無駄時間

 最近つくづく集中力がないと思う。自己反省甚だしい。多くの時間がネットに奪われまさにスマホ脳になっている。もっともいまもスマートフォンでこのブログを書いているのだからどうしょうもない。

 このような行動をかつては他人事として軽蔑さえしていた。いまは誰も難じることなどできない。自己変革をするしかない。

 考えていることはブログを含めてネット接続する時間の上限を決めたいというのがある。書きたいことはノートかオフラインのデバイスに書こう。幸い私の自宅は通信環境があまり良くなく、ネット遮断は簡単にできる。

 アウトプットは減らさないが脇道にそれる時間を減らしていきたい。

折り返し

 日本では学校や多くの企業が4月を年度のはじめとする。だから、10月はその後半の始まりだ。緊急事態宣言が取り下げられて社会的にも一区切りがついた。具体的にはまだ何も変わっていないが、変化の兆しはある。新しい生活を始めよう。今朝はそんな気分だ。

総裁選

自民党の総裁選挙が行われ岸田文雄氏が当選した。議院内閣制に馴染みがない国の皆さんにとっては不思議かもしれないが日本国民は自分の首長を自ら選ぶことはできない。だから、総理大臣に対しての意識がかなり屈折している。自分のあづかり知らないところで選ばれた人という意識が常に付きまとう。

自民党はよきもあしきも日本の社会構造の縮図のような組織だ。国会議員たちは空気を読んで行動する。つまり自分の主義主張より、周囲との調和の方を重視するため普段からあまり自己主張しない。したとしてもこのようなときにはあっさりと大勢に調和してしまう。だから党全体としては大失敗はしない。代わりに飛躍的発展は望めない。

日本のこのようなあり方はどうなのだろう。おそらく、短期的もしくは中期的な局面においては著しく危険だろう。新機軸を出せないままひたすら衰退していくしかない。一度衰退が始まると様々に波及してその深刻さは顕著になっていく。

逆に考えれば失敗はしないことは、最低限の水準で消滅は逃れる可能性はある。冒険をしないことで損害は逃れられるという楽観的な考えだ。これから発展していく国にはよく考えてみれば数々のリスクがある。それを乗り越えられるのかは誰にもわからない。堅実路線を行ったほうが最終的には生き残る可能性もある。

自民党を選ぶのは日本国民の冒険しない国民性の心的傾向を体現しているとも言える。実は自民党にはいくつもの派閥があり、野党の役割を党内で果たしている一派もある。日本には政権を担当できる野党がないので、その代わりを果たしているのである。

それでも私は今のままでは行けないと思う。岸田次期首相には嫌われ者になっていただきたい。日本を改革するためには首相が行動を起こさなければ始まらない。変革者はたいてい嫌われる。それでも停滞しているこの国をなんとかしなくてはならない。直接、選んでいない代表だがなるからには相応の働きを期待したい。

社会を知る遊び

 誹謗中傷をソーシャルメディアに書き込むことに関して、様々な問題点が指摘されている。時に命さえ奪う精神的な打撃を与えることを考えると単に言論の自由という枠組みだけで処理することはできない。本名を名乗らない、遡及不可能な発言はカットすることをやらなくてはならないと考える。

 システムとして特定の人物の発言を不可視の状態にすることはすでに可能だ。信用のおけない相手の発言はそもそも見ないという方法である。しかし、実際には自分の端末でそれを行っても周囲からその情報は入ってくる。自分がどのように評価されているのか過度に気になる状況では、単に見ないというだけでは不安は解消されないのだろう。

 それ以上に大切なのは、精神的なフィルタを確立することである。誰が何と言おうと不当な発言は相手にしないという概念そのものを身につけることだ。これは教育の分野が行わなくてはならないのかもしれない。いわゆるメディアリテラシーだ。

 ただこれも一歩間違うと独善の方向に進んでしまう。正当な反論も聞き入れることができなくなれば、個人として社会としての発展が阻害されてしまう。ネットの存在の有無にかかわらず、集団の中で様々な意見とどのように付き合い、折り合いをつけ、時に自説を述べ、主張し、間違っていれば取り下げる。こういう繰り返しをこどもの頃から身につけることがこうした状況への解決につながるはずだ。

 悪口をいう方も同様なことが言えそうだ。自分の行為がどれほどの意味があるのか分かっていない。その影響力がどこまでおよび、いつまで続くのか。そしてそれが結局自分を傷つけ、時には再起不能のしっぺ返しを受けることになるということを。

