非常停止装置

自動車の運転手の発作によって悲劇的な事故がまた起きてしまった。運転手は文字通りの急病であったようで、健康診断に異常はなかったということである。高齢社会の日本ではこのような事故が定期的に起きている。もちろん高齢だけが問題ではなく、人間は間違った判断をしてしまったり、今回のように突然自分の身体が制御できなくなることもある。

そういうことを踏まえた自動車の設計をしていく必要があるだろう。自動運転はこれを解決する方法になるかもしれないが、その段階に至る前にもできる事あるのではないだろうか。例えばアクセルの踏み方がおかしい場合は自動的に動力を切り、制動装置を作動するといったことはAIの技術などを応用して実現することはできそうである。未来をための開発もいいが、現実に起きていることを解決する技術の開発にも期待したい。

私などの素人はまず運転席に乗ったときに即座に健康状態を測定する機器を搭載すれば、リスク回避の一助になるかと思う。制動装置の開発は少し遅れるだろうから。こうした開発の資金は国税を投入にしても十分な見返りがあると考えるがどうだろう。

類型思考

 私が対象を型にはめて考えているということは先日も書いたが、これは人物に対する評価にも当てはまる。そしてとても注意しなくてはならない事実でもある。

 個々人のあり方は多様であり、厳密には唯一無二の存在しかない。しかし、それを私は何通りかの型に分類しているような気がする。特に視力が落ちて細かいところが見えなくなったいま、外見上の特徴に関しては分類項目が減っている。よく似た人がいると認識することが増えているのはおそらくそのせいだ。本当は全く似ても似つかない。でも、判別する型が減少すれば同じ範疇に分類されてしまうのであろう。

 気質、性格、コンピテンシーに至るまで分類の方法はかなり大雑把になりつつある。あの人はこういう人だから、という時のこういう人の分かれ目の数が減っている気がするのだ。絵画に喩えてみれば使える絵の具の色とか、筆の種類とかが少しずつ減らされている感じだ。

 こうした傾向に歯止めをかけたい。どうすれば絵の具の色彩を減らさずに済むのか、摩滅した筆を捨てずに描き続けるのにはどうすればいいのか。縮小傾向のなかでもできることはあるのかもしれない。別の絵の具で色を創り出すとか、筆力を減らしても描ける方法を編み出すとか。やれることはまだあるのだろう。まだあきらめる段階は早い。

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虫の音

 ここ数日暑さが戻ったがやはり日没すると急に涼しくなる。秋の風情をかきたてるのが虫の音だ。コオロギやら名も知らぬ虫たちが一斉に鳴く。国によってはこの音をノイズとしか捉えないと聞いたことがある。私達にとっては情緒の塊なのに。

枠組みの外

 私が何かを見たり聞いたり、考えたりするとき既存の枠組みが大きく作用している。最近、特にこれを実感する場面が多い。

 枠組みを外して考えろとはいうのは易しいがなかなかできるのものではない。枠組みから外れると認識すらできないことが多いのだ。感知できないことは思考の中に取り込めない。

 私の場合、何かのはずみでいつもと違う考えが浮かんだとき、それを残しておく手段が短歌や俳句、詩といった韻文である。これも最近気がついたのだが私の作る短歌は何かおかしい。辻褄が合わない世界の表現はきっとこのフレームアウトした何かを張り込もうとする結果なのではないか。

 韻文のままでは思考に繋がらない。さらに先を追求すると新しい局面に到達するのだろう。

重陽

 新暦の9月9日である。旧暦の世界では重陽の節供であり、陽数の重なるありがたい日だ。

 一方で日本語で九は苦という音と同じであることから避けられることがある。部屋番号などで四(死)と九(苦)が忌避されるのは迷信の類によるものだが、現代でも気にする人は多い。

