ここ数日、気温が低めで推移している。猛暑に順応した身体にはかなり肌寒く感じられる。これが秋の始まりかというとそうでもないらしい。季節のゆきあいは波のような循環である。
落ち着いて本でも読みたくなっている。8月は暑すぎた。比較的時間があったというのに。毎年、同じことを思うのだが夏の休みはあまり生産的ではない、私にとっては休養のときなのだ。その意味では目的を果たせたのかもしれない。
このブログはポジティブになるために書いている。そしてこれからもそうするだろう。
日々の思いを言葉にして
ここ数日、気温が低めで推移している。猛暑に順応した身体にはかなり肌寒く感じられる。これが秋の始まりかというとそうでもないらしい。季節のゆきあいは波のような循環である。
落ち着いて本でも読みたくなっている。8月は暑すぎた。比較的時間があったというのに。毎年、同じことを思うのだが夏の休みはあまり生産的ではない、私にとっては休養のときなのだ。その意味では目的を果たせたのかもしれない。
このブログはポジティブになるために書いている。そしてこれからもそうするだろう。
恐らく現在多くの教育現場で出ている話題に、通学を優先するのか安全性を重んじて在宅にするのかということがある。いま蔓延しているウイルスのように致死率が高いわけでもない、さりとて無視できない害を持っている場合、その判断はかなり難しい。
リモート授業の設備が整ったとしてもこの問題は残る。リモート授業の学習効果に関しては様々な疑問があるからだ。発信者側のスキル未熟もしくは未発達という問題もある。それよりも大きいのが受け手側の問題なのだ。学校という特別な空間に身を置かずに学びの姿勢に切り替えるには生活習慣の改良を伴う大きな変化が必要だ。仲間との関係から醸し出される様々な感情とその対応も学校でこそ学べる。
現状では保護者が責任を持つしかない。学校が万全を尽くしたところで感染の虞はなくならない。保護者が我が子の将来を見越して選択するしかなさそうだ。
今日から9月だ。伝統的な暦ではすでに秋は始まっているが、この月を季節の変わり目と考える人は多い。今朝も昨日と比べるとかなり気温が落ち、何かが変わったことを感じさせる。
日本では夏休みが終わり2学期が始まるのがこの月だ。最近は地域によって様々な形があるので一概には言えなくなっている。再始動の月であることは確かだ。
集団生活の復活に緊張する子どもがいることがこの時期の年中行事的な出来事である。今年は少し様子が違う。コロナウイルスの感染が一向に収束に向かわないので、登校を辞退するという選択肢があるのだ。行きたくないからの理由が、個人的な問題にとどまらなくなっている。
生徒、学生諸君には早く平常の学校生活を送っていただきたい。失われた何年などと後で言われないようにやれることはやっておこう。
ワクチン接種が進む中で様々な問題が生じているようだ。異物混入という深刻な問題は特に注目される。それでもワクチン接種は進めなくてはならない。
好ましくないたとえであるが、自分の身体を全く知らない赤の他人に任せているというのがいまの日本である。世界の大半の国が日本と同等なのだが、それも大きな問題だ。ワクチンのような最新技術ゆえ仕方ないともいえるだろう。ただ、それにしても外国製しか選択できないというのは問題が大きすぎる。
グローバルな時代に国産にこだわるのはおかしいというのが少し前までの考え方の主流だった。コロナ禍はその間違いを教えてくれた。グローバルな繋がりは何らかの理由で途切れることがある。その時どうするのか。食料やエネルギー問題も含めて再考する必要がある。
日本人の国民性として取り上げられるのが「空気」の察知能力だ。個人よりも集団を重視する日本人はいまいる環境の中での適合を好む性質がある。秩序を重んじるのはそのせいだといわれる。これは長年言われ続けていることだから、ある程度は正しいのだろう。
「空気を読む」はしばしば命令形で用いられ、集団の輪を乱さないことが美徳とされている。これはこれで素晴らしいことだと感じる。ただし変化には弱い。国際社会の中で日本が衰退の方向に向かっているといわれているのは、このことと関係があるのかもしれない。過去に日本が苦難の歴史を乗り越えてきたのは、時代の変節点においてこの国民性を一時的に変更し、極端から極端に走ることで対応してきたからではないだろうか。
