選手の努力に報いることができたという事実に開催国の国民として誇りを感じる。また、東京で史上初のメダルを取った国があれば、それも誇りだ。できれば日本の選手に栄冠を取ってほしいが、そうでなくてもいい。競技するための最高の環境を提供できたことを誇りとしたい。

芸術の目

 情報技術の発展により、知識やスキルはあっという間に共有され、結果として便利だがつまらない世の中を作っている。こういう状況に今の日本は対応できておらず、イノベーションも起こせない。だから、敗北感と閉塞感が募りる。考えてみよう。日本文化で世界的な評価を得ているものは独創性に富んだものであり、多くはそれ以前の伝統に根ざしていえる。アニメが江戸時代以前の日本の絵画と地続きなことは例えば浮世絵を見れば想像がつく。

 ゲームの世界の背景にある漫画やアニメの世界は、組織的なくびきから逃れてきたアウトロー的な存在であり、その中には反社会的なものやエログロ、ナンセンスも許容されてきた。その寛容性から新しいものが生まれたのだ。こういう風土は作ろうと思って作れるものではない。管理しようとすればますますつまらないものになる。多様性の中に可能性を見出すことをしていかなくてはならない。多くの駄作の中に光るものが出てくるのだ。駄作に分類したものも実はそうではない可能性もある。

 情報技術は芸術の世界にもさまざまな利益をもたらしているが、逆に大切な要素を削ぎ落としつつある。作品はこうあるべきだという価値観を共有することは、逆に言えばそれ以外の可能性を見えなくしてしまうのだ。そのためには芸術活動をしている皆さんには自分の創作を信じていただきたい。また多くの人が芸術家を、それができなくても創作活動を目指すべきだ。芸術の目をもつことが今後の世界を救う方法だと確信している。

知的進化

 インターネットでの誹謗中傷の事例を見るたびに、人間はまだ情報社会に対応できていないことを痛感する。Society3.9くらいの存在なのだ。

 人類は情報という目に見えないものに振り回されており、いまだ使う方にまわっていない。使われている。メディアの影響力について理解していないし、理解していない存在が他人を傷つけているという事実も判断できない。隣りにいる人に接するようにメディアの先のひとに接し、リアルとバーチャルの区別ができない。

 語弊がないようにしたいが、かくいう私も同じだ。先の例えで言えば私は情報社会に全く適応できていない。3の前半にいる。ただ人間はいずれはこの状況に対応していくのだろう。何を言われてもされてもそれが本心からなのか、それとも感情に任せた戯言なのかを瞬時に見分ける能力を獲得するのだろう。

 あるいはその能力を獲得しないという進化を選ぶのかもしれない。つまり、人を信じないという方向だ。これは困る。私たちの身体的な進化はかなり限界に来ているのかもしれない。大脳をこれだけ発達させた人類に残された可能性は、情報を理解する能力を向上させることだろう。

次々廃業

 利用していたレストランが次々に廃業に追い込まれている。コロナウイルスの影響は大だが、それ以外の要因もある。その一つが個性の消失だと考える。

 同じような料理を出していたとしてもその店の雰囲気とか、店員の醸し出すものといった、非定形の要素をもとめて店を選ぶのが人情というものだ。数十円から数百円の違いはそれで十分に逆転可能だった。ところが、最近はどの店に行ってもマニュアル通りの対応しかできず、メニューにも個性はない。どこに行っても同じようなコンセプトであり、効率化のもとサービスも均一化している。アルバイト店員が増えたせいか、臨機対応の変化には対応できない。何よりもその店の店員であることの誇りのようなものが感じられない。

 これは現在の業界の状況からすればどうしようもないことであり、こだわりを続けるのなら価格設定を高くして、少ない客でもなんとかするしかあるまい。そんなことができる店は限られている。

 次々に廃業するレストランをどのように救うのか。この点に対するアイデアはまったくない。。ただ、いつも通ったあの場所にその店がないことに対する失望感は打ち消しようがないのだ。

スケボー

 オリンピックで日本人選手がメダルを取ったことでスケートボードが注目されている。以前から公園の階段を曲芸のように降りていく若者はいたが、それが国際競技になっていたとは知らなかった。子どもの遊びかと思っていた。

 バックトゥザフューチャーという映画に未来のスケートボードの様子が特撮で撮られていた。未来と言ったが映画の中では2015年の設定で、すでに過去のことになる。映画のスケートボードは空中を浮遊し、ホバーボードという名で登場する。路面はわずかな足の動きで前進するが、水面では推進力がなくなるという設定であった。もう6年も過ぎてしまったが、ホバーボートが水上で立ち往生したというニュースはまだ聞かない。