 多くの場合、こうした社会性のようなものは遊びの中で習得されると考えられる。しかし、今の子どもたち、今大人になっている世代はこの遊びをしてきていない。それが大きな問題点だ。教育のなかに社会経験を積ませる遊びを導入する必要を強く感じる。

万葉集の歌

私にとっては万葉集の歌は何かを考えるときの原点になっている。日本以外の国からこのブログを読んでいらっしゃる方のために申し上げると、「万葉集」は日本のかなり古い古典である。8世紀くらいまでの日本の歌、短詩を集めたものである。

私は学生時代この歌集を研究していたのだが、今でも実に魅力的な古典だ。最近は文庫本で読み返すことが多いが、開くページごとにさまざまな発見がある。わたしたちの考える和風というのはだいたい室町時代以降、もっと言えば江戸時代のそれを指すことが多い。それ以前の鎌倉時代、平安時代は陸続きではあるものの今とはかなり違う。それ以前の奈良時代になると日本文化の常識が通用しない。畳、茶、日本酒そのいずれもないのが奈良時代なのだから。

それでも万葉集の作品は胸に響く。特に何かに行き詰まったときにこの作品を開くと良いヒントがあるような気がする。大昔の人が考えていたことが今の時代を動かすこともあるのだ。

人のため

 人のために何かをすることは自己実現の大切な方法だ。自分の利益を考えているだけでは行き詰まる。他者の幸せに貢献することが結局は自分の心身を豊かにすることにつながる。

 利他的な行為は義務感や責任感がはりついている。そこに息苦しさとか胡散臭さを覚えてしまうと次に進めなくなることも多い。身近なことの繰り返しが何よりも大事なのだろう。日常的に感謝したりされたりする流れがあれば継続しやすい。

 だから、ありがとうは意識して発するべき言葉なのだ。自他を幸せにする呪文のようなものなのかもしれない。

バブル

 感染予防の用語はいわゆる流行語の上位を占めている。スティホームやゴートゥートラベルなど文法的にどうなのか心配なものや、オーバーシュートの様に最近聞かなくなったものもある。最近の用語としてはバブルが印象的だ。

 感染の範囲を限定するために生まれたバブルの概念は、ウイルス感染に対して運命共同体を形成しようとするものらしい。どうしても協働しなければならないときの策である。オリンピックの運営で使われたのをきっかけに普及した。

 その意味では家族は究極のバブルだ私にとっても家族はかけがえのないパートナーであり、まさに運命共同体だ。にもかかわらず、ついそのことを疎かにしてしまう。もっとも大事なのはいつも近くにいる家族に他ならない。私は表現ベタであり、思っていることを軽々しく話すべきではないという美学を持っている。しかし、それ故に感謝の気持ちを伝えられていない。

 もっとも近くにいるバブルを大切にしたいと考えている。

先取り

 少し後のことを予見することは確かにあると考えている。次はこうなるという直感だ。多くは単なる妄想と片付けられてすぐに忘れてしまう。あとから考えるとあの時見た風景はこれだったのかと思うのだ。

 答え合わせがいつも後になるという点においてこの予感はエビデンスを持たない。でも、ある程度の確率でそうなることが実現するのだから、これは前もって記録でもして置くことにしたいと考えてしまう。

 私の場合はショートショートにまとめられるときにはまとめている。小説の卵みたいなものにも見える。もっともかなり脚色してそうなっているのだが。根拠のない妄想もきっといつかなにかの役に立つと信じて。

寒気予報

 長期予報によると今年の寒気は早めに訪れるらしい。昨日まで真夏日だったことを思うとかなり急だ。

 去年の冬はどうだったろうか。このところ一年中マスク生活なので季節感が崩壊している。冬は寒い方がいい気もする。何もかも曖昧だ。

 どんなに情報機器が発達しても私自身は目先のことしか考えられない。だから同じ失敗を何度も繰り返すことになる。

最後の真夏日か

 私の住む地域の予想最高気温は30度である。今期最後の真夏日かもしれない。週間予報では来月はじめにも高温予報は出ているが。

 気温は上がっても湿度が夏のそれとは異なる。光の色も違う気がする。通勤電車の線路脇のどこまでも続くすすきの列が風になびいているのを見るとさらに移ろいを実感する。

 今日は上着を置いてきた。これも今日までかもしれない。