
ふらりと近隣の市の城趾に来てみた。早朝ゆえ人影は少なく、ひっそりとした山城を訪ねた。急な階段を登って本丸跡と呼ばれる空間にたどり着くと山藤の見事な株があった。鮮やかなしかも派手すぎない色彩は少々敏感になっている心に染みた。
日々の思いを言葉にして

ふらりと近隣の市の城趾に来てみた。早朝ゆえ人影は少なく、ひっそりとした山城を訪ねた。急な階段を登って本丸跡と呼ばれる空間にたどり着くと山藤の見事な株があった。鮮やかなしかも派手すぎない色彩は少々敏感になっている心に染みた。
何度目か分からなくなった緊急事態宣言が出た。今朝の通勤電車はいつもと変わりはない。恐らく多くの国民にこの宣言の意味は理解できていない。私もそうだ。
外出を控えることが感染予防の必要条件であることは誰にでも理解できる。当初は歓楽街に行くことが感染の理由と言われ、感染者に無言の非難がなされた。しかし、現状はこれとは異なる。日常生活を営むだけでも感染することがあるし、はめを外した生活を送っても感染しない人もいる。
エビデンスを出せというのは昨今の人のいう無理な正論の一つだ。出せるものと出せないものがある。ただ闇雲に何かをするなと言われても反発を招くばかりだ。分からないことは分からないといい、分かっていることは繰り返し説明するしかあるまい。
我が国にはこういう面倒なことをする役回りがいない。現在進行形の社会状況を国民とともに考え、説明する信頼のおける人物を養成するべきだ。それがいないことが緊急事態だと言える。
隣接する市の自然公園に出かけてきた。山林の植物を中心に見せる方針の設計がなされていて園芸種のもつ華やかさはないが、日本の自然を想像するのにはいい公園だった。
公園の最後には見事な藤棚が作られていた。これは園芸種だ。藤の花は今が見頃で花房が見事に下がっていた。その下にはおそらくここを指定席のようにしている老父が文庫本を広げている。こういう生活がしたいものだと思いながら通り過ぎた。
実際の藤棚は蜂などの虫が集まり結構にぎやかだ。それでもそこに馴染んでしまうと静かな時間が得られる。花に囲まれていることの安心感はおそらく本能に関わるものなのだろう。
人から相談を受けたとき、適切な助言をすることは難しい。何を答えるべきか、話題にしてはならないことは何かを考えていると身動きが取れなくなる。
もっとも相談する相手ははじめから答えを求めてはいない可能性もある。いや、大半の場合回答の有無はどちらでもいいようだ。ならば、大切なことは答えることより聞くことにある。
傾聴はカウセリングの絶対条件だという。家族ではない他人が耳を傾けることで相談者は安心と僅かな満足を得るようだ。助言はその上のことで極論すればなくてもいいのかもしれない。あるとすれば相手の悩みを分かりやすく言葉に変える手伝いをすることかもしれない。言語化できれば対象化でき、解決に近づく。
牡丹臭木がまもなく開花するようだ。シソ科の花らしく独特の悪臭がある。ただそれなりに花はきれいなので園芸種にもなっている。これが咲き出すとまた季節が進んだことを感じる。
絵画に込められた意味を考えることは大切であり、また危険でもあると考えている。楽しみであるが、それを壊すことにも繋がる。
絵画にはそれを描いた人の、あるいは時代の影響が色濃く現れるという。いわゆる美術評論家の語る解説は魅力的だ。いくつかの評論集を読んで知らなかったことを知り、絵をみる楽しみが増えた。
ただ、生半可な態度でこの知識を使うと絵が見えなくなってしまう。知識を前提に絵を見ることで生の感動や疑問を持つことが阻害される。決まった角度からしか作品が見えなくなってしまう可能性がある。
絵を楽しむための知識と、楽しめなくする鑑賞態度のバランスが大切であると痛感する。
4月であるにもかかわらず巨大な台風が発生している。本州への直接的影響はまだわからないという。
台風は夏や秋に来るのものというのがこれまでの常識だ。ところが最近は春にも冬にもその可能性があるという。大規模な気候変動のせいだといわれている。抵抗しようもない脅威を感じる。
台風のエネルギーを何かに利用できないかと考えたことがある。暴風や強烈な雨、あるいは気圧の変化などを活用できないだろうか。年間に限られた回数しかないものに投資をすることは非効率かもしれない。だが、やる価値はあるように感じる。
台風を追尾しエネルギーのおすそ分けをもらってくる無人のロボットがいいなどと夢ばかりは広がっている。
北千住には小学校に上がる直前まで住んでいた。親が東京での生活を始めた借家があったのだ。
年齢が年齢だけに覚えていることは少ない。隣に同年齢の少年がいたのは心強かった。下町ゆえいろいろな住民が雑居していたようだ。近くにほうきを作っている工場があり、演歌歌手の住まいもあった。ヤクザなので近づかない方がいいといわれていた家もあった。当時相当売れていたか歌謡曲の作曲家の大きな屋敷があり、白い犬を飼っていた。その犬に噛まれて嫌な思いをした。入り組んだ細い道は蝋石で落書きする遊び場になった。ローラースケートをして転んで擦りむいた。
断片的な記憶が浮かぶ。中には混同したり、事実とは異なることもあるのだろう。いま北千住はかなりきれいになり、かつての場末感はなくなっている。
二十歳前後から断続的ながら続いているのが短歌の作成だ。何年経ってもうまくはならないががそれがこの文芸のいいところでもある。満足してしまえばこんなにも続くことはない。
短歌は私にとっては感情のスケッチのようなもので詳細な色塗りはできないがある程度の視点の確定と塗代の確保はできる。展開を気にせずにとりあえず心の点描をしておくというときに役立つ。
こういう考え方は私のブログの書き方にも影響しているかもしれない。毎日何かを書くことは欠かさないようにしているが、記事相互の一貫性とかテーマとかはほとんど気にしていない。場合によっては以前書いたことと矛盾しても平気でいる。
こうした無責任な書き方は時々の精神状態のスケッチと考えることで弁明している。
コロナウイルスは変異種が拡散しつつあるということだ。感染力が上がり、若年層でも重症化する確率が上がったという。ウイルスのように短いサイクルで再生産されているものは変異が起きやすく、そのなかには強毒化するものも含まれると聞いている。ここまで蔓延すると簡単にはウイルスの進化を止められない。
その結果、再起動が期待されていた社会活動が景気よく始まることができなくなっている。多くの人が気づいているようにafterコロナはなく、withコロナの時代に入ったといえる。どのように厄介な病魔を飼いならしていくのかを考えていかなければならない。