 オリンピックの競技を見ると階段の手すりにボードを当ててどのように降りるのかを競うものであった。さすがに重力に抗うことはできない。着地までにどのように振舞うのかで見せるスポーツになっている。もはやおもちゃではない。

 この先のオリンピックではホバーボードの競技が行われるのだろうか。それはそれで見てみたい気がする。私は間に合わないかもしれないが。

Photo by Karolina Grabowska on Pexels.com

道具

 ITがどんなに発達したとしても、それが道具であることに変わりはない。そのことを忘れると道具の道具にされてしまう。

 私たちの知っている大工道具や文房具と比べると、電子化された道具はかなり容態が異なる。人工知能のような道具になるともはや人格さえ感じる。カズオ・イシグロの『クララとお日様』のラストシーンの決まり悪さはもう道具が道具と見えないことによるものだ。

 でも、もう一度考える必要がありる。私たちは道具を使っているのであって、道具に使われてはならない。当たり前なことなのだがいつの間にか忘れられてしまっている。

 道具を使いこなすのは身体だけではない。それを使う精神も健全でなければならないのだ。

たわごと

 野球観戦に行くと独り言を言うおやじさんが必ずいる。興奮すると独り言のボリュームを忘れてしまうようで周囲の人も巻き込むことになる。何でここでカーブを投げるんだ。俺なら絶対ストレートなのに。その声のもとをみるとスポーツには無縁の姿がある。苦笑いが周りに起きる。

 他人事のように書いたが、当事者になったこともあるはずだ。興奮すると記憶は曖昧になるし、その場で消えてゆく音声はもうもとには戻らない。

 ところがいまは少し厄介だ。同じような独り言をソーシャルメディアに書き込む輩がいる。しかも自分の顔を晒すことなく言い続けている。書かれたものは時空を超えて残り続ける。しかも出来心なのか誠心の叫びなのかあとから区別は難しい。本人は書いたあとにいくぶんのカタルシスを得られるかもしれないが、言われた方は永久のダメージを受ける可能性がある。

 ソーシャルメディアへの書き込みが実は書き手の遡及可能であることを技術者は打ち明けた方がいい。ネットというメディアが手続きを踏んでメッセージを送っている以上、どこからどこに送信されているのかは分かるはずなのだ。恐ろしいことだがすべては記録されてしまう。近年のコンピュータの発達を考えると、いままでは不可能と考えられていたことができてしまっているというしかない。

 たわごとを言うならば周囲に気をつけるべきだ。ましてネットに書くべきではない。あなたは過去にこのような発言をしていますと秒単位のログとともに指摘されることになる。

 もちろんこのブログも同じことだ。だから、少なくともここ数年は直接他人に言えないことは書かないようにしている。

スポーツの境界線

主に女子のユニホームを巡って論争が起きている。露出度の高いユニホームをなぜ着なくてはならないのかということで、差別問題にも発展しそうな勢いもある。

ビーチバレーのユニホームがビキニスタイルなのはその方が競技にとって好都合だからかと思っていたが、どうもそうではないらしい。規定がありそれ以外の選択はできないと聞いた。体操ではドイツチームが長袖タイプのユニホームで登場した。これには規定はなく、奇抜でなければ長さは無関係とのこと。身体の美しさを競う芸術性競技においては見せ方はかなり大きな問題になる。今回の選択はチームとして大きな決断だろう。

 陸上競技とりわけ短距離や跳躍系のスポーツではかなり露出度が高いユニホームが使われている。空気抵抗の低減のためという。おそらく何も着用しないのが記録上は良いのかもしれない。

 スポーツが純粋に競技性を追求すると、ユニホームのあり方は無関係となる。それをある方面に固定するのは文化的な問題だろう。日本の国技の中には文化的な要素を強く持っているのものが多い。だから、柔道では礼儀や整容が重んじられ、青い道着には抵抗感を持つ人が多い。大相撲では女性は土俵に触れることすら許されない。

 国技がスポーツ化してさらに国際化したとき、文化的拘束は少しずつ解放される必要がある。何を着るかと言うことに関しても変わらねばならない段階があるのかもしれない。

光の表現

 光を表現することは実は難しい。光そのものは色はないし、物質としての実感もわかない。だから、光そのものは描けず、光によって投影された物体を感知するだけだ。反射する光の種類によって色彩が現れ、形として見える。光とものとの織りなすライブが私たちの世界だという。

 ブラスを表現するにはマイナスを取り上げればいい。それも伝統的な手法だ。闇の中に差す一条の光は分かりやすい。ないところにあるものは感じられる。

 光を表現することに私はもっと関心を持ちたい。比喩的な意味も含めて光を表現することを最近諦めている気がする。光は当たり前ではなく、特別なものでもない。ただ、その正体に関心を持つことはこれからもっと大切になりそうだ。