理想的な第2の職

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 そろそろ第2の人生を考えなくてはならない。私の場合すでに大きな転職を経験しているので実際には第3の職かもしれないが。

 私はもし経済的な支えが担保されているならば、地方に住み、才能があるが経済的な困難を抱えている子どもに希望を与える職に就きたいと思っている。志を同じくする人がいればその配下になることも厭わない。日本は教育立国であり、それがなくなればすぐに滅びていく。現在の「先進国」気取りはすべて先輩たちの努力の賜であり、その恩恵で我々はかりそめの優越感に浸っている。

 お客様気取りでサービスばかりを要求するようになってしまったいまの日本人には教育が最後の砦だ。もちろんエリート教育も大切だ。しかし、恵まれた環境になくても学問さえ積めば現状を打開できる。利他的に生きることでみなが幸せになれる。そのリーダーを養成するということは何よりも大切ではないか。

 現在の自分は日々の生活に追われ、夢や希望を大切にせよと他者には語りながらも、自身は挫折感に日々苛まれている。まずはこれを変えたい。私には資金もないし、若くもない。これから何かを始めるにはあまりにも条件が悪い。だが、それでもできることはあるはずだ。

 そういうことを実践している方がいれば、お話をお聞きしたいと思っている。そろそろ次のことを真剣に考えなくてはならない。まだできる挑戦はある。

戦争抑止効果

北京オリンピックが閉幕した。さまざまな問題も指摘されたが無事に終わったことは評価すべきだ。スポーツの祭典であるから、話はスポーツのことに集中すべきだが、いまはその状況ではない。

ウクライナ情勢に関してはオリンピック終了後が危険な状態になると予測されていた。報道によればウクライナ国内の親ロシア派の武装勢力が示威活動を始めているという。ロシアが戦端を切らなくても、開戦の大義名分はいくらでも用意できてしまうのが現状らしい。

オリンピックの開催期間中は戦争をしないという約束が効果を発揮したとしたならばこの行事は一定の効果を発揮できたと言える。ロシアやウクライナの選手が冬季競技に関心がある国であることも奏功したかもしれない。

戦火にさらしてはならない

これからが重要な局面だ。精神的な抑止が一つなくなったことがどのようにこの先の展開に関係するのか予想できない。これも報道によれば、ウクライナもロシアも自分のほうが被害者であるという意識をもっているらしい。一方的な侵略戦争よりやっかいな相互憎悪の関係がある。さらにはEUやアメリカの利権も絡む。語弊を恐れずに言えばさらに多様なステークホルダーがこの戦争を利用しようとしているようだ。

戦争で得られるものはない。

熟考する力

深く考える余裕がないのか

おそらく多くの人が考えているのではないか。今の教育は情報処理能力にあまりに傾きすぎているのではないかと。私もその一人だ。

例えば先日の大学共通テストはさまざまな改革の末に生まれたといいながら、センター試験以来の問題数の多さを保ち、それ以上に増えた科目もある。試されているのは時間内にいかに多くの問題を処理するかということであり、反射神経や要領のよさが測定されている。

一方で、果たしてこれが正解でいいのだろうかと思う設問もある。他の選択肢が不正解であるから問題としては成立しているのだが、その正解が絶対正しいのかと考えると疑問があるものもあった。これも過去の問題と同じだ。受験生は消去式という情報処理の方法を活用すればよいのだ。なにか腑に落ちない。

ほかの局面でもよく考えずにとりあえずの正解を見出すことに終始することが多い。忙しい現代を生き抜くには必要なスキルであることは確かだ。しかし、この方面はむしろコンピューターが得意とする分野である。人間はもっと深く考えることや、いままでにない一見間違っていると思われるものを再検討する思考力の方を鍛えるべきではないだろうか。

熟考する力をどのように育成するのかは決まったノウハウはない。個人の資質に負うところが多いとされ、一斉教育の場では省略されていると考えられる。だが、もしかしたら今後もっとも大切にされる能力になるかもしれない熟考力を中等教育で教えないのは根本的な間違いではないか。せめて時間をかけても、結果が出なくてもよく考えることには意味があるということだけでも伝える機会はあったほうがいい。