極端に性格を変えることには相当の痛みを伴う。多くの犠牲者が出る。それを避けたいと思いながらも、どうしても極端に走ってしまう。過去の秩序を旧弊として非難する風潮が社会に満ち始めている。やがてこれが日本社会を大きく変えてしまうかもしれない。だが、事態が落ち着くとまた同調モードに逆戻りして平和主義になる。そういう歴史を繰り返しているのではないだろうか。
もしそうならば、いまは同調モードが破綻しかけている時期と察する。このあとに大きな変革があるかもしれない。いやすでに始まっているのかもしれない。同調しきれない要素が世界を満たしたとき、一気に変化していく可能性がある。そこでの痛みをなるべく減らすために、私たちは過去の歴史に学ばなくてはならないかもしれない。
プレゼンテーションのスライドを作っているとついそれだけが目的のようになってしまう。スライドが主ではなく、発表が主だということを忘れてしまう。
プレゼンテーションのスライドを作るのはかつては結構ハードルが高かった。ところが、いまはかなり簡単にできる。画像を貼ることも簡単で、動画も付けられる。だから、どうしても作りすぎてしまう。
大切なのはメッセージを伝えることであり、プレゼンテーションの資料に余計な装飾はない方がいいこともある。聞き手が話の内容に集中できるようにしなくてはならないのだ。
最近は学校の授業でもスライドを多用しているが、いつも思う。メモできる程度を超える情報は出してはならない。記録ではなく、記憶に残すものにしなくてはと。
コロナ禍で遠出ができなくなった副作用もある。近隣の歴史や文化について考えるきつかけを与えられたことだ。
身近な事柄について私たちは価値を見いだすことが難しい。日常に隣接することには特別な意味を感じにくいのだ。当たり前というバリアがすべてを見えなくしてしまう。
どんな地域にもそれまでの歴史の積み重ねがあり、そこにはさまざまなドラマがある。そのことを思い出させるのは、今回の異常事態の僅かな功績の一つなのだろう。
当事者でないと理解できない苦しみがあることは確かだ。それは心身ともに痛みを感じるものである。名状しがたいものであり、本人以外は決して踏み込むことができない何かだ。まずそこから始めなくてはならない。
その意味において私たちは、他者の窮状を救うことはできないのかもしれない。陥穽から這い上がるのはあくまで本人であり、手を差し伸べれば解決するというものでもあるまい。ただ、本人が上昇するきっかけを与えることはできるのかもしれない。それは相手が苦しんでいるということを理解することから始まるのだろう。
相手の苦しみを当事者に言語化してもらうことができれば解決策に近づく。漠然とした不安が言葉に集約されれば、その本質に近づく手がかりが生まれてくる。だから、私たちができるのは苦しみの当事者の言葉を聞き出すことだ。これには粘り強い気持ちが必要であり、その前提の愛情もいる。聞き出すことから、自助のきっかけを引き出せるのだ。
雑草を検出するスマートフォンアプリがあるらしい。カメラを向けるだけで植物名を同定する機能があるアプリは私にとっては魅力的である。ただ、雑草判定機能があると聞いて躊躇を始めた。
かつて庭付きの家を借りたとき、草刈りにはかなり手を焼いた。周囲が田圃ばかりの田舎であったからか、繁殖力は凄まじい物かあった。当然雑草との戦いが繰り広げられる。除草剤は巻きたくなかったし、農家が持っているようなエンジン付きの草刈り機もなかったのでひたすら鍬振りであった。
雑草の中でも手強かったのが三つ葉であった。吸い物に浮かす繊細な日本のハーブは、実はたくましい生命力を持っている。庭に植えたところ、日に日に増えた。最初は食材の自己調達とよろこんだが、消費量をはるかに上回る増加だ。頭の中で3の指数関数が思い浮かんだ。
何を雑草とするのか、雑草に役割はないのかを考えるのは大事なのだろう。アプリの指示で一意的に決定することに危険を感じたという話である。
新型コロナウイルスに対するワクチン接種が進んでいる。私も2回の接種を済ませたがほとんど副反応はなかった。職場の同僚には発熱などの症状が出た人もいるが、ほとんどが一日程度で回復するのだという。
副反応に関しては様々な情報が飛び交っている。情報共有が中途半端な場合、こうした根拠なき発言は力を持つ。正しい情報が何かが分かりにくいのだから、個々人が気をつけるしかない。
私はファイザー製薬のワクチンをうち一度目は軽い筋肉痛のような感触を半日感じた。2回目はほとんど何も感じなかった。それは私だけの場合であり、他の人がどうなるかはわからない。参考まで。