今日の日付を見るとやたらに2が多い。今月の22日にはまた一つ2がふえるが、今日の方がスッキリしている気がする。こういうのは単なる数字の並びの問題でありなんの意味もない。そうとは分かっていても何か特別な意味を考えようとしてしまう。
よく見ると202の組み合わせが3つある。だから何だと言われれば答えようもない。語呂合わせしてみようと考えたが思い浮かばない。もう夜だから思いついても手遅れなのだが。

日々の思いを言葉にして
古典を読んでいると自分の名前を一人称として使う例がたくさんある。ごく普通のことだったようだ。この言い方には実は隠れた効果があるのかもしれない。
現代において大人が自分の名、それもファーストネームを使って一人称としたらかなり奇異な感がある。教養がないか、自意識過剰なのではないかと考えられるはずだ。その前に失笑されるに違いない。私たちにその習慣はない。幼い子どもを除いて。
一方で別の意味から自分の名を自分で呼ぶことを推奨する場面がある。苦境に陥ったとき、自分を励ます方法として。自分の存在をメタ認知して俯瞰した自分から眼下の自分対して呼びかける方法なのだという。
ドラマの登場人物などが台詞としてそのように言っていることはよくある。でもいざ私にもできるかと言えば、何かどこかに抵抗がある。
自分の名前を読んでみる練習がいるのかもしれない。はじめは違和感ばかりだがそのうち自然に言えるはずだ。おそらくそれが天上の自分が完成したことを意味するのだろう。少し試してみたい。
オミクロン株の爆発的な感染は身近に迫っている。知り合いの中にも感染したという人が増えてきた。以前はニュースでは騒いでいるが周囲にはいないというレベルだったが、今は身近な危機である。咳がでるたびに自分も感染しているのではないかと思う。精神的にはすでに健康ではない。
などと書いてしまうと、この文章の趣旨と異なってしまうが、あまり危機を煽りすぎるのは問題だといいたい。確かに未知のウイルスの展開には注目していかなくてはならないが、すでにその道を歩いている以上、これ以上脅しを入れても意味がない。ぬかるみはあってもしっかり歩けば必ず次の場所に着くのだということを確認していかなくてはならない。
マスメディアは煽りの記事でアクセスを増やしている面がある。また個人のソーシャルメディアも不安を垂れ流すことで、その周囲もまた不安に陥る。不安なのは確かだが、それ以上の希望も積極的に発言していかなくてはなるまい。
近年、不安が遠因となったと考えられる凶悪犯罪が散見されるようになっている。罪は憎むべきだが、それを醸成している世情にも原因を考えるべきだ。長い平和の期間に私たちの耐性は落ちている。もっと大変な環境で生きている人々はいる。

やせ我慢も大切だろう。そしてそれよりも明るい方面を開拓するものの考え方も身につけていかなくてはならない。苦しい時こそ笑顔になれとは先人の教えだ。そういえば人を笑わす技術というものを教える機会はほとんどない。教わるものでもないかもしれないが、何もなければ生まれないのも確かだ。もっと笑いに注目してもいいのではないか。もっとも、誰かを笑わさなくては減点などというシステムができたら本当に笑えなくなるが。
昨日まで何度考えても分からなかったことが、今朝ははっきりと理解できる。そういう経験がたびたびあるようになった。特に近年はその経験が多い。
悪戦苦闘して結局答えが出なかった経験は、よく考えてみれば午後のことが多い。最も仕事をしなくてはならない時間帯に効率が落ちてしまう。
恐らくその原因はいくつかある。誰でもそうだと思うが、やらねばならないことが複数ある時、個々の事例に対する注意力は低下する。飛び込みでやるべきことが入るとさらに混乱を極める。午後はそうなることが多い。
加えて、これが一番の要因と考えるのだが、脳の体力の問題である。朝にはあった体力が昼過ぎには消耗している。だから同じことをやっても捗らない。足の疲れならばすぐに実感出来る。それが脳の働きとなると自覚するのが遅れる。脳で判断しているのに脳のことが分からないとは皮肉な話だ。
だからやはり古人の伝えの通り、やるべきことは朝やるべきなのだ。歳を重ね体力が落ちるとそれを実感する。若い人も恐らく同じだろう。気づかないだけだ。夜の方が捗るという人もいるが、自己暗示にかかっているのだろう。暗示をかける余裕すらなくなった私はやはり朝に賭けるしかあるまい。
オミクロン株の感染力は凄まじい。感染者数の発表に関してはまた実感のわかない大量の域に行ってしまった。いろいろな人が感染する中で、考えなくてはならないことがある。
組織の中で重要な役割を果たす人が何らかの事情で行動できなくなったときどうすればいいのだろうか。組織全体の力が低下してしまうというのは避けられまい。でも、バックアップするシステムを作っておけば被害は抑えられる。それどころか、現状打破の糸口になる可能性さえある。

そのためには複数のチームを持っておくことや、誰もがリーダーの視点を持てるような組織づくりを目指す必要がある。かつては日本は上下関係を基本とする個人間の関係が組織の基本になっているといわれた。いまでもその影響は多分にある。
この国難を機に組織のあり方を変えていくのもよいのではないか。
駅のアナウンスなどで使われる機械による音声案内が、最近範囲を広げている。かなり人の声に近づいているものの、やはり味気なさを感じてしまう。
電車の接近を知らせる放送はかなり前から機械の声になっていた。明瞭でありブレがないのはよい。微妙にアクセントや間が不自然に感じるのは許容してしまう。
車内に流れる次の駅の案内は人の声の録音が多い。路線によって少しずつ違うのはそのためだ。個人的には東京メトロ半蔵門線の案内の声はとてもよいと感じている。
コロナ対策感染予防を呼びかけるアナウンスは機械音声であり、かなり不自然に聞こえる。これなどもプロに委託すればよいのにと思う。安心度が違う。
先日、常磐線に乗ったところ感染予防協力を呼びかけるアナウンスが、沿線のラグビーチームの選手と外国人監督だった。それぞれ日本語と英語のアナウンスをした。おもしろいアイデアだと思った。