 9月は本来いい季節だと思う。暑さが収まり海山の幸も豊かになっていく。大きなイベントもなく、ゆったりと過ごせるはずだ。しかし、実際はそうでもないらしい。9月を自殺予防強化期間とする地域は多い。転勤や新学期などで環境が変わることが過度の緊張感を生み出すからであろうか。

 緊急事態宣言延長で9月はすべてコロナ対策に捧げることになった。9月が苦となるかはまだ分からない。

次の首相

 菅総理大臣が次回の自民党総裁選挙に出馬しないことが発表されてから、次の首相が誰になるのかが世の注目を浴びている。議院内閣制の我が国では、国民が直接首相を選ぶことはない。与党の意向で首長が決まる。

 立候補者の顔ぶれをみると、いまよりは期待できそうな気がしている。派閥の均衡より、できる人材を抜擢できるリーダーをみたい。野党のリーダーも他人事でなく、自民党を超える政策提言をしてほしい。

上着

 上着を着ずに出かけたことを少々悔いている。今日は少し気温が上がるようで、24度に達するかもしれないということだ。このところ少しあとの季節の先取りをしているだけに体感温度の調節が難しい。

 季節の変わり目は神々の往来があるというのが古代からの伝統的な考え方のようだ。様々な災禍や病患を発生しやすいことから生まれた民俗なのだろう。根拠の有無は分からないが注意するに越したことはない。

 来週からは上着をつけようかと考え出している。体温調整の準備も必要だ。

低温

 関東地方は気温が上がらない日々が続いている。今日は20度に到達しないかもしれない。あすからはまた暑さが戻ってくるようだが、どうもこれまで涼しさに慣れてしまうとこの後が辛くなりそうだ。雨や曇りの日が続いており、気持ち的にも盛り上がらない。

 天気と感情との相関関係がどれくらいあるのかわからないが、気分転換が難しい昨今の様子にあってはちょっとしたことが精神衛生に影響する。天候も緩やかであってほしい。

パラリンピックも終了

 いわゆるTOKYO2020大会が今日で終了した。メダルの数が増えたことは選手や競技関係者にとっては嬉しいことだろう。日本人にとっては非常に複雑な大会であった。すぐ近くで行われているのに見ることができない。海外からの選手団を歓迎することもできず、ウイルスの運び屋ではないかなどと勘繰る向きまである。折悪しく開催時期にコロナウイルス感染者が爆発的に増え、緊急事態宣言が出されたままであった。

 日本人は災害に慣れているのか、この状況になっても一部のデモがあっただけで、混乱はまったくない。海外でどのような報道が行わているのかわからないが、東京は極めて平穏である。人出は抑制されているが、それでも集まるところには集まっている。マスク姿の異様性ももうなれてしまっている。医療機関は大変な状態だと言うし、在宅待機を言い渡らされて後に死亡した事例なども紹介されているので事態は深刻なはずなのに、少なくも自分の近辺はほとんど変化がないのだ。

 このウイルスの罪なところはこのように一部の人に深刻な害を与え、それ以外は軽く済んでしまうということだろう。危機感を共有しにくいし、真剣な対応も取りにくい。オリンピックとパラリンピックもだから素直に受け取れない。現代人を分断しようとする悪魔の手段なのだろうか。国際大会は多様な人を結びつけるための手段であったはず。古代オリンピックは不戦の日としての役割もあったはずだ。私達はなにかとても大きな力に対しても勝利を収めなくてはならない事態に追い込まれている。

先輩面にて

 先輩面して一言言おう。今できていることがいつまでもできるとは、思わない方がいい。これは大切なことだ。

 誰もが加齢という不可逆的な流れから逃れることはできない。見た目がいかにあろうとも中身は着実に変化しているのだ。するといままでできていたことができなくなってくる。これは少しずつ自覚できるものではない。あるとき急に立ち現れ、ゆっくりと自覚を促そうとする。抗えないものと観念するには時間はかからない。

 だから後輩諸君には改めて言っておきたい。先延ばししても同じことができる保証はない。やれるときにやっておくのが賢明なのだと。