庭木として人気のあるモッコクは花に注目が集まるが実も魅力的だ。秋の日に小さな林檎のような実をいくつも連ねているのは、鳥ならずとも豊穣を感じさせる。椿の仲間というが、まったく別の季節に心を晴らしてくれる植物だ。
万年筆
万年筆はもちろん万年使えるわけではない。経年劣化すればいつかは書けなくなる。でも万年にかける意味は大きい。
亡父は物書きではなく、むしろ筆不精だった。だかプラチナ社の万年筆をよく使ったようで遺品に何本も同じようなペンがある。
私は職業柄万年筆はよく使う方だ。筆圧が不要なペンは特に助かる。添削や採点はデスクペンで済ませている。デジタル添削も試したが、時間がある場合はやはり直筆の方がメッセージが伝わる気がする。
万年使うことは無理でも、せめて死ぬまで使える筆記用具は持っていたい。自分は消えても何かを残せるかもしれないという儚い願望が形になったものが万年筆なのかもしれない。
公園へ
隣の市の公園に行ってみた。いわゆる森林公園というもので、開発をされずに残った緑地だ。かつてはむしろこの方が広範な土地を占めており、その空白地に人が住んでいたのだろう。いまは全く反対でわずかに残された森林が公園として保存されている。
緊急事態宣言が解除されたとはいえ、マスクを外せない毎日だが、周囲に人がいないことを確認して素顔を日光に当てるのもよい。公園は芝を張った広場を除けば雑木林が広がっている。その中を歩くのも気持ちがいいものだ。
自然そのものではないことは分かっている。様々な管理の末に公演は保たれているのだ。その意味では公園も極めて人工的な空間だが、緑や様々な花に囲まれる時間は日常とは異なる空気を吸う貴重なものである。

香ぐのこのみ
隣家の庭木にたくさんの蜜柑がなっている。初夏、ひそかに白い花をつけていたので、結実を楽しみにしていたが今年は特に豊作のようだ。
温州みかんの元祖は橘であると聞く。記紀万葉にときじくの香ぐの木の実と記されているのはこのことらしい。常緑の木になる色鮮やかな果実は生命力の象徴と考えられ、仙薬にもたとえられた。
実家の庭にも蜜柑があり、昨年はそこそこの収穫があった。ただそれを楽しむ人がいないのが残念だ。仙薬ほどではないにしても、摩訶不思議な植物の力をいまは切望するばかりだ。
地震
昨夜、関東地方で大きな地震があった。緊急地震速報が鳴動し、かなり長い時間揺れが続いた。私の住む地域は震度4だったらしいがもっと強く感じた。家財で崩れたものはなく、周囲に変化はない。
ただ、東京東部や埼玉、千葉の一部ではかなり大きかったようでけが人が出たそうだ。震源が深く、広範囲で揺れている。このところ全国でやや強い地震が相次いでいる。東日本大震災から10年過ぎてなにか変化があるのだろうか。
白状しよう。あんなに大きな地震があったというのに、その後私は寝てしまった。震源の位置と深さ、津波の有無を確認すると根拠のない安心感が出てしまう。震源はかなり近いが直下型ではなく、海底地震ではない。それだけで安堵してしまう自分は明らかにおかしい。
恐らく私たちは地震のない国の人々からすると信じがたい精神構造を持っている。天災に関する諦念は説明しにくい。それがいいように働くときはよいが、そうでないこともしばしばある。気をつけなくてはならない。
本物を
外出自粛でネットのサービス利用法はかなり上達してきた。コロナ禍の前と比べると格段の進歩だ。ほぼ毎日テレビ会議をする教員になるとは予想だにしなかった。
ただ、リモートで何かができるといっても、それはディスプレイの画面上の出来事に過ぎない。リアルな経験のないものだ。
仕事はそれでできるものはしたほうがいい。時短になれば益がある。対して実感を大切にしたい場面では害になることもある。
これからは本物に会うことを大切にしたい。それが実感できるのもコロナ禍のおかげともいえる。
俳優の容姿
俳優の多くはいまの容姿容貌をなるべく長く持続したいと考えているのだろう。いつまでも若くありたいという多くの人の共通の願望に加え、獲得したキャラクターを使い続けたいという商業的理由もあるはずだ。
ところが誰も時の流れに逆らうことはできない。どんな最新の医療や化粧の技を駆使しても確実に加齢の現実は現れる。むしろ抗おうとすればするだけ、段階的に容姿は変化し、急に老け込んだかのように見えることすらある。それを分からないようにしてもやはり気づいてしまう。
昔、一世風靡した俳優を何らかのきっかけで目にしたとき、その変化に驚くことがある。暫く見ていなかった人ほどそうだ。恐らく様々なアンチエイジングを施した結果であるはずなのに。
顔を売る仕事の人たちがこうなのだから一般人はもっと劇的なはずだ。私も過去の写真をみると変化が甚だしい。見た目はどうしようもならない。
外見の変化と内面は必ずしも一致していない。精神は昔のように若々しい人もいる。せめてこの方は時に逆らってみたい。
改革、再生、復興
岸田首相が誕生し組閣人事が昨日のニュースだった。わずかながら世代交代があったことは喜ばしい。女性閣僚が3名に止まったのはやはり人材不足なのだろうか。
最近の大臣には兼務項目を併記する傾向にある。今回も記憶できないほど多くの肩書きがある大臣が複数いる。本来職掌の中にありそうなものもあり、仕事をすることのアピールなのだろう。
それにしても再生とか改革とか、そういう名のついている役職が多い。それがいまの日本の現実なのだろう。世間では実際には何もできないとか、短命であるとかいろいろ噂するものがある。国民としてはそのどちらもが国益に叶わないので、世評を裏切ってほしいと願いたい。
ハナミズキの実
街路樹のハナミズキに赤い実がなっている。知らないうちに大きくなったようである。一度気づいてしまうとどの木にも見えるようになる。ものの認識とはこのようなものだ。
季節の移ろいは色々なきっかけで気づく。人工的な風景の中にも季節は見えてくる。それに気づくのにはそういうことへの関心がいるのだろう。天気さえもスマホの画面で確認しようとする私の生活からは季節を感じ取る力さえ衰えつつあると言わざるを得ない。
ハナミズキは紅葉し落葉する。その色もなかなか鮮やかなものだ。いつもその鮮やかな赤を何とか保存したいと思うのだが、写真に撮る以外に方法がない。仮に何かで標本化しても、それはすでに別のものになっている。それぞれの季節の印象を心に焼き付けておくことが季節を知る始めとなる。
融合というイノベーション
この国を再起するためにはイノベーションしかないと言われて久しい。しかし、研究開発にかける資金もそれを支援する制度も不完全な現状では一向に進む気配がない。残念ながら何も起きそうもない気がしている。
でも、そうでもないという人もいる。日本型のイノベーションとは新しい物をゼロから生み出すことではない。むしろこれまであるものを組み合わせたり、新しい解釈を加えることで新機軸を作り出してきたのが我が国のあり方だった。最近はその方法を忘れてしまったかのような気がする。
でも、この国に染み付いた文化融合のエネルギーはそう簡単には消えないだろう。まずは自国が一番というおごりを捨てて周囲の良いものを見つめることだ。その謙虚さが新しいものを作り出す始点となるだろう。我以外皆我師の精神をこの国が取り戻せば、また新しい展開が見られるはずだ。私もその一員としていろいろなことに関心を傾けていきたい。