偏見

 脳に事実を曲折する機能が織り込まれていることが最近読んだ本に書かれていた。偶然だが同じような言説に出会うことが多い。これをバイアスと言ったり偏見と言ったりしたあるいは錯覚と言ったりしている。

 このような現象は脳の不完全さを示すだけではないようだ。むしろ、現実の生々しさを軽減して受容できる形にするために遺伝的に形成されたのだという識者もいる。首肯すべきだ。

 ただ、森の中で生きてきた先祖と、機械に多くの作業を任せている現代人とでは生き残るための戦略が異なる。にもかかわらず錯視の中で生きるのには問題があるのだろう。

 少なくとも自分の見たこと聞いたことが世界の真実だとは思わないようにしなければ。錯視の風景をそれなりに楽しむことが必要だと思う。

忘れる効用

 最近はいろいろなことを忘れてしまう。大げさに言うと脳の老化は始まっているのかもしれない。忘れることは悲しい。辛くもある。でも別の見方をすれば幸せなのかもしれない。

 自分でも反省しないようになっていると感じることがある。同じ過ちを繰り返しそれでも改めない。これは恐らく脳の老化が関係しているのだろう。ただ、そのために深刻に悩みこむことも少なくなったように感じる。鈍さがストレスを和らげているのかもしれない。

 もしそうならば感度の落ちた脳はそれなりに機能を果たそうとしているのかもしれない。

延長されて

 東京などの関東の緊急事態宣言は2週間延長されることになった。医療機関の負担を減らすためだという。一時感染者数が激増し、今も毎日増え続けていることを考えれば仕方ないともいえる。

 ただ、後世のために記せば東京の街は人出に溢れている。もちろんかつてのような超過密ではない。普通の過密状況はここ数ヶ月変わることがない。ほぼ全員がマスクを着用している写真は残しておく必要があるかもしれない。いやこのあとも状況は変わらないのだろうか。

 この延長を東京オリンピック開催の方便と考える人は多い。現状ではかなり危ういがやることはやっているというメッセージを世界に発信したいのだろう。そうなればいいが。

 いずれにせよ暫く忍耐だ。

節日

 3月3日はひな祭りとして日本では女子の成長を祝う日となっている。本来は古代中国の陰陽思想に基づくもので、奇数のぞろ目の日が節日として特別扱いされていたのに基づく。

 古代の宮廷では上巳の節句とも言われたようだ。曲水の宴なども行われ、風流な一面もある。旧暦のこの日は今より暖かく、様々な花が開く春の一日だったはずだ。その根源は禊や祓いをすることであったという。日本の宮廷には定期的にこうした行事がある。

 科学の進歩により簡単には穢れは消えないことがわかってきた。しかし、古人が年に何度も禊を繰り返したように、何かにすがって生きるのも一つの知恵なのかも知れない。

謙虚

 最近の自分に欠けているのは謙虚さであるとは自覚している。この歳になると一応のことはできるつもりになっている。実際に大抵のことはできている気になっている。

 ただ、何事もよりよいやり方があるものであり、それを知る先人も多い。その先駆者の業績に学ぶことは何より大切なことだろう。学ぶことに消極的になっている己がいる。

 その原因が謙虚さの忘却にある。周囲の人から学び、読書を通して知見を知り、またブロガーの経験談からも学ぶことが多い。そういう触覚を鈍らせないことが私の今の課題だ。

年度末月

 日本では4月を学年の始まりとする関係で、年度の終わりを3月と考える習慣がある。春が顕著になる月を年度替わりにすることは精神風土と結びつき定着している。

 3月にはいろいろなことが行われる。その中のまとめにあたるものは最もスリリングなものだ。連続していく日常に無理やり切れ目を入れて何らかの形に仕立てる。かなり強引で無理な作業が施される。

 そのためには切り捨てなくてはならないことがあり、急遽作り出すこともなされる。その矛盾を一気に乗り越えなくてはならない。それが強いられ、また許されるのが年度最後の月なのである。

昔の地形

 近隣の考古学資料を主に展示している小さな博物館に行ってきた。市が開設したもので入場料は無料である。展示によるとこの地域はかなり古くから住居遺跡があり、それが重層的に発掘されているというのだ。人間が生活するのには恵まれた地形であることになる。

 その地形だが過去の史料から見ると時代ごとにおおきく変わっていることがわかる。かつては河川の流域の変遷が地形を変えていたが、近代に入ってからは宅地造成や区画整備などでおおきく地形が変化していることが分かった。いま見る姿がそのまま過去に遡れないことを知ったのである。

 歴史を考えるとき、いろいろな考証は必要だが、大前提としての地形の変化を考慮に入れなくてはならないことを痛感した。現在の風景もこの先さらに変化していくに違いない。

2月も

 まもなく2月も終わる。相変わらず緊急事態宣言下であるが、身辺に大きな変化はない。大きな地震が東北であったのは気がかりだ。しかし、生活には変化はない。

 積雪はなかった。むしろ初夏のような暖かい一日があったのが印象的だ。そしていつものように花粉症が始まった。

 いろいろなことが変わりゆく直前の季節だ。流れに身を任すしかない。そこになにか手応えがあれば私の存在の証となる。

一喜一憂

 昨夜はアメリカの株がかなり下がってしまった。長期金利が引き上げられることへの警戒だという。一喜一憂がトレードの常だが僅かな小遣いの減少でも悲しく感じるのは己が小人の証だ。

 株はあくまで社会勉強の一環として始めた。世の中の仕組みを実感したかったのだ。コロナ禍という特殊事情の中で株価は異常に値上がり、私のような初心者でも結構利益が出ている。ただ確定していないのでまさに絵に描いた餅だ。数字が正の数を示しているのに過ぎない。恐らく日本市場もこれから下降傾向に入る。それも数字が減るだけだ。

 株を老後資金に考えているのも事実だがあまり期待はしていない。毎月積み立てる習慣ができたことだけでもよしと考えることにしている。

本当の風景

 はてして自分は本当の風景を見ているのだろうか。自分が目にしていることは事実なのか。そんな根本的な疑問を捨てきらずにいる。

 百聞は一見にしかずとは古人の教えである。ただ、見てもやはり分からないことがある。また、目にしている映像が真の姿なのか確証はない。脳は映像を都合よく集成することは錯視の芸術などで明らかだ。

 目にしているものが真実だと思いこむことだけは止しておきたい。私という屈折したレンズの存在を認識して置くことにする。