教育ロボット

先生はアンドロイド

 ロボットが教育現場に必要だとしたらどんな場面だろうか。現状で考えられることを挙げてみた。

 すでに取り入れられていることに採点作業がある。マークシートのような人間の方が機械に合わせたような仕組みはかなり早くから行われている。最近は手書き文字を判別して採点することはある程度はできる。悪筆だと誤判定するのでここでまた字は丁寧にという指導が入ることになる。結果を分析したり個々人にコメントしたりするのはコンピューターの得意分野だ。これをロボットと言えばすでに教育現場にロボットは不可欠だ。

 おそらく大半の人がロボットと言っているのは、人や動物などの形状を持ち、ある程度自律的に動く、もしくはそのように見える機械のことだろう。こうなるとまだ導入例は限られている。癒しを目的としたペット型ロボットは低学年の情操教育にある程度効果があるかもしれない。本当の動物のようにはいかないが。動物が飼える環境のある学校は少ない。

 もっと教育内容に関係する使い方はあるか。またプログラムのレベルに戻るが、個人の習熟度に合わせて教材を提供し続けるシステムはすでに実用化されており、有料サービスとして展開している。これは人工知能が入力された解答の傾向を分析し、それぞれにあった次の教材を提供するシステムである。

 これを運用している会社は必ず指導員を配置する。機械の操作方法の支援というよりは生徒の学習態度の監視役である。叱咤激励するのは今のところ人間の砦らしい。

 教育ロボットはこの砦を必ず切り崩しに来るに違いない。感情制御のパターンを認識すれば人間の牙城は崩れることになる。人嫌いだがロボットになら話ができるという子どもが増えるのを考えるとぞっとするが、コミュニケーションが苦手な現代のニーズは高いかもしれない。

 先を述べすぎた。いまでも教室にもうひとり教員仲間がいてほしいと思う場面は多々ある。ティームティーチングを行う人材も準備時間もないならば、ロボットにもうひとりの自分を演じてもらえれば助かる。自分が二人いるというおぞましい状況は、やりよう次第では効果的な教育になる気がする。なんとか教員の地位を守りたいという願望のなせる幻影かもしれない。

共通体験の担保

 世代による共通の体験というべきものを探すことが難しくなっている。こんなことを見た聞いたやったという共通の経験は少ない。その意味ではここ数年、マスク生活になったことは稀有なことかも知れない。

同じ本を読む経験も必要だ

 もちろんこれはある意味喜ばしいことでもある。生活が多様化し、様々な価値観が並列する時代にあるといえるからだ。選択肢が多数あるからこそ、共通の経験を持つ者の数が減るわけだ。

 読書経験についても同様のことが言える。同じ本を読む経験が減るのは、読書以外の楽しみがあるからだということだ。

 ただ、ある程度は共通の教養がなければ様々な困難が発生する。同じ思考の根本にある読書経験がバラバラだと共感したり協調したりすることが難しくなってしまう。あの話のように、という比喩は使えなくなる。それは結構困ることだ。

 学校の国語の授業で全員に同じ話を読ませるのはその意味では共通体験の担保をしているのだとも言える。それがどんなに退屈な経験であっても、それに触れたと言う経験は一定の意味を持つ。

 よく、無理やり同じ話を皆に読ませても無意味だとか、関心のわかない読書をさせるべきではないという人がいる。一理あるが別の見方をすれば、それなりの役割を果たしていることに気づくはずである。

筆圧

万年筆のすすめ

 私は決して字が上手くはないが書くことは好きであり、手書きする機会は一般の人よりは多いほうだと考えている。最近、痛感しているのは筆圧が肝心であり、それを意識するには万年筆で書く機会を作ることだということだ。

 筆圧を調節することは意外に難しい。鉛筆やボールペンなどは筆圧の加減をあまり意識しなくても書ける。ただ、多くの場合筆圧が強すぎると筆先の制御が難しく意図した字画が書けない。結果として下手な字と認定されることになる。

 筆圧に敏感な筆記具を使うようにすればこの事実に気づくことができる。一番いいのは毛筆だろうが、すぐには用意できない。筆ペンもよいがいつも筆ペンを使う人は少ないだろう。万年筆はその点、日常使いができるのでよい。日本のメーカーが作っているものの中には筆のようにしなるペン先を持っている製品もある。

 万年筆で字を書こうとするといつもより力を抜かないと上手くかけないことに気づく。すると、いつの間にか力が抜ける。この感覚を他の筆記具でも援用すると思い通りの字画が書けるような気になる。これが大事だ。

