主旨を掴む練習

 今後の国語教育に必要な力であり、目標とすべきなのは要約力であることはほぼ間違いない。要するに何が言いたいのかを簡潔にまとめ、それを言語化する能力が求められている。

 言葉の知識や漢字力の大切さは揺るぐことはない。傍線部の意味を説明する問題も大切だ。ただ、かつてとは異なり、語彙は検索すればすぐに分かるし、テクニックで答えが出るような問題はやがて人工知能に任せることができるだろう。大切なのは主旨を掴む力である。

 大量の情報を受け取ることができるようになっても、そこに価値の濃淡を見いだせなければ理解はできない。そのためには短文をなるべくたくさん読み、言いたいことは何かをまとめる力を身につける必要がある。

 そのための方法を考えてみたい。要約文を書かせるのがいいと思うが、これには手間と採点時間の長さという課題がある。自己採点できる方法を考案すればいいのだろう。すでにその目的で作られている問題集があるのになぜ普及しないのかも考察したい。

建国

建国記念の日といっても現在の日本人にはその意味を考える人は少ない。革命で国家建設を勝ち取ったとか、新しい憲法が生まれた日とかではなく、多分に伝説的な初代天皇の即位日をむりやり太陽暦に当てはめた末の産物だからだ。

初代天皇の神武天皇は『日本書紀』によると辛酉年春正月、庚辰朔とあり、この旧暦元旦を紀元前660年2月11日と算定したということである。もちろん科学的根拠はなく、この年に古代国家が成立していた保証はない。おそらく日本という意識すらなかったかもしれない。

神武天皇は橿原の地で即位したと言われる

自然発生的な国家においてはいつがその始まりだとは言えないというのが事実だろう。前に述べたような明確な事実があり、それを区切りとするのならば記念日はある。日本にはそれがないのはむしろ長い歴史をもっていることの誇りでもあるのだ。だから、建国記念の日の意味は他国とは異なる。

グローバル化の中で、日本という国が自立できないことが明確になったいま、あえて国とは何かを考え直すことがこの祝日の意味の一つだろう。最近、没落国家と自国を言ってはばからない人が増えたが、その中で何をすべきなのだろうか。国のために命を落とした先人たちの思いと、国を捨てて自己の利益を優先する人との間にあるのは何なのか。何が正しく、間違っているのか。それを考える必要があると思う。

雪になる前

ほどよく降って

 これから雨が雪に変わるらしい。いまのことろは小雨だ。南岸低気圧による降雪は予報が難しいという。予報官には申し訳ないが外れてくれることを期待する。私のように出勤しなくてはならない方には帰りの道に気をつけようと申し上げたい。

自分のために

 オリンピックの長所は国や地域の一体感を実感できることにある。選手に自らの共同体の代表という意識があり、仲間のことを思う意識がある。これは同時に短所にもなる。

 成績が伸びなかったとき、失敗してしまったときなどに必要以上責任を感じるのは止めた方がいい。わざと手抜きをしたならばその責めを負うべきだが普通はそのようなことはない。勝敗は時の運であり、勝つ人がいつも勝つとは限らない。

 まずは自分のために競技をするべきであり、外部がどう言おうと気にしないことだ。口さがない発言をする人ほど実はさほど深く考えていない。刺激的なことを言った事自体に自己満足しているのにすぎない。それに付き合う必要はない。

 スポーツの話だけではない。失敗に寛容な社会を作らないと衰退してしまうということはそろそろ多くの人たちの共通理解になってもいい。最近、失敗を嘲笑する人が増えているように思う。

自分のために走るべきだ

大雪

大雪は大変だ

 日本海側で大雪になっているという。私は元住民であるが離れてかなりの歳月が過ぎて感覚を失いつつある。いま思うと大変だが心躍る一時でもあった。

 私が住んでいた期間にも何度か大雪となったことがある。もっとも困ったのは玄関が雪の重みで開かなくなったことだった。幸い悪戦苦闘の上比較的短い時間で脱出できた。その昔見た二階から出入りする事態になるまでの雪はなかった。そこまでの豪雪は経験していない。

 車庫から車が出せなかったり、除雪している間にまた積もったり、帰りが心配になったりという思い出はいま考えても当時の困惑が思い出される。

 雪国の皆さんにはくれぐれもお身体大事にしていただきたい。雪は恵みをもたらすものと昔から信じられていた。幸多からんことを。

音読のすすめ

昔から言われていることだが、音読には一定の効果がある。受験生の頃を思い出してほしい。頭の中で記憶しようと思ってもなかなかできないが、声に出してしかも声量をあげて読むと頭に入ることがあっただろう。これは個人的なものかと考えていたが、どうも科学的にも証明されているらしい。

