曲水の庭

曲水の庭

 今年の旧暦3月3日は、4月3日だそうだ。それなら桃の花も頃合いだろう。ひな祭り以前にこの日は禊の呪術が行われた日であり、宮中では曲水の宴が開かれていた。

 平城京左京三条二坊宮跡庭園にはかなり前に訪れた。その頃は発掘したままの形であったが今は本当に水が流れているらしい。文字通りの曲った複雑な流路を見て深く感動したことを覚えている。家持もここで詠歌することがあったのではないかと。宴席歌と庭園の関係について関心をもったのはこれを見たからだった、

 曲水の宴は観光行事でしか行われなくなった。ただ、その原点である禊の考え方はどこかで続いている気がする。流し雛も環境問題に反するのでそのままの形ではできない。ならば現代文明の粋を集めて架空の川を作り、そこに穢れを流したい。流した穢れが別の誰かを穢すことがないよう。注意深く設計して。

 雛人形の抱える歴史をこの機会に思い返したい。

できないことをする人

 自分ができないことをする人に対する賛辞を忘れてはならないと思うことが増えた。その背後にある時間の濃密さを僅かながら考えることができるようになったのかも知れない。

 どうしても自分の能力ではできそうもないことをやってのける人にお会いすると感動することが多い。職人と呼ばれる人の中にはこうした技の持ち主がいる。世の中が効率化や平準化に向かう中で。自分なりの信念を貫いて仕事をする人は特に惹かれる。

 技の裏にはそれを完成するまでの長い努力があり、それを維持するための継続的な意志がある。実はその見えない時間の塊に私は感銘するのだろう。

 そういう人たちが必ずしも評価されていないのが現代の問題点ではないか。もっと正しいものの見方をしなくてはならないとつくづく考える。

3月

3月です

 今日から3月が始まる。私の職にとっては年度末であり、色々な変化が一気にある。

 なかなか終わらないコロナ対策の日々、始まってしまった大国の関与する戦争、花粉症への対応とまずは基盤にある問題を切り抜けなくてはならない。

 それに加えて業務のまとめと引き継ぎ、非定期の案件の対処などやるべきことが多い。何から手を着けるべきなのか。考える暇もないほどだ。

 もし10年前の自分なら残業や休日業務などで切り抜けたはずだ。いまはその体力が足りない。その日できても後が続かない。いまはできることからやる。できなければ諦めるという体たらくだ。

 でも、結果的にはその方がいいのかも知れない。ゴールを欲張らず、大切なことだけを完全にしたほうがいい。そう考えることにした。

花粉症

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 このところ気温が上がり、春の気配が体感できるようになっている。この時期はスギ花粉によるアレルギーが心配だ。日本列島に住み続けてきた人種はこの花粉症に対する抵抗力が弱いらしく私も例外ではない。毎年苦労する。

 花粉より遥かに小さい新型コロナウイルスからの防御のため毎日マスクを着用している私たちにとって花粉症への対策は大体はできているはずだ。だが、先日、目のかゆみを感じ、くしゃみをいくつかした。確実にアレルギーが迫っている。

 昨日から対策薬を飲み始めた。無駄な抵抗かもしれない。

春眠

春眠暁を

 昨日は気温が上がったこともあり、疲れが出てしまい誠に眠い一日だった。睡眠時間がかなり長かったと思う。

 実はやらなくてはならないことが山ほどある。それをすべて放棄して眠りこけてしまった。情けない。

 いや、かつてなら臆病な私はこんなに上手い現実逃避はできなかった。うっかり寝たときはしばしばあったが、その後の焦燥たるや凄まじいものがあった。いまはなんとかなると割り切れる。これが年の功というものなのだろう。

 ものは考えようだ。怠惰になったとも言えるし、余裕が生まれたとも言える。すべては春の陽気のせいにしてしばしは身体を休めることとする。

キーウ

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ロシア軍はウクライナの首都キエフをほぼ占領したという。圧倒的な軍事力の差を見せつけられている。これが大国の戦争の仕方なのだろう。すでに多くの犠牲者が出ているらしい。報道されていないものもあるはずだ。これ以上の被害が出ないことを心から祈る。

キエフと書いたがこれはロシア語による読み方であり、ウクライナ語ではキーウの方が近い(私にはキーユと聞こえる)。反ロシアの意味を込めて、アメリカのメディアはKievではなく、Kyivと表記しているようだ。日本のメディアもキーウが見え始めている。

キエフといえばムソルグスキーの「展覧会の絵」というピアノ曲(オーケストラ編曲もある)の終曲がキエフの大門と訳されている。この街には印象的な建物や彫刻が多いらしい。借りてきた上の写真も勝利の像という女神像だ。これらは無事でいるのだろうか。

この街は何度も戦火にあい、そのたびに復興している。たくましい街と言えるが、こういうことは繰り返さないほうがいい。

戦いの扉

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ロシアの侵攻が止まらない。その中で我が国でも本格的な軍備をすべきだという議論が出てきているようだ。人類の歴史は時に振れが大きくなる。平和の反動で戦争が起こることもある。それが恐ろしいことだ。

