秋分

今日が秋分の日ということはこれからは夜の長さのほうが長くなることを意味する。今日は真夏の陽気でとても秋とは言えないが、それでも空気は乾燥していてさすがに8月とはちがう。昔から暑さ寒さも彼岸までというからこれから急に季節は変わっていくのだろう。

先程、散歩をしていたらすすきの穂が風に揺れているのを見た。それもかなりの群生だ。目にはさやかに見えねども、確実に季節は変わりつつある。緊急事態宣言の取り下げはタイミングが難しいが来月はランクを下げざるを得ないだろう。いわゆる「人流」も復活し、ワクチンの効果がどれほどなのかが試される。

実りの秋はどこにあるのか。見定めていかなくてはならない。

逆境こそ

 コロナ禍の最近の大流行はピークアウトしたようだ。これからも繰り返すかもしれないし、次第に収束していくのかもしれない。いまのところはなんともいえない。病魔が影をひそめたと思ったら、今度は中国の不動産バブルが世界経済を撹乱しつつある。この影響もどこまでいつまで続くのか分からない。

 いまは恐らく逆境の中にあるのだろう。これ以外にも身辺を取り巻く状況に厳しいものが多い。私的問題もある。そうした逆境を悲運として受け取るか、別の兆候と考えるか。私は岐路に立っている。

 変化の多い現状では損失が多く、それ故の心身の打撃も大きい。それだけで疲弊していく何かがある。その一方で、変化に対して寛容になる環境が整っているともいえる。繰り返す転身が単なる逃げには映らない。

 こういう状況は自己変革の絶好の機会なのかもしれない。そう考えるといまの状況もまんざらでもない。

日較差

 最低気温と最高気温の差が11度もある。着るものに迷う時期だ。今日は上着を置いてくることにした。それは暑さに備えるからというよりは上着を着ないでいられる期間が終わろうとしていることへの名残惜しさのようなものだ。昼間はよかったと思い、帰りには後悔するはずなのだ。それもいまの時期の大切な経験なのかのしれない。

ノート作り

中学校の教員なので、教える教材は限られている。特に教科書が変わっていない場合は数年前の授業を再演すればいいはずだ。ただ私の場合はいつもゼロから準備を繰り返す。これは非効率的だが私のこだわりでもある。

大きな声では言えないが教員用の指導書もあまり当てにしていない。教えるべき目標に関しては一致させるがそれにたどり着く方法は指導書のままというわけにはいかない。教員の方はご存知かもしれないが指導書はあくまで理想で書かれており実態にあっていない。計画通りに運ぶはずがないほど効率的な授業計画が書かれている。

私の場合、本当に伝えたいことに絞ってそれを強調するような内容に書き換えてしまう。文科省的はいかがかと思うがそのほうが結局生徒のためになるのではないかと信じるからだ。今回の目的は例えば作品の構造を考えるとか、表現技巧の工夫を考えるとかであれば、それだけに中心をあてて行くのだ。

そのためにはリハーサルをしておく必要がある。私の場合、それがノート作りである。いうべきことを書いておくネタ帳だ。前回同じ教材を扱ったときとは目的が違うこともあるのでノートはその都度作る。同じことをやれば楽なのにとも思うが、やらずはおられない。

嵐の後

 台風一過の晴天、この季節にしては暑い一日だった。今日はここまでの鬱憤を晴らすのためなのか近隣のモールにも相当な人手があった。駐車場の待機列も長く続き数年前の日常が戻ったかのような錯覚にとらわれた。

 ウイルスワクチンの接種が続けられてきたため感染者数は今後現状傾向になるはずだ。ただ、これはマクロの話であり個々人のレベルでは危険な状態は継続されている。それが難しいところだ。戻ってきた人出の顔にはマスクがあることを忘れてはならない。

 嵐の後の喜びは今日のつかの間の風景だった。本当の嵐が去ったあと、人々はもっと笑えるのだろうか。その日は近いのだろうか。

台風接近中

 台風が西から近づいている。すでに東京は雨が降っているがいまのところ暴風雨といえるものではない。ただ通勤電車は速度規制のため遅れが出ており、これからもさらに広がる可能性もある。職場にはやらねばならないことが山積しているのでやらざるを得ないが、落ち着かない一日になりそうだ。

台風の進路

 台風の進路予想が刻々と変わり、ある機関は本州横断の予報を出した。警戒すべき事態だ。

 最近の台風は大型で被害が大きく出る傾向にある。ただ私の住む関東に限れば近年接近が少なく、備えが疎かになっている可能性がある。今回のみならず、これからの台風シーズンに対策をしておかねばなるまい。

 ウイルスよりも歴史的に多くの犠牲者を出し続けている風水害を侮ってはならない。

気のせい

 台風はまだ遠くにある。いまだ発達中とのことで心配だ。ここ数年、私は大きな気圧変動があるときに調子を崩すことが多い。大半は「気のせい」だと思うが、同様の症状を直接または間接的に耳にすることがあるのでまったくの思い違いでもなさそうだ。空気とうまくつきあうこともいまの私の課題なのだ。

トラベル

 旅行はいま一番やりたいことの一つだ。コロナ禍になってからいわゆる旅はできない。近隣に行くのでさえ気遣いがいる毎日だから仕方がないのだが。

 旅の情報はいくらでも溢れているし、各種の情報サービスを使えば、一度も訪れたことがない場所でも様々な擬似的体験をすることが可能だ。場合によっては現地に住む人以上の情報を得ることも可能かもしれない。

 それでも旅の価値が変わらないのは、一回限りの体験をするために目的地に身を置くことが必要だからだろう。誰のものでもない自分だけの時間と空間を得るために旅がある。

 いまはその大事な時空を獲得する方法が損なわれている。早く旅ができる日が戻ることを切望する。

陰謀論

 コロナウイルスが実在しない社会的陰謀であるとの考えがあるようだ。中には過激な活動をする人もいて世界的な社会問題になっている。陰謀かどうかは周囲の状況をみれば明らかなはずなのだが、運よく関係者に感染者が出ていない場合にはそう考えてしまうのは仕方がないのかもしれない。

 ただ、許しがたいのは陰謀論を宣伝している個人や団体である。社会不安を掻き立てるためにソーシャルメディアなどを活用して偽の情報を流し続けている。恐らく自らの売名行為であり、アクセスと連動した収益の手段として行っているものに違いない。自らはワクチン接種を済ませている可能性も否定できない。

 この種の問題が厄介なのは事態の全体像を掴めている人がほとんどいないということだろう。陰謀論は虚偽だと主張してもその根拠はと問われれば説明しつくすことは不可能だ。そこにまたつけこまれることになる。

 メディアリテラシーの重要性が改めて注目されるべきだろう。最後の判断は自身で行うとしても、メディアで伝えられた情報の真贋を判断する方法を私たちはさらに磨く必要がある。