国語の教員の立場でいうと受験世代の古典学習にはとくに音読をお勧めしたい。古典文法は覚えるまでは結構面倒だ。なに活用のなに形かなどという試験を出されて嫌になってしまうことがあるだろう。それで古典を嫌いになってしまったならばもったいない。文化的には国家的損失だ。

声に出して読もう

文法の約束を覚えることはもちろん大切だが、その前に音読を繰り返しておけばある程度は感覚的に読むことができる。口と耳が覚えてくれるという比喩は言い過ぎではない。英語学習でも聞くことと話すことが大事だと言われる。それと変わらない。英語はその気になれば街中に溢れているし、メディアからも流れてくる。古語はどんなに探してもそれを話す人は周囲にはいないだろう。ならば自分が発声するしかない。

受験の必要がない私のような世代の方々にも日本語の文章を音読することをお勧めしたい。特に名文と評価されている文章や、古典文学の文章の音読は意識的に行っていただきたい。日本語のあり方を考える基準になるだけではなく、自分の表現方法を見つめ直し磨き上げる良い方法だ。その他、いろいろな効果があることは先に引用したサイトの情報を参照されたい。

手元に中学や高校の教科書があればそれがいいと思うが、それがなければ好きな作家の文庫本でも一冊買って音読するといいと考える。古典に関しては個人的には読みやすく面白く、平安文法でもその後の時代の文法でもなくいわゆる日本の古文の標準の文体を持つ「徒然草」がいいのではないか。細かい意味は分からなくてもいいので、声に出して読むことだ。昔の言い方で言う素読をおすすめする。

コロナの時代で声に出すことが忌避される風潮にあるが学習に関しては声出しは意味があると信じる。社会的距離を保った上で音読する学習者が増えることを望む。

二十四節気の意味

北京で冬季オリンピックが始まった。開会式は国家の威信をかけた演出がなされるものだが、今の中国のありかたの縮図を見たようで興味深かった。隠されたメッセージも数多くあった。

開会のカウントダウンが24節気で行われたのは日本人にとっても興味深いものであった。そのすべてを知らなくとも立春、夏至、秋分、冬至や雨水、大暑などのどこかで聞いたことがある節気の名前が出たことは親しみ深いものであった。

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実はこの節気というものは古代中国の中原地域の気候を基準として命名されており、日本の気候とはずれがある。それでもこれが使われているのは中国の文化的な影響力の強さを意味するものである。時間的に我が国は古代中国の文化圏にあることをこのイベントは再認識させる効果があった。

中国の文化的な蓄積はやはり大きい。しかし、現在の中華人民共和国がその正統であり、他国のものは亜流と考えるのは間違いだ。二十四節気もそうだが古代中国から受け継いでいるものは、現在のどの地域のものに対しても共通の祖先であり、本家分家ではない。

日本の節気には土用や八十八夜のような雑節と呼ばれるものもある。日本の気候との齟齬を埋めるための工夫である。このような考え方はおそらく、他の国や地域にもあるはずだ。それを亜流とするのではなく、適応と考えるのが文化史的には正しい。

文化の話になるとどうしても歴史的な展開と、価値観の話が混同される傾向にあるが、この点は峻別しておかなくてはならない。

環境の提供

 リモート学習の評判は概してよくない。効率、品質などあらゆる面でリアルの授業よりも劣るからである、この事実を踏まえて次の改革はなされなくてはならない。

 うまくいかない原因の一つは技術的な問題である。社員が話し合えばいいだけのリモート会議とは異なり、学校の授業は教員が伝達する場面が多い。また、1対多の局面では個人差を常に配慮しつつ進める必要があるが、現況ではそれが難しいのだ。

リモート学習は効果が上がらない?

 通信教育はリモート学習が始まる前から同じようなことをしてきた。通学困難な生徒にとっては通信教育はありがたい学習機会の場であり、勤労学生の支えでもある。そして、一定の効果をあげている。ただそれが学校の授業と置き換わったときには話が変わってくる。

 学習カリキュラムを人工知能が個人別に判断して、個個別別の授業をするというプログラムもある。こうなると現場に教員はいらず、自分にあった内容を自分のペースで進めることができる。理想的なようだが、実際に行っている人に聞くと、効果を発揮できる人とそうでない人に分かれるという。また、まったく教員がいない状況で運用すると効率が低下するらしい。

 つまり、技術的な問題が解決すればコンピュータを介した学習方法は効果的だが、単にハードとソフトを用意すれば事足りるという訳にはいかないのだ。

 学習という行為が多分に感情や情緒の影響を受けることを再確認しなくてはならない。リモート学習が嫌いだという生徒の意見には仲間がいないとやる気が起きないというものがある。至極もっともだ。仲間は仲良しとは限らずときにはライバルであるかもしれない。それも学習意欲の亢進には不可欠なのだ。