無責任に軍拡を唱える人はおそらく戦場に立つ勇気はない。人殺しが公認される戦争は私たちの想像を超えている。誰もが戦うことは恐ろしいと考えるのに、戦わざるを得なくなるのが人類の進化上の限界なのか。

戦いの扉はいとも簡単に開かれてしまった。扉の向こうから強烈な吸い込みが起きている。いろいろなものが戦場に引き込まれていく。高みの見物を決め込むはずが、いつの間にか関係者になっている。戦争というものの吸引力は凄まじい。

戦争に対して私は無力だ。せめて、反戦の気持ちを書くことで、密やかな抵抗を試みる。この戦いはすべての人を不幸にする。どちらも敗者になる。ロシアのような大国が戦争をしてしまったことが残念でならない。

教員の知り合い

知り合いに先生はいますか

 我が国では教員の知り合いを持つ人の割合が国際比較で低めであるというニュースを読んだ。自身が教員なのでこの記事の信憑性には疑問を持つが案外そうなのかも知れない。

 教員の数自体は少なくない。ただ、教員が多忙のあまり異業種の人との関わりを持たないことが、先のデータの理由の一つだと記事はまとめている。

 そう言われると同窓会にもしばらく行けていないし、保護者を除けば教育関係者以外の方と話す機会は限られている。労働時間が長めなのもあるが、そもそも異業種交流の場が少ない。

 もちろんこれは教員に限らないはずだ。コロナ禍に見舞われてからはさらにその傾向は強くなってしまった。これは教員にとってはかなり問題である。

 学校は社会のあり方を教える機関だ。その現場にいる人が社会を知らないのは自己矛盾そのものではないか。長期的に見て大きな損失といえる。

 ならば教員に研修に行かせようという発想は役人が考えて来たことだ。そしてそれは進まない。参加者にも中長期的な効果が出ない。単発のイベントでは多忙に拍車をかける残業に過ぎないからだ。

 教員の業務的な軽減を図るとか、異業種体験を業務の中に取り込むといったことをやってもいいと考える。私のような世間知らずではなく、いま何が必要とされているのか分かっている人が教えれば、授業はおもしろくなるはずだから。

叡智を

 ウクライナの内線に乗じて戦争が始まろうとしている。この手法は太古以来の伝統的なものであり、回避すべき策を探さなくてはならない。

 この戦いの背景にあるのは双方にある被害者意識だという。いずれも過去に侵攻され、多くの犠牲が出ている。その恨みが解消されないまま、現代に至っている。容易ではないが、まずはこれを直視するしかない。

 ウクライナ戦争の動向は今後の世界情勢に影響するという識者もいる。武力行使による現状変更が許容されれば、世界各地で同様のことが起こりうるというのだ。第三次世界大戦ご始まると煽情的な表現をする人もいる。

 戦争は政治的にも経済的にも割に合わない愚挙であり、それ以前に殺人が正当化される事態が出来することはなんとしても避けなくてはならない。過去の歴史が示すようにこれは後世に残る深い傷となる。

 平和交渉に係る叡智を集めるべきだ。日本は近代戦争を経験した国として、この方面に活躍する人材をもっと輩出すべきだと考える。

短くても面白い話を

どうしたら古典文学に関する関心が高められるのかを考えている。それはやはり読んで面白いという体験が不可欠のように思う。そしてそれをどのように提供するのかが鍵のようだ。

古典が好きになれないという生徒の大半は学ぶ意味がわからないということにある。こんなことをやって何になるのだという人もいる。その分をコンピューターのプログラミングに当てたほうがいいとまことしやかにいう人もいる。そういう人の多くは大切なことを飛躍して考えている。言葉に対する興味や、文化への関心がないままプログラミングができるのだろうか。できたものが他者に受け入れられるレベルになるのだろうか。

私がその方面に疎いから説得力がないのかもしれないが、プログラミングを少しだけ学んでみてそこで説明されている言葉の未熟さに驚くことがある。説明の仕方を少し変えるだけで簡単になるのに、易しいことを難しく言っている。プログラミングはできるのにどうして説明が下手なのだろうか。

言葉はつながっている

言葉に対する関心は日常語だけから生まれるのではない。現在私たちが使っている言葉が基盤としている言語的な財産というか遺産というべき古典の世界から受け継いだものも大切だ。例えば「思う」という動詞の抱える守備範囲は”think” や”想”とは異なるが、それをたとえば和歌の中にある「思ふ」の用例と比較すると、その違いが見えてくることがあるのだ。

ただ、私もいまの古典の教育があまりにも解読(あえてこう言いたい)にこだわりすぎているのは問題だと考えている。文法も語彙の習得も大切だがそのレベルのことは今後はコンピューターがやってくれるのではないだろうか。大事なのはそこで何が述べられているのかを数多く知ることにあるのではないかと考えているのだ。

そのためには何をすればいいのか。まずは、さまざまな内容の短く読みやすい古典作品を提供することにあると考える。たとえば先程とりあげた日本語の「思う」の持つ歴史をさまざまなエピソードをあげて読み流すようなテキストがあるといい。短くて読みやすく、しかも面白い話を集めること。それを体系的に並べること。それが私の当面の課題となりそうだ。