 安い万年筆もたくさんある。インクが途切れず出るものであれば、上記の目的は達成できる。私がようやくたどり着いた境地だ。

古典の教え方

古典は暗号解読ではない

 ここ数年、古典を中等教育の段階でどのように教えるのか悩んでいる。単語や文法の知識を習得するのは大切であるがそれを目的とするのでは本来の古典教育の目標に届かない。

 古典を通して古人の価値観や行動様式を知り、それを現代社会と比較することによって新しい知見を得ることは古典学習の本道と考える。決して暗号解読ではあるまい。ならば、そのようなことを学ぶ機会が学校に用意されているのか。私は不十分と考える。

 文化史的な視点をもっと取り入れてもいい。そのためには入試問題をただの解釈だけを問うものではなくしていただきたい。具体的な方策は今後述べていきたい。

再起

再起はいつでもできる

 日本ではいまが入試のシーズンだ。すでに受験が終わり、結果も出たものもあるかもしれない。その中にはうまくいかなかったものもあるかもしれない。私もそういう経験をいつくも重ねているので、それなりに残念な気持ちは理解できる気がする。もちろん本人でないと分からないことのほうが多いはずだが。

 試験の結果は人生の方向を変える。それだけに結果にこだわるのだ。でも、よく考えてみれば方向はその時に変わっただけのことであり、それでも前に行きたいのなら行けばいいのだ。隘路は少々進みにくいが目標がもっと遠くにあるならば辿り着けるかもしれない。

 別の向きを見たことで開ける風景もある。あるいはそちらの方がよかったということもしばしばある。多くの場合、それは後になって気づく。

 試験の結果を人生の分岐のように言う人は多い。以上のような訳でそれは半分正解で半分は当たっていない。落ち込むより次を考えた方がよい。試験ですべてが決まるような時代はかなり前に終わっているのだから。

チョコレート

 バレンタインが告白の日となった歴史はさほど古くはない。もともとキリスト教圏で行われていたバレンタインデーの習慣は性別にかかわらず、贈るものも特に限定されず愛を伝えるためにプレゼントをする習慣があったという。日本に導入するにあたって製菓業者が女子が男子に物を贈る習慣のない日本の新しい行事として宣伝したのが始まりだったという。いまは告白の目的でこの行事を過ごす人は少ないと思われるが、愛情の確認というよりはつながりの維持のための手段として定着している。

チョコレートには物語がある

 チョコレートの原料であるカカオ豆の生産国はアフリカと中南米、インドネシアなどである。生産者の報酬は少なく、甘味どころかかなり苦いものであると言われている。フェアトレードの運動はさまざまな方面でみられるがこのカカオについてもそれを考えなくてはならない。私たちが楽しんで食べているお菓子の歴史を考えなければならないのだ。

 カカオは特殊な環境に育つため、日本では生産できないとされてきた。それが小笠原諸島の母島で栽培に成功したらしい。現在は少数生産のためプレミアム扱いだが、日本でも生産が可能になれば新たな可能性が生まれるかもしれない。

 チョコレートをめぐる物語はまだいろいろありそうだ。

国際チームも

国旗のない国際大会もいいのでは

オリンピックは国と地域の代表という枠組みが大前提である。それには意味があるが、そうでないものも対極にあっていいのではないか。スポーツのあり方を考えると別の可能性がある。

チームスポーツは一体感とか連帯感が必要であるから、同じ共同体の成員で組むのが自然だろう。しかし、それが国籍である必要はない。国際大会が盛んな競技ではむしろ国を超えた仲間意識が生まれる可能性に満ちているはずだ。ならば、そのような試合をもっと盛んにするべきではないか。

国威発揚のために国家が税金などで援助している事実がある。マイナースポーツは特にその依存度が高いようだ。国を後ろ盾にしないと試合に出られないという事実があるのも確かだろう。それを克服するためにはどうすればいいのだろう。

チームごとにスポンサーなりサポーターを獲得する必要はどうしても出てくる。企業名の入ったチームになるかもしれない。一定のルールは必要だ。

運用方法には多くの課題があるが、国際チームで競技される試合が実現すればスポーツの新しい局面を見ることができる。人類平和のためにも貢献するかもしれない。