 すると学校の役割は学習意欲を掻き立てる環境を提供することになる。環境といってもものだけではない。雰囲気であったり行事であったりする。一人では決してできない集団の行動を用意することが学校の役割なのだろう。

 いわゆる一流校と呼ばれるものは、それが備わっている。授業は実は他校とそれほど変わらないか、場合によってはいい加減であったりする。それでも結果を出すのは学習行為を発動する要素があるからなのだろう。

 学校関係者はこのポイントを外せないし、受験生も偏差値ばかりに気を取られるべきではない。

感染者差別

オミクロン株の流行が想定以上であるので医療機関はすでに対応が難しくなっている。いわゆる陽性判定にしても、検査をしなくても医師の判断で出せるようになったようだ。みなし陽性というそうだ。これにはいろいろな問題があるようだが現状を乗り切る手段として敢行されている。問題なのは陽性と判定された人々への周囲の心理的な問題にある。

パンデミック初期の頃、感染は対策をせず無節操な生活をしている者が罹ると報じられてきた。飲酒や深夜の会合などの関係者に感染者が出たからだ。しかし、よく考えてみるとそれは条件の一つに過ぎず、その頃でも原因は分からないが感染した人もいた。極端で分かりやすい例が抽出されて報じられたのだろう。

コロナ禍は人の心も蝕む

ただ、こうした見解はすぐに普及しやすい。不注意が感染を招く。感染した人は用心が足りない人だ。あるいはさらに進んで社会常識にかけたり、反社会的であったりするのだと。そういう人が含まれていたとしても、それが必要十分条件ではない。そうでない人も感染したのだ。

オミクロン株の感染に関してもそのときの誤解がまだ解けない。感染した人を悪し様にいったり、言わなくてもそのように考え、有形無形の差別をする人が少なからずいる。私たちの科学的認知の限界を見せつけられている。

逆もある。本当かどうかこれこそ怪しいが、報道によればコロナウイルス流行は何者かの陰謀であり、マスクをする必要などないと主張する団体があるのだという。デモ行進までしてマスクを取ることを訴えたとか。フェークニュースでないとすればこれも逆の意味で冷静な判断ができなくなっている例であり、差別の変化型である。

現実を整理し、冷静に判断する必要がありそうだ。また、影響力のある方々には繰り返し科学的な知見を説明してほしい。これは分かりやすいほうがいい。またその知見も解明が進むごとに更新されるものであることを訴えてほしい。おかしな差別を防ぐためにはまずはそれだろう。そして一人ひとりのリテラシーをあげるということを続けなくてはならない。

戦争回避を

 ロシア軍がウクライナに侵攻するのではないかという憶測が出ている。オリンピック終了がその機会であると具体的に考える人までいる。ロシアがウクライナの領土を求める理由はいくらもあるというが、それも逆から見れば別の論理になる。どんな釈明が成立するのだとしても戦争は回避すべきだ。

 ウクライナの歴史といえばクリミア半島をめぐるロシアの執念が想起できる。世界史の授業でもこの件は大きく取り上げられていたので知っている人は多いだろう。私もその程度の知識しかない。もともとこの地にはウクライナ人のほか、多くのロシア系、ベラルーシ系の人が住み、さらには隣国のモルドバ系の人や、モンゴル帝国にルーツを持ちイスラム教徒のクリミア・タタール人、さらにはユダヤ人もいるという多民族国家だ。だから、ロシアに対しての思いも様々であり、中には独立もしくはロシア併合を望む国民もいるというから複雑だ。

黒海沿岸は複雑な歴史を持っている

Irina KushnikovaによるPixabayからの画像

 どこの国でもそうだが歴史の積み重ねによって多様な人々が同じ土地で同居しており、それゆえのトラブルもある。しかし多様性はその地域の強みにもなり、うまく生かせれば利益を生むことの方が大きい。おそらく、かなり長い年月をかけて現在の国民国家という枠組みはなくなっていくのかもしれない。夢のように長い物語の末の話だろうが。

 戦争による現状の変更は一時的には達成できても長期的には無駄になる。多くの人的犠牲が出るし、怨嗟はいつまでも続いて別の戦いの種となる。それは歴史から学ぶことができる教訓だ。ウクライナは確かに複雑で一筋縄ではいかない。しかし、性急に力による変更を加えてもゆがみが大きくなるばかりなのだろう。関係国の思惑がさらに話を複雑にしている。

 日本人としてできることは少ないが、戦争の不毛さは訴えることができるだろう。この国もかつて戦い未だにその傷が癒えない。確かに経済的には復興できたが、隣国からは時に恨まれ、結果的に大きな損失を受けている。やるべきことは戦争ではない。ほかの方法を考えていただきたい。